大越凛太朗【hopeful⑧】

 疲れているはずなのにベッドに寝転がって目を瞑っていても眠れず、やがて眠ろうとすること自体がストレスになり始めたので、簡単にダウンジャケットを羽織って家から出た。

 車のエンジンをかけた時は土浦まで出れば何かしら気晴らし出来るだろうと思っていたのだが、国道沿いに車を走らせているうちにふと人と会うのが嫌になり、結局はいつもと同じ場所、霞ケ浦に面した田んぼの真ん中にある小さな公園に車を止めた。申し訳程度の芝生に湖を臨むベンチがポツンと置かれているだけの、公園というよりただの空き地と表現した方が正しいような場所だが、却ってそれくらいの方が有難いのだった。

 真冬の夜の日付が変わろうかという時刻、こんな辺鄙な場所に来る人間がいるはずもない。突き刺さるような水辺の寒さの中、ジャケットに首を突っ込むようにしてベンチに寝転がり、空を仰ぎ見る。

 星は好きではない。

 錆びて崩れ落ちそうなベランダに締め出されると、薄汚れた水の周りを這いずり回る虫なんかに名前を付けて時が経つのを待つしかなかったが、陽が落ちるとそれもなくなってしまうから、仕方なく空を見上げていたのだ。夏の暑さや冬の寒さを耐える為に、辺りに漂う腐臭から気を逸らす為に、何かを考えたら気が狂って泣き叫んでしまいそうだから、余計な物音を出してしまわないようにじっと口を閉じて、ただ静かに星を見ていた。

 星は好きではない。だが今でも、どうしようもなく不安になった時は、ほとんど習慣のように星を見てしまう。

 そうしていればやがて朝が来るから、じっと星を見るのだ。


 どれだけ空を見上げていたのだろう、精神の折り合いが付く頃にはすっかり身体も冷え切っており、車に乗り込むと自然とハンドルをトレセンへ戻すことが出来た。

 宿舎に車を止め、自転車に乗り換えて厩舎へ向かう。宿直室を覗くと当番の小島さんはいつもの通り酒をしこたま呑んだのだろう、豪快にいびきをかいて眠っており、宿直の意義が疑われるが余計な説明の手間が省けるのは有難い。

 厩にそっと入り込んでレラの馬房の前に立ち様子を窺うと、膝を投げ出して眠り込んでいる。敗戦直後だというのに悔しさなど微塵も感じさせない、牧場でちせの朗読を聞きながら眠っていた時から何一つ変わっていない、安らかな寝姿だった。

『何してんだよ、不景気なツラしやがって』

 馬は夜目がきくらしいから、俺の顔も見えてしまっているのだろうか。横たえていた首をこちらに向けながら、安眠を妨害されたはずのレラだが、言葉とは裏腹にその声は妙に優しく聞こえる。

「夜中に悪いな……中、入っても良いか?」

 目元を揉むようにして拭いながら尋ねる。

『好きにしろよ』

 レラは答えるとまたぐてんと首を投げ出した。

 お邪魔しますと呟きながら馬房の中へ入り、すぐ隣に腰を下ろす。

 近すぎると文句を言われるかとも思ったが、レラは静かに受け入れてくれた。

『なんか今日、みんな違ったな』

 寝転がったままのレラが言う。

「何が?」

『いつも、レースのあとは楽しそうなのに、今日は、なんか静かだった。写真撮るのもなかったし。お前も、死にそうなツラしてるし』

 どうやら負けた事すら解っていなかったらしい。だが、馬の立場にしてみればそんなものだろう。人間が勝手に決めたルールで勝敗を決めているのだから、理解出来ていなくてもむしろ自然なのだ。そんな事に、今更気付かされる。

「負けたからな」

 そう返してやると、驚いた風に跳ね起きて、豆鉄砲を食らった鳩みたいな目でこちらを見返してきた。

『負けたのか』

「そうだよ。タイムは同じだけどハナ差、六センチ差で負け」

『そっか……負けてたのか』

 レラは戸惑いを隠さずに呟くと、それからごろんと寝転び、背中を掻くように二度、三度と身をよじって寝藁に擦りつけてから、ふと、動きを止めた。

『ごめん』

 馬に対して妙な話だが、耳は確かに聞き取ったのに、それでも俺は聞き違いを疑って固まってしまった。そうしていたら今度は身体ごとこちらに向いて、

『ごめん』

もう一度、確かに言った。

「何でだよ」

 動揺した心中を悟られないよう、いかにも苦笑している風に返したが、巧く取り繕えたのかも自信が無かった。レラの謝罪の言葉を聞いた瞬間に、全身の血液が氷水のように冷え切って、背中から嫌な汗が滲んできたのだった。

『負けたら、みんな嬉しくないんだろ』

「だからって、お前が謝る事じゃない。他人の都合でやらされて、その上勝手に負け扱いされて、挙句に謝るなんて、マトモじゃねえよ」

 自分で言ったのに、支離滅裂だと思った。こんな、競馬の存在を全否定するような発言をしてしまったら、騎手なんて仕事はそもそも成立しないのだから、俺にはそんな事を言う資格は無いのに、それでも、レラに謝られるくらいならば、そう言わなければいけない気がした。

 普段よりもどこかたどたどしく、考えを整理するように、レラが言う。

『そんなに難しい事は考えてないんだけどさ……なんていうか、お前も、ちせも、あとついでにあの怖いおっさんとか、たまに綱持ってるおっさんも、どうせなら喜んでる方が良いじゃん。俺が勝ったらみんな嬉しいなら、どうせなら勝ちたいし、今日負けてこうなるなら、俺、もう少し頑張れたなって気がするから、だからごめんって言った』

 聞きながら、俺は込み上げるものを堪えるように唇を噛んでいた。馬の言葉なんて解らない方が良かったと思わされるような、こんな事をレラに言わせたという後悔が溢れ出てしまいそうだった。

 だから、せめてもの意地で言う。

「負けは、俺のせいだ。仮に、俺がアマツヒに乗ってお前に総司が乗っていたら、結果は逆だった」

 そうして言葉にする事でようやく、自らのミスを本当の意味で受け入れる事が出来た。

 あの一瞬、アマツヒに怯んだのは紛れもなく俺のミスだ。その事実はどれだけ星を眺めていても変わらないのだ。そう気が付くと、公園で星を眺めていた自分のことをぶん殴りたくなった。

 そして同時に、絶対にレラを勝たせなければいけないという気持ちが爆発的に膨れ上がっていくのを感じた。この先どんな事をしてでも、レラをアマツヒに勝たせなければならない――否、俺が、俺自身の手で、コイツを勝たせたいのだ。決してレラの為などではなく、純度百二十%のエゴとして、勝たせたいのだ。

『お前がヘタクソなのは知ってるけど、俺ももう少し頑張れたし、大体アイツを乗せるくらいなら負けた方が良い』

「真面目な話をしてんだよ、少しは真面目に聞いてくれ」

『俺だって真面目に言ってんだよ』

「なら真面目な話を続けるが、乗り替わりの話が出るかも知れない」

 俺が言うと、レラは驚いた風に一度大きく身体を揺すったが、すぐにピタリと動きを止める。

「お前にしてみりゃ良い話だよ。総司は無いにしても、レラカムイの評判ならクリスでも邦彦さんでも引っ張って来られる」

 俺より巧い騎手を幾らでも連れて来られる状況でミスって勝ちを落としたのだから替えられて当然、当たり前だ。しかし、それでも、

「だが、俺はお前から降りたくない。何をされても、お前の背を譲る気はない」

他の馬であれば降ろされても仕方ないと諦めるのかも知れない。でもレラは、レラだけは、譲りたくない。ちせや御大が何を言おうと、どれだけ恰好悪くても、何をしてでも、レラの背中だけは絶対に譲らない。

「だから、これから先も俺が乗るつもりだから、悪いけど諦めてくれ」

 既にあった覚悟は、レラの瞳を見据えながら口にする事で、より一層確かなものとなった。

『ああ、なら良いよ』

 レラは想像よりもあっさりと俺の我儘を受け入れた。

『大体俺、お前以外の人間乗せた事が無いし、今更他の人間乗せるなんて面倒臭い真似したくねえもん』

 ふと言われた言葉が恥ずかしくなってしまう程に嬉しかった。良い年をしたオッサンが思春期の恋愛小僧さながらに舞い上がっている、今この状況を外から眺めてしまったらさぞや汚い絵面だろう。



 十数年ぶりの坊主頭を撫でながら大仲の戸を開けると、お茶の用意をしていたらしいちせがギョッとした表情でこちらへ向いた。

「どうしたんですか、それ」

 三十過ぎのオッサンの坊主頭が余程にショックだったのだろう、口元に手を当てて、さながら路上に転がっていた犬の死体を見てしまった時のような表情でちせは言う。

「テキが来たら話すよ」

 手近な椅子に腰を下ろしてディスプレイに映るレース映像を眺めて暫く、二レースほどの時間を置いてから大仲の戸が開き、振り返ると、同じく口元に手を当ててさながら路上に転がっていた以下略。蓬田君だった。

「何かあったんですか、それ」

 ちせに土産の包みを手渡してから、俺の斜向かいに腰を下ろしながら言う。

「テキが来たら話すよ」

 そうして更に三レースほど、ちせの出してくれたお茶と蓬田君が持って来た羊羹をつまみながら眺めているとまたも戸が開き、振り返ると、いつも通りの御大が立っていた。

「お疲れ様です」

 立ち上がり、いつものように礼をする。

「おう、ご苦労」

 御大もいつものように言葉短く言うと、ディスプレイの対面にある指定席に腰を下ろした。俺の坊主頭へのリアクションが無い事に戸惑っているのだろうか、ちせが固まったままになっていると、

「茶を頼む」

俺に言う時より数倍優しい口調で御大が言い、それを聞いたちせが慌てて動き出す。

 やがてちせの出したお茶を一啜りしてから、御大は静かに口を開いた。

「言ってみろ」

 ただその一言を、誰を見るでもなく、ディスプレイに映されたレースを眺めながら言う。しかしそれは俺に向けた言葉に違いなかった。

 髪型のせいか、ちせも蓬田君もいるのに、競馬学校を卒業したばかりの新人時代のような気分だった。引きずられたのだろうか、当時先生と話す時にしていたように、一度小さく呼吸を整えて、伝えたい内容を頭の中で言葉にしてから、慎重に口を開く。

「フリーになろうと思います」

 蓬田君が手にしていた湯飲みをひっくり返して、ド派手にお茶をぶちまけた。

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