大越凛太朗【牧場編①】

 奇妙奇天烈摩訶不思議とくれば奇想天外四捨五入と続くおじさん世代の呪文を唱えたくなるような体験をしてから一時間と少しだろうか、何故か俺は件の栗毛に跨っていた。

『チセが言うから乗せてやったんだからな、忘れるなよ』

 口の悪い栗毛は鞍上の俺に言う。

 頭が痛いなんて感覚がとっくの昔に通り過ぎると、やっぱり俺は無事に死ねていてここはあの世の地獄とやらじゃなかろうか、なんていう不思議な気持ちが湧いてくる。動物を虐待したヤツは何とか地獄に落ちるらしいが、俺は馬に鞭を入れすぎた罪状でその何とか地獄に落ちたのかも知れない。

「一周が一〇〇〇メートルのミニコースですから、本物の騎手さんには物足りないかも知れませんが」

 言いながら、遠慮がちに追い調教用の鞭を手渡してくれたのは、この牧場で会う事が出来た唯一の人間、いかにも牧童といった感じの芋臭い少女だ。

「俺、疲れてんのかな?」

 そもそも死に損ないなのだが、そんな風に尋ねてみる。

「顔色は良いですよ?」

 この子もこの子で大概すっとぼけた性格をしている。名前は茂尻ちせ、年は十八歳だが高校には行っていないとのことで、女子高生としての研鑽を積んでいないからなのだろうか、ひどく芋臭い。三食ジャガイモ食ってんじゃないかとか、そんな次元でとにかく芋っぽい。

「一応時計は取ってみますけど、初めてなので……失敗したらすみません」

 俺と目線を合わせないのは都会からやって来た割かしイケメンな俺に照れているのかもしれない、とか思っていると、

『ド腐れおポンチのビョーキ野郎が、チセに色目使うなボケカス殺すぞ』

栗毛からの暴言が飛んできた。馬だから当然だが、クソガキレベルの語彙力が言われる側としては唯一の救いだ。

「気にしなくて大丈夫、どうせ大したモンは出ないよ」

 ちせへの励ましに皮肉を混ぜ込んでやりながら、スタート地点へ手綱をやる。


 返しがてらのキャンターを終えても未だに実感は沸かなかった。何故俺は北の果ての北海道のそのまた果ての取り立てて馬産地でも無い辺鄙な牧場で馬に乗っているのだろうか。

 ゴール地点は現在地の反対側、要するに千メートルのコースを一周半、だから距離は一五〇〇。

「走ったことあんのか?」

『あるに決まってんだろ、舐めてんのかお前』

「人を乗せてって意味だよ」

 冬の入り口になるこの時期の一歳馬だ、ちせ本人も騎乗馴致は順調に終えていると語ったからこそ俺も乗った。実際馬具の類にはしっかり慣らされているようだし、鞍を付けても嫌がらないのだからコイツ自身は口の悪さと裏腹に頭も良い。

 だが、問題はそういう事ではないのだ。

「あの芋娘以外にスタッフいるのか?」

 ざっと見ただけだが牧場の規模は本当に小さかった。見かけた馬は牧柵の中にいたうだつの上がらそうな二頭とこの栗毛だけ、どころか、ここに来てから数時間で出会った人間はあの少女だけとくれば、自然と零細具合もしれようというもの。仮にちせに技術があったとしても、本格的な騎乗訓練に手を回せるはずが無い。

『……いねえよ』

 面白くなさそうな雰囲気は隠していないが、この時だけは素直に本当の事を答えたようだ。

「ま、いいさ」

 だから、俺も敢えて突っ込まずに流してやった。

 何も実家の貧乏ぶりを恥じる糞馬に気を遣ってやった訳ではない。

 ほとんど初めて人を乗せるような状態でこれだけ堂々としていることに素直な驚きがあった。ムカつくから誉めてはやることはしないが、頭が良いなんてレベルじゃない。そもそもからして人間と会話してる時点で知能レベルヤバい気がするけどそれはこの際置いておく。

「走りゃ全部解る」

 向こう正面のちせが手を挙げたのを合図に軽く追うと、栗毛は勢いよく飛び出した。生意気だが走る気持ちはいっぱしのものがあるらしい。

 牧場ののどかな風景が万華鏡のように流れていく、ほんの数日ぶりのはずの馬上の視界は妙に懐かしかった。柔らかな羽が頬を撫でるような、そんな風が吹いていた。


 一つコーナーを曲がり終えるまでもなく、ハミ受けが良い事には気が付いた。よほど丁寧な馴致をされたのだろう。ズブな古馬などよりよほど敏感にこちらの意図を把握している。が、それは裏を返せば丁寧に乗れという事でもある。性格については紛れもなくクソ・オブ・クソの本馬だが、意外にも繊細な扱いを要求してくる。

 テンの三ハロンは馬なりに走らせて16、15、14.5と言った所か。一歳馬など乗った事が無いから基準も良く解らないが気持ち良く走らせているだけでそれなりの風格は感じる。

「やるじゃん」

 漏れてしまった呟きだったが、馬の耳は念仏以外よく聞こえるのだろうか、

『この程度でかよ』

ドヤ顔してそうなのがまた腹立たしい。

 だが、良いと思ったのは本当だった。スピード云々は比較対象を知らないから言いようが無いが、それ以上に乗り心地が良かった。感傷に浸るつもりなど無くとも目頭が熱くなってしまう程に、あまりにも似過ぎていた。

 スピードに優れた馬の鋭いそれとも、パワーに溢れる馬の大地を揺らすような迫力のそれとも違う。強いて言うなら柔らかいのに力強い、穏やかなのに研ぎ澄まされている、そういう風が吹いていた。

 一〇〇〇mは一分十秒と少し、レースに出られるレベルではあるまい。

 それでも、騎手としての本能には逆らえなかった。

「ラスト、少し追ってみても良いか?」

 つい尋ねてしまった、というのが実感だ。こんな間抜けな質問を馬にしたのは当然初めてだし、大ベテランの先輩であってもそんな騎手はいないだろう。

『当たり前だろ、でなけりゃただのお荷物だ』

 だからこそ、返事を得た瞬間に心底からふつふつとたぎるような熱を感じた。

「軽めに打つけど、それなりに覚悟しろよ」

 最終コーナー直前、最早返事は待たず力を抑えて尻鞭を打つ。

 それは撃鉄だ、一発で火が入る。

 歩様が変わり全身の筋肉が凝縮して大地に深く沈み込む。この瞬間のサラ・ブレッドは肉体のエネルギー全てを火薬にした弾丸だ。肌を叩いていた激しい風を弾き返しながら、空気の壁をぶち破って流星のようにどこまでも加速する。

 この栗毛の走りは、金色の流星と一つになっていたあの瞬間をどうしようもなく思い起こさせる。

 目から一筋涙が零れて、きっと首筋に落ちたのだろう。

『泣いてんじゃねえよ、気色悪い』

 感傷も無くクソ馬が言う。

「うるせえ馬鹿野郎」

 我ながらダサい事は俺だって知っている。

 ラストを計る事などすっかり忘れてしまった。



 栗毛を馬房に戻してから、事務室でチセを待つ間にテキへ電話をかけると、全てお見通しというような態度で『もう乗ったのか』と一言だった。からかいを隠さない声が心底腹立たしい臼田昭俊氏御年五十三歳は、俺の所属する厩舎の調教師であり、競馬サークルきってのイカれジジイと評判な御方である。

「こんなの聞いてないですよ」

『キチガイに構ってる余裕がなかったんだ。下手な説明して自殺されたら面倒臭いからな』

 こういうとんでもない内容をクソ真面目な口調で淡々と語る人間なのである。何より厄介なのは本人は至って真剣であり、むしろ相手を慮っているつもりですらあるかも知れない。無駄が嫌いで何事もストレートに物事を進めたい性格に起因しているのだろうが、仮にも自殺未遂者に対してここまで無神経な口が利ける人格破綻者は世界中でも指折りで数えられる程度ではなかろうか。

『エトの全弟だ』

 聞きたい事も尋ねる前に核心を答えてくれる。こういう所は有難い。

「よく似てましたよ、本当に」

『ソイツを俺の所に預ける条件が、お前を乗せる事でな。だから、お前は暫くそこの牧場の手伝いだ』

「脈絡が無さすぎてサッパリ解らないんですが」

 もう少しゆっくり話を進めたい所なのだが、如何せん臼田という男にはそれが通じない。何事も結論から先に伝え詳細は勝手に理解しろという男である。

 パニクっている俺の心も電波が届けてくれたのだろうか、いかにも面倒臭そうな溜息は隠れていなかったが、御大は渋々説明を続けてくれた。

『つい先日そこの爺さんが亡くなってな、元々家族経営で人手が足りなかったんだが、もう閉める場所だから今更人を雇う訳にもいかない。かと言って最後の産駒を送り出すのも持ちそうになかったからお前を送った』

「俺、ジョッキーなんですけど」

 俺はいつから牧童になったというのか、仮にもダービージョッキーである。

『別に構わん、代わりなんぞいくらでもいる』

 コメカミが引きつりそうな発言だが、臼田厩舎で生きていくにはこの程度の発言は聞き流せなければならない。

『大体メンヘラジョッキーなんて調教にも乗せられねえしいても邪魔なだけだ、精々リハビリしとけ』

 テキのストレートな性格はどこまでも俺の心を打ちのめす。言われた途端に捻くれたガキみたいな自分がひょっこり顔を出して、どうでも良いさ、と例の決まり文句を心の中で呟いていた。

 そもそもテキにこう言われてしまった以上帰っても乗せて貰える馬が無いのだから、俺に選択肢は無いのだ。

「解りましたよ」

 もうさっさと電話を切る事だけ考えて適当に返事をすると、テキは相変わらず言葉の裏側を探ろうともせずに、それでいい、と言った。

「それじゃ、失礼します」

 通話を切ろうとしたタイミングで、その言葉には珍しく重さを感じた。

『――俺は、ダービーを獲りたくてこの世界に入った』

「知ってますよ、有名です」

 言っちゃあなんだが、臼田昭俊は真正の変わり者だ。調教はスパルタで馬主がドン引きするレベルだし、競馬どころか馬にすら縁も所縁も無い埼玉の一般的なサラリーマン家庭に生まれその上大学生になるまで競馬に全く興味が無かったにも関わらずある日突然厩務員の採用試験を受けたのだという。挙句採用試験で俺は将来調教師になってダービーを獲る為にここに来たと面接官に宣言したとかいうトンデモエピソードも残っているのだから変態の極みだ。

『だが、エトがダービーを獲った時から俺は三冠馬の調教師になりたくなった。だから、わざわざ、お前を送った……解るな?』

 珍しく言葉の合間に溜めを作って言うが芝居がかったものではない。真剣な事は伝わるから、意外と自分の心情を吐露することに慣れていないのかもしれない。十年近くの付き合いになるクレイジーな調教師の意外な一面だった。

『ソイツでエトの続きが見られなかったら、俺たちは真正の無能だぜ』

 馬も、調教師も、能力に関しては折り紙付き。

 続きを見られなければ無能だと言う臼田昭俊の言葉は、絶対的な真実だ。

「鞍上は、俺で良いんですか?」

 馬から逃げるなんてジョッキー失格だと、言葉が口を洩れてから気が付いた。

『俺もそう思った。だが馬は調教師とジョッキーだけじゃねえ、ブリーダーとオーナーまで揃って初めてチームになれるんだ』

「どういう事です」

『時間はまだある、詳細は本人から聞く事だ』

 殊馬に関しては、テキは自分が納得しない事は絶対に受け入れない。そんなテキが俺を乗せるというのだから、きっとテキも、どこかで納得してくれてはいるのだろう。

「……ところで、ここにいる間の俺の扱いってどうなるんですか?」

 話が一段落した所でこれからの牧場生活に思いを馳せる間もなく我に返って尋ねると、

『丁度自殺未遂したところだからな、療養って形で処理しておく』

平然と、何の躊躇いも見せずにそう答えたのである。ガチの自殺未遂を、喩えるなら“夕飯のおかず作るの面倒くさいけど冷蔵庫開けたら丁度納豆入ってた”みたいな“丁度”だ。

 俺は心底臼田昭俊の神経を疑った。

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