大越凛太朗【hopeful⑨・終】

 テーブルの上の大惨事に収集をつけるべく慌しく動き出したちせと蓬田君をよそに、御大は微動だにせず俺を睨みつけていた。慎重に、間違っても御大の言葉を遮るような事が無いように、一息、二息と間を置いてから、御大が俺の続きを待っているのだと確信してから、生唾を飲み込んで言葉を続ける。

「鞍数を増やして実戦に慣れたいんです」

 一歩も引かずに睨み返すが御大は少しも動じる素振りを見せなかった。灰皿を手元に引き寄せると煙草を咥えて火を点けている。

 ちせと蓬田君は、もう机の上は拭き終えているのに、二人とも椅子に座る事を忘れてしまったかのように立ち呆けたまま俺と御大の間でおろおろと視線を彷徨わせている。

「今のままじゃ、これから先アイツを勝たせてやれません」

 長い空白の間の後で俺がそう言うと、ようやく御大はそれまでよりも大きな息を一つ吐いて反応した。それから数度肺に煙を出し入れしてから、いつもと同じくらいの、フィルターから二センチほどの距離で灰皿に擦り付ける。

「フリー云々はさておき――」

 その時初めて気が付いたが御大の声は少し焼けているようだった。深酒でもしたのだろうか、珍しい事だ。

「――今回の騎乗で乗り替わり云々を言うつもりは、俺には無い」

 そう言った御大は俺ではなくちせを見ていた。ちせの方は呆けたままだったが、御大から座るように促されてようやくハッとしたように腰を下ろし、蓬田君もそれに合わせて座る。

「レラカムイの並外れた瞬発力を生かすには、何より一瞬の判断が重要になる。いざとなった時に躊躇わずにセオリーを捨て去れる、他よりもコンマ一秒早く命懸けの綱渡りに飛び込める。そういう、冷静なままイカレた頭。例えば今回の最終コーナーの判断もそうだが、そういう感覚をコイツレベルで持っている騎手は、まず他にいない。笹山も、クリストファーも、ヨットーリも、鎬総司にも、それは無い」

 唖然としながら聞いているうちに、徐々にその意味が理解出来てくると背中がむず痒くなってきたが、御大はいつにも増して真剣な表情で、俺にではなくちせに向けて語っているのだった。

「だから、レラカムイにはコイツを乗せたい。笹山でもクリスでもヨットーリでもなく、コイツなんだ」

 御大は静かに言い切るとちせの言葉を待つように沈黙した。

 ちせは御大の言葉を聞いているうちに却って冷静さを取り戻したらしく、手に持った湯飲みを気の抜ける風にずずずと一度鳴らしてからだった。

「もちろん、それでお願いします」

 俺の方が拍子抜けして戸惑ってしまうほどに、あっさりと言い放つ。

「良いのか?」

「良いも悪いも、はじめから言ってるじゃないですか。今更変えませんよ」

「けど、宮代の娘からも言われてるだろ」

「まあ色々教えては貰ってはいますけど、それはそれですから」

 ちせは羊羹を口に運びながら、俺や御大が何を気にしているのかが解らないと言わんばかりの表情でさばさばと答えた。

 ふとそれまで息をひそめていた蓬田君が遠慮がちに手を挙げた。

「乗り替わりが無いことは僕的にも嬉しいんですけど、フリーの件についてはどうされるんですか?」

「どのみち他所の厩舎と付き合わないと鞍が揃わないから、フリーになる事は変わらないかな」

 臼田厩舎はお世辞にも力がある厩舎とは言えない。そもそも預かっている馬の数が少ないし厩舎同士の横の繋がりだってほとんどない、いわんや有力馬主とのパイプなど御大の性格からして築けているはずがない。ここまでナイナイ尽くしの厩舎となれば、鞍を増やすには独立して自分で営業するしか無い。

「エージェントはどうなさるんです?」

「ハナから使うつもりは無いよ。そもそも俺程度の騎手と契約するようなエージェントなんて電話番程度にしか使えないだろうし、それなら一人で営業した方が良い」

 このタイミングでの独立は多少予定外だったが、前々から独立する際の青写真自体は描いており、思い付きだけで行動する訳ではない。多少のブランクは出来てしまったが、復帰して以降それなりに乗れる所は見せられたはずだから、以前世話になった事がある厩舎や馬主さん達に挨拶回りをすればなしのつぶてという事もないだろう。

 蓬田君の質問に答える形で、今後の計画をひとしきり話してみせると、それまで静かに聞いていた御大が、断固といった雰囲気で口を開いた。

「フリーの件は却下だ」

「ですけど――」

「――鞍を増やしたいというなら尚更、お前みたいな下手糞がフリーになってやっていける理由が無いだろう。少しは考えて物を言えボケ」

「いや、ついさっきメチャクチャ褒めてたじゃないすか」

 邦彦さんでもクリスでもヨットーリでも総司でもなく俺が良いとか、冷静なままイカレた頭とか、思い返すと褒めてるんだか貶してるんだか解らなくなるような表現だが、とにかく話の流れ的に俺を絶賛していたはずだ――と、ついうっかりそんな風に漏らしてしまうと、やはり御大は御大なので、物凄い勢いの何かが顔面を掠めるように飛んで行き、背中越しに壁と衝突したようだった。音からして割れ物ではないらしいのは幸いだ。

「口答えすんじゃねえ。ともかく、鞍を増やしたいのなら今のまま来た依頼に乗れ!」

 無茶苦茶だと思いはするが、こうなった御大は聞く耳を持たない。

「鞍数は俺と嬢ちゃんで揃えてやるから、お前は今まで通り黙ってレラカムイの引き運動でもやってろ」

 そうして有無を言わさぬ風に言い切られてしまったのだった。


 ミーティングを終えると御大はそそくさと大仲を出て行った。聞くところによれば今日はトレセン将棋部の忘年会らしい。蓬田君も蓬田君で冬コミがどうこう言いながらさっさと帰ってしまい、残された俺は空回ってしまった感すらある坊主頭を一人寂しくじょりじょりと撫でるのである。

「恰好つかねえな」

 ぼやきながら、何となく手に持ったんまい棒をかじるでもなく遊んでいると扉が開き、振り向くと出て行ったはずのちせが戻って来た。

「どうした?」

「携帯忘れちゃって」

 少し照れくさそうに頭をかきながらさっきまで座っていた席へ戻り机の下をゴソゴソとあさると、間を置かずに探し物は見つかったようだった。

「あ、返信来てる」

「なんだよ、総司か?」

 エサに飛びつく犬のような勢いで携帯を弄り始めたので、やっかみを隠さずに言ってやると、ちせは心外だとでも言わんばかりに言い返してきた。

「これは杉本さんです。ほら、馬主の」

「スギノの?」

 ちせは得意気に頷く。

「大越さんの鞍を増やす為に私もやれる事をやってみようと思って、相談してみたんですよ」

「マジかよ……フットワーク軽いな」

「ちょうど昨日のレースを慰めて貰ってたので、杉本さんも昨日の大越さんを褒めてましたし、あとは話の流れで」

 杉本氏と言えば最大手の個人馬主であり、そんな人物に日常の延長で営業をかけられるちせの行動力に呆気に取られる。

 浮ついてしまった気持ちを落ち着けるようにすっかり冷めたお茶を口に含むと、

「あ、すごい、へー」

携帯をいじっているちせからそんな言葉が漏れてきた。

「金杯乗れる? ですって」

 すんでのことで堪えたが、ギャグマンガばりにお茶を吹き出すところだった。スマホで気軽にチャットしているだけで金杯の騎乗を取ってくるなど、どこのエージェントにも真似できない敏腕ぶりである。

「中山金杯に出る鎬総一郎厩舎のスギノキッチョム号、予定してた山科さんが昨日の競馬で騎乗停止になって、鞍が空いたんですって。もう総一郎先生にも話してみてくれたみたいで、先生も大越さんに乗る気があるなら頼みたいって仰ってくれてるみたいです」

 頭の中に叩き込んであったデータを引っ掻き回して思い出すと、スギノキッチョム号は三十戦弱で四勝程度だったろうか、明け六歳になる牡のはずだった。ここ数戦は山科さんが連続騎乗していたが、長いキャリアの中で乗り替わりは五人以上経験しており特に鞍上を固定しているタイプではない。過去少なくとも四度は重賞に挑戦しているが、昨年の小倉記念で二着に滑り込んだのが最高であり、今回もさして人気にはならないだろう。

「ハンデは五十四キロだそうです……ちなみに大越さんって今何キロまで乗れます?」

「五十二までは標準で乗れるし、作ろうと思えば五十でも乗れるよ」

 俺が答えると即座に携帯を操作して、どうやら杉本オーナーに斤量のことを伝えてくれているらしい。

「もし金杯に乗ってくれるなら他も何鞍か回せるかもって。金杯だけじゃ申し訳無いから、鞍が空いてる他の馬の先生方にも相談してみてくれるって」

「有り難いけど、本当に大丈夫なのか?」

 携帯を弄りながら当然のように話を進めていくちせに、いくらなんでもトントン拍子で話が進み過ぎているだろうと不安を覚えて言ったのだが、ちせは事も無げに言った。

「杉本さんのことは解りませんけど、今までもちょくちょく話は来てましたし、大越さんを乗せてみたい馬主さんって実は結構いるんじゃないですかね」

「話って、何のだよ」

「だから大越さんへの騎乗依頼ですよ。先生に言われて全部断ってましたけど」

「いや、初耳なんだけど」

「先生から口止めされてたんですってば」

 悪びれる風もなく言われてしまうとそれ以上突っ込む事も出来ず、ただただ言われるままに聞くしかない。

「でも、先生もこれからは乗って貰う方針みたいですから、以前に依頼してくださった方には明日改めてご挨拶の電話をしておきます……で、杉本さんの依頼も受けちゃっていいですよね?」

 多少納得がいかない思いもあるが、新年早々の金杯に乗れる幸運と比べれば取るに足らない出来事だと思う事にした。

「よろしく頼む」

 頭を深く下げて返すと、ちせは早速携帯を弄って返事をしてくれたらしい。それから暫く画面を指ではじくように操作していたが、やがてふと顔を上げると、その表情は柔らかかった。

「さっき、先生、嬉しそうでしたね」

「何かあったらリモコンぶん投げてくるのに?」

「あれは照れ隠しですってば」

 ちせはケタケタと笑って言うが投げられた側からしてみればたまったものではない、一歩間違えば顔面直撃鼻血ブーなのである。

「エトの事があってから、ずっと、大越さんの事を心配してたんだと思います」

「どうだかね」

 照れ臭くなって茶化したが、ちせは取り合わずに言葉を続ける。

「大越さんがすごく前向きに自分の先の事を話してくれたから、ホッとして、もう大丈夫だって、きっと、そう思えたんですよ」

 火照った頭に手をやると、チクチクと指に刺さってくすぐったかった。





 お、お、お……などと言葉にならない興奮を抱えながら必死になって追っているうちにゴール板を通り過ぎ、終わってみれば半馬身差の勝ち。十六頭立てのブービー人気で今年の金杯は見事な単勝万馬券。グランプリロードからカンカン場を覗き込む穴党の群れからは、重賞とはいえG3とは思えないド派手な大越コールが巻き起こり、俺も鞭を持った左手を突き上げて返した。

「やっぱり君、持っとるわ」

 カンカン場で出迎えてくれた総一郎先生はほくほく顔で言い、

「茂尻さんから話を聞いて、結果はともかく付き合いは続けさせて貰うつもりだったけど……これを勝たれてしまったら、もう君からの頼みは断れないね」

杉本オーナーは喜びを通り越した唖然とした表情で俺に握手を求めてきた。

「ぜひ今後とも御贔屓に」

 調子よく応じてみせると、杉本オーナーと一緒に観戦していたらしいちせがひょっこり顔を出す。

「あと二鞍、明日もあるんですから。まだ気を抜いたら駄目ですよ」

 すっかり敏腕マネージャーのような言葉を口にしているが、結局この土日を通じて五鞍もの数に乗れたのは実際ちせの力が大きいので言い返せない。

「一つでも多く勝って、他の馬主さんにもアピールして、そうすればもっと鞍が増えて、沢山乗った大越さんが巧くなれば、レラの為にもなるんですから」

 改めて人から聞くと風が吹けば桶屋が儲かるような理屈であり自然と苦笑もしてしまうが、前を向く理由が明確なのは有難い。

「その通り、精々ヘタクソなりにあがいてやるさ」

 検量を済ませてから口取りに向かうと、見事重賞馬の称号を得たキッチョム君と目が合い、少し不機嫌そうな彼から、今日は俺が主役なのに、と言われた気がした。

 確かにそうだ。観客のコールも俺ばかりになってしまい、キッチョム君の名が呼ばれていない。

「今日はお前のお陰だよ、ありがとな」

 贖罪の念とともにそんな言葉をかけながら首を撫でたが、キッチョム君にはまるで通じてくれないらしい、うるさくして引綱を持つ厩務員さんを困らせている。

「よその子の口取りって、なんかちょっと新鮮ですね」

 すっかり聞かん坊になってしまったキッチョム君のせいでいつまで経っても始まらない撮影に、自分の家の優等生を思い浮かべたのだろうか、ちせが小声で呟いた。

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