大越凛太朗【hopeful⑤】

 調整ルームで迎える朝は決まって遅い。

 昔から、レース前で緊張しているはずなのに寝付きだけは良いから、冬の陽が上りかける時刻までゆっくり眠ることが出来た。小者の癖に気が付けば開き直っているこの厚かましいメンタルは自分の長所であると、最近になって自覚した。

 食堂でサンドイッチを腹に入れ、身支度を整えてから外に出る。空が燃えているような特別に赤みが強い朝焼けの中で伸びをすると、口から漏れた白い息が黄金色に煌いた。

 目の前で待ち構えている場内への地下道が何故だか今日は狂乱のサバトへと誘うバケモノの口のようにも感じられ、そんな自身の感性を鼻で笑い飛ばしてから、一歩一歩を踏み締めるようにして暗闇の中へと降りて行く。


 場内のジョッキールームでは、トレセンで厩舎作業をこなして来たのだろう、美浦の新人らしき数名が仲良く談笑していた。後から来た俺の姿を見ると馬鹿丁寧に全員で立ち上がって頭を下げてきたので、そういや俺も一応はダービージョッキーだったな、なんて事をふと思い、そのあとすぐに、多分コイツ等は相手が誰でも同じようにやれているんだろう、と思い直す。

「おはよう、今日は何鞍あるの?」

 頭を下げられた手前こちらから声をかけてやったのだが、

「自分は三鞍です」

「二鞍です」

「四鞍頂きました」

吹かした先輩風は十秒と持たずに掻き消された。少し考えれば当たり前のことだが、乗鞍が最も少ない騎手が自分である事を思い知り慣れない事はするもんじゃないと後悔する。

「そうか、頑張れよ」

 どうにか表情を作ってその場を立ち去ろうとしたのだったが、一人から声をかけられた。

「自分はメインも」

 最後に四鞍と答えた少年がおずおずと手を挙げながら言った。坊主頭を卒業したばかりという髪型では無いが見た目からしてまだ二十歳前だろう、馬柱を思い返してすぐに一頭が思い浮かんだ。

「ってことは、君がホクヨウアーツの」

「はい、加藤厩舎の館川栄一です」

 館川君は美浦の加藤厩舎に所属している今年二年目のジョッキーで、去年は新人賞こそ逃したが同期トップの二十八勝を記録しているホープだった。今回は4番ホクヨウアーツ号でG1初騎乗となるはずだが、恐らくその記録も同期最速だろう、二年目のG1騎乗などそうそう貰える機会ではない。

「気付くの遅くてすまん。俺も色々とやらかして、離れてたからさ」

 有望な若手の顔位覚えておけと説教されそうだが、特別加藤厩舎と関わりがある訳では無いし何より去年はエトの事でそれどころでは無かった。そもそも競馬学校を出たばかりの坊主頭なんてどれも同じに見えるから、仮にどこかですれ違っていてもそうそう記憶に残らない。

「大越です、今日はよろしく」

 バツの悪さを覚えながら手を差し出すと、館川君は両の手でしっかりと握り返して来た。

「でも、自分も勝つつもりで乗るっす」

 レラの事を意識しているのだろう、鼻息を荒くして握り返してくる様は明らかにイレ込んでいる。四鞍もあれば適度に疲れて余計な力は抜けるだろうかと、苦笑を堪えながら付き合うが、彼の真剣な思いが解らない訳ではない。

 館川君とホクヨウアーツのコンビはここまで二戦二勝、前走でも葉牡丹賞を勝ち上がっているが、レラに勝ち負け出来る馬とは思えず検討の段階で切った。しかし彼にとってのホクヨウアーツは俺にとってのエトやレラと同じ。だからこそ手に力が籠もるのだ。

「ならお互いに頑張ろう」

 真っ直ぐな若さを心地よく受け止めながら、ホクヨウアーツの消しを改めて確信する。

 彼等は今日の一戦で人も馬も大きな経験を積むだろう。だが、G1を勝つのは今日ではない。

「一鞍しか無い俺が言うのも何だかなって感じだけど……君たちも頑張りな」

 館川君とのやり取りで生まれた余裕から、他の二人にそんな冗談を残して場を離れると、小声でひそひそとやり始めた様子が伝わる。わざわざ声を潜める辺りロクな話題ではないのだろう、大方有力馬のジョッキーがうだつの上がらない三流である事を再認識して気勢をあげているのかも知れない。

 部屋の隅にあるソファに座って競馬新聞を眺めていると、第一レースの検量が近付くに連れて徐々に人も増えてきた。

「朝一はしんどいなあ」

 独り言のようなぼやきが聞こえると、いつの間にやら、一人分の間を空けた隣の席に四十代らしき騎手が座っている。初対面だが顔は知っている、南関の磯上さんだ。メインのサンドアナモリのついでに何鞍か乗るのだろう。じっと見ていたつもりも無かったが目が合ってしまい、向こうから飄々とした調子で声を掛けられる。

「初めまして、磯上と申します。大越さんですよね」

「ご丁寧にすみません、大越です」

 いかにもオッサン同士の自己紹介を済ませてから話題は戻り、

「この時期だと朝一のダートって砂痛いし、しんどいなあって思いません?」

そんな風に聞かれた。今日の第一レースはダートの未勝利戦だ。

「芝だって痛いし、大体磯上さんはダートが痛いとか言ってられないでしょう」

「全く、本当ですよ。賞金高いだけまだ中央の痛いのは我慢出来ます」

「移籍なさるんですか?」

「どうでしょうね。何人か成功した人もいますけど、自分じゃその人らと格が違いますから、うまく行くビジョンが見えなくて」

 調子の良い自虐を交えながら笑い飛ばしているが本音ではないだろう。中央に顔を売る目的でなければわざわざ一レース目の未勝利の鞍など拾ってこないはずだ。

「今日は何鞍乗るんですか?」

「十鞍です。いやあ、ちょっと調子に乗って集めすぎました」

 聞いているだけで頬が引きつりそうだった。どんな営業をかけたらそんなに鞍が回ってくるのだと逆にこちらが教えて欲しい。

「大越さんは何鞍です?」

「メインだけですよ、自厩舎以外は干されてますから」

「そりゃまた、中央の調教師は見る目無いですね」

「本当ですよ、磯上さんからも言ってやってください」

 そんな馬鹿話をしているうちに第一レースの前検量の時間になる。

「そうしたら、今日はよろしくお願いします。大越さんの後ろ着いて行ったら賞金拾えそうなので」

 どこまで本気なのか定かでないが、磯上さんは席を立つ間際にそう言った。


 そうして、第一レースから消化されて行くレースを眺めながらサウナで身体を解し、同じく出番待ちの騎手と将棋を指したりして時間を潰す。

 昼休憩に前後してロッカーからステッキを持ち出し、ゆったりとストレッチを交えながら軽く木馬に乗るなどして肉体の感覚を確かめる。第七レースの芝二〇〇〇メートルはしっかりと観戦して他の騎手の乗り方を観察した。

 G1の大勝負を前にして自分でも驚くほどに冷静だった。一鞍しか乗らないここ最近のリズムが板に付いてきたせいか、待つだけの時間に押し潰される事も無く、むしろ冷静に周囲の様子を観察する事が出来ている。

 二時を少し回ってからプロテクターを付け、ヘルメットに帽色を被せてから予備検量に向かう。メインに鞍を絞った騎手もいないらしく、ガラガラの検量所で鞍を作り検量を済ませてから、見慣れた白地に赤襷のシンプルな勝負服に袖を通す。

 レースへの不安と勝利の確信、相反する二つの要素が折り合う事で生まれた心地良い緊張感が身体の隅々にまで行き渡っている。

 勝てる――自然体でそう思えるような、理想的な精神状態だった。

 前検量を終えて装鞍所へ向かうと、斎藤さんが表でレラを引いていた。辺りをざっと見渡すように御大の姿を探すと、テキなら馬主席だ、と教えてくれる。

「あっちに顔出してるなんて珍しいですね」

「嬢ちゃんと最終確認だと」

 直前になって打ち合わせする必要も無いはずだが、ひょっとしたらあの性悪お嬢様が余計な入れ知恵をしたのかも知れない。そう思い至ると考えるだけで気が滅入りそうなので意識を逸らす事にした。

「引き、変わりますよ」

「レース前のジョッキーにそんな事させる訳ないだろ」

「やらせてください。その代わり鞍検量お願いします」

 新馬戦の時の御大にしたように鞍を押し付けると、斎藤さんは苦笑を隠さずに受け取った。

「お前ってほんとにジョッキーらしくないよな。最近は特に」

「元からコッチの方が性に合ってんですよ」

「冗談でも止めてくれ、ウチのエースなんだから」

 鞍検量へ向かう斎藤さんの背中を見送ってからレラに向き直ると、レースに慣れたという事らしい、臼田厩舎の馬房と同じように泰然と構えており、精神面に限れば間違いなくこれまでで一番の状態だと言える状態だった。

「随分落ち着いたもんだな、俺がいなくても平気になったのか」

『お前がいないから調子が良かったんだ』

「そりゃ悪かったな、レースが終わるまでどうにか頑張れ」

『今日はどうするんだ?』

「基本は後ろからで考えてる、最後は外回すかもな」

『かもって何だよ』

「内は荒れすぎだから走らせたくないけど、外回すにも限度があるって事だよ。後ろからの競馬はどうしたって周りの動きを見ないと解らん」

『まあ指示すりゃその通りに走るよ』

「随分素直じゃねえか」

『これで負ければお前のせい、晴れて騎手も交代って事になるな』

 そうして軽口を叩き合いながら装鞍所を周回しているうちに鞍検量を終えた斎藤さんが戻って来る。

「そういう事なら生憎と、いつもの通り今日も勝ちだ」

 会話を終える合図に軽く首を撫でながら、そう言った。

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