大越凛太朗【皐月賞前段④】
ちょっとした屋根が付いた円形の広場には白い砂が敷き詰められており、馬たちが砂浴びをする為のスペースになっている。自厩舎専用の砂浴び場を整備している厩舎もあるが、我らが臼田厩舎にはそのような余力があるはずもなくもっぱら共用の砂浴び場を使っている。そうして、派手な土埃を巻き起こして一心不乱に砂にまみれるレラの様子を柵の向こうから観察していると、ヤツが馬であった事を今更ながらに思い出して妙な気分にさせられるのだった。
「それ、面白いのか?」
柵に寄りかかりながら尋ねる。レラはさほど砂浴びが好きではないようだが、それでも月に数度はこうして散歩の途中で砂浴び場へ行きたがることがあった。
『別に面白くはないぞ』
俺が問いかけるとレラはふと動きを止めて、冷静な風にそう言った。馬としてのアイデンティティを剥き出しにしていた先ほどまでの姿からは欠片も想像できないようなギャップだ。
「じゃあ何でやってんの?」
『さあ……何でか解らないけど、なんかやりたくなる』
「本能みたいなもんなのかね」
『お前もやってみれば解るんじゃねえの』
いかにも良い案を思いついたように食い気味に提案してきたが、俺からすれば苦笑いだ。
「遠慮しておく。お前は満足するまでやってくれ」
やり取りを終えるとレラは再び砂浴びに没頭する。俺はぼんやりとその様子を眺めていたが、そうしていると、選択しなければならない面倒事が頭の中に浮かんできて鬱陶しい渦を巻き始める。多少忙しいくらいの方が有り難いのに、こういう時に限ってほっと一息吐ける空白の間が出来てしまう、ままならなさ。
その時、突然背後から声をかけられて驚きに心臓が跳ねた。
「理由は答えてくれたかい?」
振り返ると見知らぬオッサンが立っていた。履き慣れた風のジーンズに青いブルゾンで足元は泥の跳ねた黒い長靴、恐らくは他厩舎の厩務員なのだろうが初めて見る顔だ。
レラと話しているのを聞かれてしまったらしい。馬を相手にブツブツ独り言をこぼしていた変なヤツをからかっているつもりかも知れない。
「コイツ自身も解らないそうですよ」
「そりゃ残念だ。長年の疑問が解けるかと思ったんだが」
謎のオッサンは俺の隣に立つと同じ体制で柵に寄りかかり、ド派手な寝返りを打つようにして砂を浴びるレラをじっと見つめている。いきなり現れて断りも無しに隣に立つのだから変人である事は間違いないが、レラのファンなのかも知れないと考えると邪険には扱えない。
「ベテランの人でも解らないんですね、砂浴びの理由」
話題を振ってみると、オッサンはレラから視線を外さずに答えた。
「小さい頃は背中でもいずいんかと思って見てたが、どうもそういうことではないらしい。同じ環境で育った馬を比べても、同じ親から生まれた馬を比べても、それぞれやり方も頻度も違うし、どころかまるでやらない馬もいる。この年まで山ほど馬を見続けてきたが、この習性だけはいまだによく解らん」
「馬とはどれくらいの付き合いなんですか?」
「そんなもん、生まれた時からだ」
冗談で尋ねたつもりも無かったが、そんな当たり前の事を聞いてくれるなという風に、オッサンは面白そうに笑った。
「じゃあもう何万頭も見てるんですね」
多少持ち上げてやる程度の軽い気持ちで言ったのだったが、突然オッサンが唸った。
「どうかしました?」
「いや、今までに見てきた馬の数なんて考えた事が無かったと思ってな。考えてみると自分の生涯を振り返るようで面白い」
そうして暫くオッサンとレラを交互に眺めていたのだが、オッサンはじっとレラを観察しながらも、頭の中ではそれまでの馬の事を思い返しているのかも知れなかった。何となく、直感的に、嫌な人間では無いのだろうと思った。
「しかし本当に、何で馬って砂浴びするんでしょうね」
「そんな事は馬にしか解らんさ、だから君に聞いたんだ。君、馬と話せるんだろう?」
「何バカな事を言ってるんですか」
「実際にそんな感じだったし、娘からもそんな話を聞いていたんだが、違ったかい?」
からかいの意図が無い訳ではないのだろう、実際にオッサンの声は薄く笑いが交じっている。
「はあ……娘って、貴方の?」
娘って誰だよ。とは声に出さないが、知らない人間に噂をされるのは流石に少し気味が悪い。
「ああ。ダイナースの関係で世話になっている」
「ダイナースの会員さんに知り合いなんていないですよ」
「いやいや、話した事があるはずだよ。宮代有紀って名前なんだが」
「そりゃ流石にその人のことは知ってますけど」
「あれ、私の娘なんだ」
「ああ、そうでしたか。それは失礼しました。初めまして、大越と申します」
反射的に人付き合いの笑顔が浮かび、挨拶の定型文と一緒に頭を下げてから、頭の中に特大の疑問符が浮かんだ。
宮代有紀は宮代明の一人娘である。
狐につままれたようになりながら顔を上げると、オッサンはここにきて初めて砂浴びをしているレラから視線を外して俺の方を見ていた。
「有紀の話だともっとゆるい感じを想像していたが、真面目じゃないか」
自分と関わりの無い世界の住人であればどう思われていようと構わなかったのだが、こうして目の前に現れると途端に恐ろしくなってくる。あの女は俺をどう話しているのだろうと考えると血の気が引く思いだが、全ては後の祭りだ。
「そんな気もしないが、実際に会うのは初めてだな。宮代明だ、よろしく頼む」
そうして、謎のオッサン改め宮代明は気さくな風に右の手を差し出してきた。
反射的に握り返すと、その感触に身が震えるような鳥肌が立つ。
何故握手した程度で鳥肌が立ったのか最初はまるで解らなかったが、一呼吸の間を置くと、その理由が違和感によるものだと気が付いた。分厚くでこぼこにかさつくまで使い込まれた、巨大な岩のような手。日本競馬界の盟主と言われる男の手は、その響きに反してあまりにも無骨だった。
そんな俺の戸惑いを知ってか知らずか、宮代明は言う。
「この後の予定は?」
「角馬場で曳き運動して、後は好きに歩かせてから帰ります」
「付き合わせて貰っても良いかい?」
許可を取る体ではあるが断られる事は想定していない、そんな口ぶりだった。
散歩を終えて厩舎に帰ると、幸か不幸か御大は外出中だった。レラを馬房に戻してから大仲へ案内し、いつぞや有紀を通した席に座って貰いながら、同じように缶コーヒーとんまい棒を用意する。
「こんなものしか無いんですけど」
「んまい棒か、懐かしいな。有り難く頂こう」
有紀の態度とは打って変わって、普通に包装紙を剥いてポリポリとかじっている。用意した側からすれば妙な話ではあるが心底意外なリアクションだった。
「良かったです。娘さんは嫌いだったみたいで、お出しするか迷ったんですが」
対面に腰を下ろして自分のんまい棒を剥きながら言うと、宮代明は苦笑していた。
「アレは、一時期騎手を目指していた事がある。結局は諦めたがね」
確かに、有紀本人もそんな話はしていた。
「減量の関係で、この手の駄菓子を一番食べる小中学生の頃にそういうものを遠ざけてたからな。今更食べたくないってのがあるのか、いずれにせよ、もういい加減大人になっても良い頃合だろうが」
それなりに本気で騎手を目指していたのであれば、その上で有紀の身長の事を考えれば、子どもの身の上では相当に辛い食事制限を自分自身にかけていたのだろう。だとすれば、ちょっとしたトラウマ感覚で駄菓子を嫌う感覚は理解出来なくもない。
「ところで、レラカムイの事を聞いても構わないかい?」
これもやはり、断られる事は想定していない風だった。足を組みながら悠然と言う様はどことなく有紀を思わせる態度のデカさであり、親子だな、なんて事をふと思った。
「お答えできる範囲の事なら」
「なに、小難しい事は聞かない、ただ一つ教えてくれれば良い。つまり、知りたいのは、レラカムイの運動は全て君がやっているのかという事だけだ」
天下の宮代明が聞くというから何かと思って身構えていたのが馬鹿馬鹿しくなるような、言ってしまえば下らない質問だった。
「まあ、そうですね」
「乗り運動だけじゃなくて、今日みたいな運動も?」
「俺が他所に行く時は他の職員が代わりますけど、他の馬を抱えながらこなせる量じゃないですから、基本的には俺が曳いてます」
「そう、何よりも量のことだ。いつもこんなに歩かせてるのかい?」
「そうですね、先生の言いつけなので。正直曳き運動なんてそこまで意味あるのかなって感じですけど」
両腕を組んで聞いていた宮代明は、俺の答えに何度か小さく頷いてから微笑を浮かべた。それから缶コーヒーを開け、二口ばかり口をつけてから、
「申し訳無いが、んまい棒をもう少しくれないかい」
と、笑ってしまうようなおねだりをしてくる。無論、即座に二十本入りの大袋を用意してやった。同好の士は大切にしなければならない。
宮代明はボリボリと豪快にんまい棒をかじりながら、それまでとはやや趣が変わった、熱を感じさせる口調で言った。
「馬を強くする方法とは何だと思う?」
こうした問いかけは初めてのやり取りかも知れない。試されているような気になって緊張もするが、嫌な緊張では無かった。
「調教方法の話ですか? ……それなら、やっぱり坂じゃないですかね。一昔前の美浦と栗東の関係とか、それこそ宮代さんの外厩とか、坂の傾斜で強さが変わるってのはデータが出てますし」
「それも正解だ。しかし決定打ではない」
そして答えは既にこの場に出ている、宮代明の表情がそう言っている。
「一番重要なのは曳き運動、って事ですか?」
宮代明は満足気に頷いた。
「曳き運動とは言わば身体作り。馬への負担が少ない分だけ坂路やコース調教のような成果は得られないが、時間を掛ければ掛けた分だけ、その成果は確実に蓄積されて馬の身体を根底から強くする。
解り易く言えば、レラカムイの身体はエトゥピリカよりも随分と強く育てられている。今日、馬を見て、運動を見て、それを目指した鍛え方だと確信した」
「エトよりも強く」
俺が呟くと、その意味を全て理解しているかのように、宮代明は再度頷いた。
レラが壊れないようにする為に、御大は俺にレラを歩かせている。常識では考えられないような手間と時間を一頭の馬にかけて、ひたすらに鍛えている。
それは恐らく事実だった。本来であれば宮代明に指摘される前に知っておかなければならない、大切な事実だった。
「じゃ、やっぱダメだな」
その事実を知った今、一つの選択については考える必要が無くなった。俺がレラに付き添うことがそれだけ重要な意味を持っているのならば、少なくとも無関係なレースに騎乗する為に関西の競馬場に遠征するような真似はするべきではない。
有紀からの依頼は断るべきだ。そう決心すると、目の前に宮代明がいる事は僥倖だった。連絡の手間が省けるし誠意を込めて頭を下げる事も出来る。
「あの、頂いていた騎乗依頼の件なんですが――」
善は急げのつもりで早速切り出すと、宮代明は俺の言葉を押し留めるように右の掌を突き出してきた。
「君の返事を聞く前に、依頼した理由について話をさせて欲しい」
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