茂尻ちせ【ふらふら③】

 間が良いのか悪いのか、それから十分と経たないうちに大越さん達が帰ってきて、大越さんは鎬さんの存在に気付くなり珍獣でも見つけたかのような勢いでのけぞった。

「突然お邪魔して、すみません」

 折り目正しく会釈する鎬さんになおも固まったままなので、「レラを見に来たそうです」と付け加えてあげる。

「洗い場ですか?」

「……ああ、繋いである」

 不機嫌なことが丸解りなおじさんはぶっきらぼうに言いながら鎬さんを表へ促す。鎬さんはそそくさと出て行って、楽しかったお話の時間はおしまいだ。

 後から洗い場の方へ続こうとすると、大越さんが「降りる気はないぞ」と私にだけ聞こえる声で呟いた。なるほど、大越さんの立場からすると不安になる状況だったのかも知れない。

「頼まれたって降ろしませんよ」

 本当は鎬さんに乗って欲しい気もするけれど、それとこれとは話が別なのだ。

 お世話になっているこのおじさんを私だってそれなり以上に信頼している。それに何より、他でもないレラ自身が、大越さんが乗れるならそれが一番良いと思っているだろう。本当の事はレラから聞かないと解らないけれど、きっと間違ってはいない。

 それ位のことは私にだって解るのだ。

 洗い場に繋がれたレラは私を見ると嬉しそうに首を振って、前に立つ鎬さんの事なんて視界に入っていないようだった。

「お帰りレラ、楽しかった?」

 話しかけながら額に手を置くと自分から頭を動かして、グリグリと撫でさせられる。やっぱりレラはかわいい。

「改めて見ると凄いトモしてますね、これで二歳馬か」

 鎬さんはレラの回りをぐるぐると回りながら、お尻から後足のあたりをまじまじと眺めている。

「調教がクソハードなんだよ」

 まだ鎬さんへの警戒を解いていないらしいおじさんが言葉少なく返す。

 私は二人を放っておいてレラの顔にホースで水を流し始めた。

「しかしエトゥピリカによく似てますね」

「全弟だからな」

「エトゥピリカのお尻は嫌と言う程見せられたんで、お尻で解ります」

「その発言、変態みたいだぞ」

「この業界みんなそんなもんでしょ」

「ま、確かに」

「性格も似てます?」

「いや、どうだろ。エトは割とカッとなる所あったけどコイツは幾分クレバーだよ。ただまあ、その分日頃の行いはヒドいね」

 それまで気持ちよさそうに水を浴びていたレラが大越さんの言葉に反応してブルルと威嚇する。大越さんは威嚇されたのを楽しんでいるみたいにケケケと笑っている。嫌なおじさんだ。

「乗ってみたいか?」

 嫌なおじさんは鎬さんに対しても嫌なおじさんだった。乗り替わりはしないと改めて伝えたばかりなのに、まだ意地の悪い質問をする。

 意地の悪い質問だけれども私は無性に鎬さんの答えを知りたくて、ブラシでごしごし擦りながら自然と聞き耳を立てていた。

「そりゃ乗りたいですよ――」

 当然だと言わんばかりの反応速度で鎬さんは答える。

 やった、と私は嬉しくなる。

 でも、言葉は続いた。

「――でも、この馬には大越さんが乗ってないと」

 その瞬間、ホースから流れ出る水なんかとは比べ物にならない冷気を背中に感じて、指先から血の気が引くとブラシを床に落としてしまった。それまでの浮かれ気分が全部吹き飛んでしまうような寒気だ。

 いじわるをしているのは、大越さんだけではなかった。鎬さんは格好よくて優しいだけの男の人ではなくて、大越さんと同じ騎手だった。

「アマツヒってヤツか」

「日曜、京都の第五レースです。見れば解ります」

「意外と自信家なんだな」

「宣戦布告のつもりですから、来年の」

 大越さんも鎬さんも、お互い表面上は飄々としたもので、声色は笑っている。それなのに、怖くて二人の表情を見ることが出来なかった。

 気付いていないふりをしてブラシを拾い、作業を再開すると、心配した風なレラが鼻を寄せて来たのでいきおい跳ね返った水を被ってしまう。

 冷たかったけれども、やっぱりレラは優しいから、ようやく笑えた。


 汗を流し終えたレラを馬房に戻すと何も言わなくても大越さんとじゃれ始めたので、自然と手が空いた私は鎬さんの見送りに出ることができた。いつもであればムッとしているところでも今日ばかりは感謝してしまう。

 タクシーを待つ間、冬が間近に迫って夕焼も早まった頃合いは吐く息も白く染まる。緊張で火照っていたから気付かなかったけれどよほど寒そうに見えたのだろうか、鎬さんはしきりに「もう大丈夫だよ」と言ってくれた。

 私はその気遣いを受け流して、静かに隣に立った。鎬さんも言葉は無かったけれど、それで良かった。きっと、私の人生でこういう事はもう二度と無いのだろうから、今日くらいは少し我儘になっても良いはずだ。

 そうして暫く並んでいたら、突然鎬さんが羽織っていたジャケットを脱いだ。

 寒いだろうにどうしたのだろうと眺めていたら、顔を逸らしてあさっての方を向いたまま、脱いだばかりのジャケットをずいと差し出してくる。

「上、羽織って」

「大丈夫ですよ、作業したから汗かいてますし」

「気になるならあげるよ、とにかく着て」

 鎬さんらしからぬ強引さで私の手にジャケットを押し付けると、早く着ろと催促する。ここまでされては断るのも妙だし、内心では飛び上がりたいくらい嬉しかったので、そそくさと袖を通した。

「ありがとうございます……クリーニング出して、送ります」

「気にしなくていいよ、こっちが押し付けたんだから」

 襟元に顔を埋めながら、そっと深呼吸、してしまう。

 高級そうなジャケットからは、革の匂いに紛れるように鎬さんの優しい匂いがする。ダボダボした袖の重みは男の人に包まれているようで心地よい。

 ふと隣を見ると、私の目線よりちょっと上に、綺麗な男性の横顔が見える。目尻が綺麗に伸びていて鼻も高い、本当に王子様みたいな顔だ。騎手としては長身で、一七〇センチもあるらしい。私が小さいのもあるけれど、上目遣いに覗けるこれくらいの人が彼氏だったら良い。体重は五〇キロくらいなのだろうからガリガリかと思ったら、シャツの上からでも解るくらいに二の腕が張っている。顔立ちも立ち振る舞いも全然そういう風に見えないのに、アスリートだ。

「今日はすみませんでした」

 まじまじと眺めていたところに不意打ちの言葉が飛んできて、やましいことだらけだったので、心臓がビクンと跳ねた。今、頭の中身を知られたら、変態過ぎて逃げられてしまうという確信があった。

「慣れてしまって、言葉遣いも失礼になっていましたので」

 どうやら鎬さんは私の頭の中を覗ける訳では無いらしいと安堵する一方で、こんなに良い人に私は何をやっているのだろうと自己嫌悪の情が沸く。

「それは、いえ、却って嬉しかったので」

「そう言って頂けると助かります」

「本当に、出来ればこれからもタメ語でお願いします。ほら、私年下ですし」

 半ばやけくそくらいの気持ちで言ってみると、夕焼けた鎬さんはにっこりと微笑んで「それならお言葉に甘えようかな」なんて、どこまで王子様なのだろうかと思うような言葉を平気で言ってくれる。

「自分より年下の女の子と話す機会なんて滅多に無いから、ついね」

「鎬さん若いし、そもそも女の子いないですからね」

「たまーに外部のメディアとかで女の人と話すんだけど、苦手でさ。高校とか大学に行かないとああいうノリって解らないのかな」

「それなら、私も高校中退ですから」

 そんな話をしていたら、自然と二人で笑えていた。鎬さんの笑い声がとても嬉しくて、ジャケットなんか羽織らなくても十分なくらいに温かい。

「でも、さっきは驚きました。宣戦布告なんて言うんですもん」

「あれは本音。ゲームなんていくら勝っても虚しいだけだから、やっぱり現実で勝たないとね」

「私、レラの馬主ですよ?」

「そうだね。だから悪いけど、クラシックは諦めて」

「ついこの前登録したばっかりなのに」

「二着なら空いてるよ」

 鎬さんがどこまで本気で話しているのか、もう解らなくなっていたけれど、そんなことどうでも良いくらいに幸せで、脳が溶けてしまったのかも知れない。

 そうして楽しくお話をしていたら、やがてタクシーがやって来た。

「ジャケット、送ってくれるなら着払いでお願いね」

なんて、去り際の冗談まで鎬さんは素敵だった。


 スキップしながら馬房に戻るとレラと大越さんが揃ってこちらの方に向いて、何か変な物でも見たような視線を向けて来る。浮かれ気分が顔に出てしまったのかも知れない。

 気を引き締めてから、「どうかしました?」なんて、何でもない風に聞き返す。

「そのジャケット、どうした?」

 どうやら気になっていたのはジャケットの事らしい、人から聞かれると嬉しくなるけど、冷静に、あくまで何でもない風に「鎬さんが貸してくれました」なんて答える。

「ちょっと照れてるみたいでしたけど、すごく紳士でした」

「総司がねえ……ふーん」

 得意になってジャケットの前を開いて見せると、大越さんは何か気になる事でもあったのだろうか、一瞥した途端に渋い表情になって、考え事をする時のように唸り始めた。

「そうか、なるほど……言われてみたら総司って確かに」

「何なんですか、気になるじゃないですか」

 折角の楽しい思い出に難癖を付けられるのはたまらない。睨みながら言ってやると大越さんは面倒臭そうに頭を掻いた。

「まあ、色々と。本当に寒そうだから貸したのもあるだろうし」

「気になるじゃないですか、言ってくださいよ」

「いや……何というか、作業の時は白いシャツ着るのやめた方が良いというか」

「は?」

「この仕事ってどうしても濡れるし、それか下の方を考えるとか、まあ何とかしろよ」

 ごにょごにょと、いつもの大越さんらしくない歯切れの悪さだ。

「今までも迷った事はあったけど、お前一応年頃だし、牧場育ちだし、却ってそんな事言う方が変な気もしてさ。まあ何だ、教えてやらなくて悪かったな」

「ハッキリ言ってくださいよ、何なんですか」

「だから、透けてんだよ」

 言われて自分の胸元を見ると、確かに綺麗に透けている。レラの水を被ったからだろうか、この上なくはっきりと、肌の色まで透けている。

 どうでも良い事のはずなのに、他人から言われると、ましてや鎬さんに見られたと思うと、頬が真っ赤に染まっていくのが解るくらいに顔が熱くなる。

「大した事じゃないけど、多分総司は本当に免疫無いんだな。本物のエリートだから、アイツ」

 そうして堪え切れなくなったように馬鹿笑いを始めた大越さんは紛れもなくただのセクハラおじさんだ。


 作業が終わったら、いつもはレラを撫でたりして少しぼんやりと過ごすのだけれど、今日はササっと撤収する事にした。

「なんか用事でもあんのか?」

 怪訝な表情の大越さんは聞こえなかった設定で受け流してさっさと自転車に跨り、夕食の買い出しもカットして立ち漕ぎで寮へと帰る。

 そうして玄関の鍵を閉めた途端、腕にかけていた黒革のジャケットの重みが急に存在を主張し始めた。ずっと意識していたものが我慢できなくなったみたいに溢れ出て、心臓がばっくんばっくんうるさい位に鳴っている。

 鎬さんのジャケット。

 考えるだけで、ぶっちゃけ、とても興奮する。

 レラのお腹にするように、顔を思い切り押し付けて、思いきりにおいを嗅いでみたい欲望がむらむらと沸き起こる。

 誰に見られるはずも無い自分の家の中なのに、こそこそと辺りを窺い、閉めたばかりの玄関の鍵がきちんとかかっている事を四回も確認してから、ジャケットを抱えてベッドの上に正座する。

 ちょっと遠慮がちに顔を寄せ、ちょっと控え目な深呼吸をしようとした――その時、生地の内側で突然何かが震えた。



 翌朝、いつものように厩舎に行って、いつものようにレラのにおいを嗅いで、いつものように取り繕って作業をしていると、いつものように大越さんが来た。

「おはよ」

 いつものように通り過ぎて行こうとする手をむんずと掴んで引き留める。

 大越さんは眠気が一気に吹き飛んだみたいに、目をぱちくりさせて驚いた。

 私は、懐からブツ取り出して、押し付けるみたいに突き出す。

「何だよ急に……携帯がどうかしたのかよ」

 大越さんはぼやきながら受け取って、何の遠慮も無しに操作を始める。

「ジャケットに入ってたんです」

 内ポケットに潜んでいた携帯電話の衝撃は来ていたフケも吹き飛ばしたので私の変態行為は未遂で済んだ。冷静になって考えると、昨日のアレはどう取り繕っても下着ドロ同然の行為であり、あの着信には感謝してもしきれない。

「ああ、総司のか」

「やっぱりそうですよね」

「そりゃアイツの服に入ってたならアイツの携帯だろ」

 何当たり前の事聞いてんだよみたいな感じで大越さんは呆れた顔を隠さない。

「にしても案外アホだな、携帯入れたまま貸したのかよ」

「誰にだってうっかり位ありますよ」

「お前見て動揺してたのかもな」

 朝っぱらからセクハラ発言、しかも私と目があったら【ハハッ】って感じで馬鹿にした風に笑うのだから、このオッサン最低だ。流石に頭に来たので携帯をふんだくるように取り返した。

 大越さんは反省する素振りも見せずにレラの馬房へ入っていったので、私は仕方なく後を追いかける。

「鳴らなかったのか?」

「へ?」

「いや、普通は携帯なくした事に気付いたら鳴らすだろ」

「昨日の夜、何回か鳴りました」

「出なかったの?」

「急だったし……色々あったから」

 自分でも解るくらいにごにょごにょ口籠ると、大越さんの怪訝な表情がより一層深まった。それを見ていたレラは、大越さんが私をいじめていると勘違いしたのかも知れない、大越さんに身体を押し付けるようにして、じゃれているのだろうか、威嚇しているのだろうか、どちらともつかない。

「やめろって、俺は何もしてねえだろうが」

 楽しそうな大越さんとレラのじゃれ合いを眺めていたら、手にしていた携帯がぶぶぶぶぶぶぶぶ。震えた。

「お、お、お、大越さん! 電話! 電話! 鳴りました!」

「そりゃ電話なんだから鳴るだろ。どうせ総司だろうし、出てやれよ」

「でも、でも!」

「あーうるせえ。もういいよ、貸せ」

 大越さんは面倒臭そうに馬栓棒をくぐると私から携帯をふんだくり、何でもない風に通話を受けた。

「どうも、おはよう。そう、大越だ……いやちせが気付いた、昨日会っただろ、レラの馬主だ。そうそう、それ。うん、うん、あー、そうか、へー……」

 大越さんは通話をしながらこちらを向き、指で携帯電話を示して『代わろうか?』とジェスチャーしてきたので、私は殆ど反射的に首を振った。代わっても満足に話せる気がしないし、後ろめたさが爆発してとんでもないことを言い出しかねない。

「いや、別に構わないよ……ところでちょっと頼みがあんだけど……その前にちょっと待って」

 大越さんはふと何かを思いついたように通話口を指で押さえると、

「お前今週暇だよな?」

そんな風に話を振ってきた。

「いや、レラの世話が」

「レラの世話以外で、絶対外せない事務とかは?」

「日曜に東スポ杯の特別登録するくらいですけど」

「それだけ?」

「今週の出馬事務とかは無いです」

 私の答えを聞くと大越さんは小さく頷き、指を外して通話を再開した。

「悪い、待たせた。携帯無いと不便だろうしこれから届けるよ。調教終わってからだから昼過ぎになるけど、まあ夕方には手元に届くだろ……いや、流石に俺は行かない、ちせに行かせるから」

「へ?」

「その代わり栗東の案内してやってくれよ……そう、北海道から出た事無いし京都駅まで迎え来て。ああ、ホテルとかその辺もお前やっといて……いや普通は泊まるだろ、京都まで呼びつけといて一日で帰すの? そりゃあいくら何でもひどいんじゃないの?」

 勝手に話を進める大越さんに、私はあわあわするより無かった。あわあわ手を宙に彷徨わせているうちに大越さんは全部終えてしまって、ぶつりと通話を切った。

「特別登録なら京都の場内でも出来るだろ。エリ女の観戦がてらゆっくり観光して来い、総司のエスコート付だ……って事で、後はまあ頑張れ」

 鼻歌みたいに軽い口調で言いながら私の手に携帯を戻すと、また馬房の中に入ってレラと遊び始める。

 見かねたらしい斎藤さんが声をかけてくれるまで、私の時間は止まったままだった。










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