大越凛太朗【皐月賞前段⑩】

「エクリプスの名前すら知らなかったような小僧だからね。乾いたスポンジをバケツに落としたみたいなものだ」

 そうして自身のこめかみを指で叩くような仕草を見せる。

「馬を育てることと速い馬を作ることは違う。ジャパンカップ以降抱えていた疑問への解答が、それこそそこら中に、当たり前に並んでいるんだ。牧場の中を歩いているだけでも常に何かに気付されて、気付くたびに興奮した。身体はしんどかったはずだが、辛いことより感動してばかりだった記憶が先に浮かぶ」

「まだ高校生くらいでしょうに、向上心の塊みたいな子どもだ」

「自分の正しさを確信できたことが嬉しかった、それだけだ。あの日あの時に家を出ていなければ、今の自分はいない」

「日本の競馬史が変わりますね」

「その通りだ」

「少しは謙遜してくださいよ」

「言った通りに芯の部分はアメリカ育ちでね、謙遜が美徳だとは思わない」

 とはいえ照れ笑いは隠せていない。根は北海道のオッサンなのだ。

「ラトナの、アマツヒの母の母の母父、と言って通じるかね?」

「申し訳ありませんが、血統には明るくないので」

「いいさ、当時私が初めて買った馬なんだ。フランスダービーを勝った馬の仔で、自身も結局アメリカでG1を勝った」

「牧夫の身で馬を買ったんですか?」

「勿論他人の金だよ。スポンサーがいたんだ。私は二万ドル以内の予算で馬を見立て、買値を稼ぎ終えたらそれ以降の賞金から二割を貰うという契約だった。向こうに行って三年目のことだ。金持ちの道楽もあっただろうが、それなりに認められた上での、ある種のテストだったんだろう」

「結局いくらになったんです?」

「買値は一万五千と少々で、最終的には六十万ドル近く稼いでくれたな。私の手元には十万ドル程度の額面が入った」

 アメリカンドリームそのものといった話だが、語る表情にはまだ変化がない。

「それで、続きは?」

 だから俺もその後を促すように言った。今の宮代ファームの状況を考えれば高々十万ドルの勝ち程度で話が終わるはずが無い、となればこの話には続きがある。

「何より得をしたのは、オーナーはこの馬が種馬になる可能性をまるきり考えていなかったことだ。一万ドルぽっちの安馬がそれだけの大物になると考えていなかった。だからこちらの提案も断らなかった」

「どういうことです?」

「本当は三割だったんだよ。当初オーナーは賞金の取り分を七対三にしてくれると言っていた。それを私から二割に減らした。その代わり、この馬が引退し種馬になったらその権利を全て貰うという約束で」

 その時の宮代明は自慢気な表情を隠しきれていなかった。

「気でも狂ったかと笑われたが、少なくとも、結果を見れば百万ドルでも日本に連れて行けなかっただろう種馬をたったの五万ドルだ。だから、彼が稼いだ十万ドルもそっくりそのまま馬に使った。今度は初めから種馬にするつもりの一頭持ちだ」

「繁殖牝馬ではなくて種馬を狙ったんですね」

 力のこもった視線で俺を見返しながら、深く頷く。

「馬の質を上げるには何よりもまず種馬だ。一頭の繁殖牝馬から取り出せるのはせいぜい十かそこらだが、優れた種馬は一頭で数百の強い馬を作り、それを次の世代に繋げることができる。良質で多様な種馬を揃える事ができればめいめい大事にしているかまど馬の質だって自然と良くなる。そうすればこの国の馬産を、馬を、根っこから強くできる。そう考えた」

 宮代の成功要因は何より種牡馬ビジネスにある。本来なら日本に連れて来ることができないような海外の一流血統馬を古くから自前で調達し、国内種牡馬市場に投入し続けてきたことで、生産現場への影響力を強め、結果としてセリなどの販売経路までをも間接的に支配することに繋がった。目の前の宮代明が語っている経験はそのビジネスのひな形に違いない。

「二十歳の頃、一万ドルの彼を繁用する段取りの為に一度日本に帰った。まあ当然殴られたが、屁でも無かったね。なにせ昔とはすっかり立場が逆だ。彼の活躍で私の成功もそこら中に知られていて、彼の種付けの件で頭を下げに来る人がいるような状況だった。その気になれば繋養地なんて他所に幾らでも用意できるし宮代牧場にこだわる必要なんて無い。両親にそのままを伝えたら次の日には隠居の話がまとまったよ」

「まるでクーデターだ」

「それまで散々殴られた慰謝料代わりだ、安すぎる」

 宮代明は静かに、そっと、吐き捨てるように言った。

「当たり前の話だが、へその緒を切ってしまえば親も他人だ。俺はその時期を迎えるのが人より早くて、君は俺より更に早かった。そう割り切ってしまえ」

 空いた指先を慰めるようにナッツをつまんだ彼は、しかし自身もその言葉に納得している訳では無いのだろう。確証があるわけではないが、どこか空虚さを覚えるような間の取り方にそんなことを思った。

「そうですね」

 返す俺の声もどこか空回って響くと何もかもが噛み合わない。

 それまで淀みなく流れていた会話が止まると、ラウンジの彼方から、元気のいい子どもが走り回る物音とそれを止めようとする母親らしき人物の声が耳に入り、そうして、宮代明はふと苦笑した。

「そんなに綺麗にはまとめられないよな」

「そうですよ、どこまでいっても親は親。諦めないと」

 口から漏れたその言葉は愚痴だったのだろうか。自然と溜息がこぼれそうになったことを自覚すると悔しさがわいて、手元のグラスを一息に空けてしまう。

 暫く意識を逸らすために外の滑走路を眺めていたら、手元に新しいグラスが用意されていた。

「星でも見てたか?」

「まあ、そんなところです。牧場は星が綺麗でしょう」

「どうだろうな、星はあまり好きでないから」

「何故?」

「つまらない父を思い出す」

「ああ、それは地獄だ」

 もう笑うしかないという感覚だった。ワインなんかじゃ酔えるはずもないが、アルコールは入っているのだから、そのせいにして聞き流してしまえば良い。

「血統には疎いってことだが、基礎輸入牝馬の話は聞いた事あるかい?」

 きっと相手も同じなのだろう、グラスを勢いよく煽って空にするとおかわりを要求しながら話を続ける。

 俺は首を横に振った。

「血統図を辿っていくと漢字交じりの繁殖牝馬に行き当たることがあるだろう。この国に競馬という文化が生まれたばかりの頃に海外から連れて来た、つまりはこの国の競馬の母達だ」

「ああ、第何とか、星とか、そういう」

「宮代牧場にも一頭いたんだ。ちょうど星の名前の先祖を持つ肌馬が。弱小で預託と仔分けばかりの牧場の癖に、それだけは所有していて、父はそれをいつも自慢げに話していた。何か嫌な事があれば家族に暴力をふるって、その後で現実逃避みたいにその自慢話をするから、すっかりそういう印象が付いた」

「吐き気がする」

 俺は言った。

「全くだが、ラトナやアマツヒの遠い先祖でもある」

 宮代明は大きくかぶりを振って、笑いながら言った。

「国内も、海外も、良い肌馬を散々買い揃えたっていうのに、よりにもよって自分の家のかまどから一番が出やがった」

 楽しそうな笑いとは明らかに異なるが、弱さを感じさせるものではなかった。既に乗り越えた、葛藤を過去に出来たからこそ笑っているのだろう。何となくだが、そういう強さを感じさせる笑いだった。

「したから、つまらない親でも俺やあの馬を残したことだけは意味があった。そう認めてやることにした」

「赦した?」

「そったらこと解らん。けど、俺が成功出来た理由は間違いなく俺自身にある、そういう確信がある。もうこだわる必要が無い」

 徐々に訛りを強めてゆるくなっていく語調とは裏腹に、言葉に込められた芯は太く、強くなっていくのが解る。宮代明という人間の腹の底から湧いて出た言葉なのだろう。

「おめも、今やれることを死ぬ気でやれ。自分が自分になる為にはそれしかね」

 固く握った拳で俺の胸元を捻じ込むように押してから、一息にグラスを開けて立ち上がる。

「せば、次は中山で」

 礼を言う間も与えずに、手早く荷物をまとめるとコートを羽織って俺に背を向けている。気の早いオッサンだと苦笑いを浮かべながら背中越しに挨拶すると、ふと振り返り、

「馬のついでに有紀のこともよろしく頼むわ」

思い出したかのようにそんなことを言ってせかせかと立ち去った。酔いのせいで習慣が出ているのだろう、田舎の牧場で野良仕事に動き回るオッサンの面影が滲み出ている後姿だった。

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