大越凛太朗【hopeful⑥】
パドックの騎手控室には既に数名の騎手が集まっていた。最終検量を済ませてから最後方のシートに腰を下ろし、暇に任せて各騎手の帽色と勝負服から靴下の色を軽く見直して一致させておく。
宮代明の個人所有を示す黒地に黄の鋸歯形と四枠青色の帽色はまだ見えないが、総司の定番となっている紫色の靴下は目印に丁度良く、改めて確認するまでも無い。
「いやあ、お疲れ様」
気の抜けた声に視線を向けると、隣に磯上さんが座っていた。
「こんだけ乗ったのに今日はまだ一つも勝てない。鎬君なんて今日だけで四つも勝ってるのに、やってられないね」
ぼやきを聞いている風に装いながら頭の上から足元まで視線を流す。レラと同じ七枠橙の帽色にねずみ地と黄の星散の勝負服で靴下は白。
「さっきのレースも勝ってたよ。ここには間に合わないかもね」
第十レースと言えば昨晩散々汗をかいていたハンデ戦だろう。勝てたのなら苦労した甲斐もあったのかも知れない。
「芝はどんな感じですか?」
「ああ、地方の人間だから良く解らないけど、インはかなりダメみたいだね、みんな避けてるから」
世間話程度に話題を振ると、冗談めかした口調で磯上さんは言った。
パドックに目を向けると、G1レースという事もあって大勢の馬主関係者が顔を出している。知った顔を探ってみると、妙に人が密集している集団の一角にちせと件の性悪お嬢様が並んでいた。恐らくお得意様の引率をしていたお嬢様にちせがくっついたのだろう。お嬢様の方はトレセンで会った時のような高飛車な雰囲気も無く、関係者が連れて来たらしいぶかぶかのコートを羽織った女の子と目線を合わせるようにしゃがみこみ、周回する馬を指しながら何やら話しかけている。ちせはその隣で女の子の両親らしき夫婦と談笑しており、集団に溶け込んでいるその様に呆れ半分の溜息が漏れた。
やがて慌てた風な総司が控室に駆け込んでくると十三人の騎手が全員揃った。総司は秤にさっと乗って問題がない事を確認してから、最前列に腰を下ろして息を入れている。
ふと、磯上さんが呟くように言った。
「お互い様で、後ろにいる方が外を回そう」
微笑みを携えながら、冗談とも本気ともつかない声色。あくまでも独り言の体を崩さず、俺だけに聞こえる音量で言い、じっと反応を待っている。
俺は小さく頷いた。
騎乗時刻が近付き、パドックの中心で待つ馬主達への挨拶に周囲がそろそろと動き出したのを見てから、俺もゆっくりと立ち上がった。控室には俺と総司だけが残されていて、顔を見合わせると何となく笑ってしまう。
「挨拶、行かんでもええんですか?」
「敢えて挨拶に行くのも却って変だからな、レースの事を最低限話せればそれでいいんだ。お前は?」
「明さんはノコノコ挨拶行くと嫌がるんですよ。馬見るのを邪魔されたくないんでしょう。だからギリギリに行くんです」
そんな風に言い合ってから人の輪をかき分けてパドックの中央へと向かう。
性悪お嬢様の元から我らが馬主の首根っこをひっつかんで回収し、目を丸くして驚く皆さんには折り目正しい礼を残して、御大の元へと連行する。
「馬主として言っておきたい事、何かあるか?」
「何より無事にお願いします。前みたいな事は、無いようにしてください」
引きずりながら尋ねると、ぽつぽつとちせは答えた。
「解った」
腕を組んで周回を眺めていた御大の元へ到着する。
「外に出せ」
御大からの耳打ちはその一言だけだった。
「了解です」
そうして止まれの号令がかかり、俺がいつものように観客へ向けて御辞儀をすると隣に立つ御大もまた同じように御辞儀をした。正確に言うと俺は御大からそうする事を教わったので、俺が御大と同じように御辞儀をしているのだ。
そうして、今日はワンテンポ遅れてちせも同じように御辞儀をする。馬主が観客に礼をする必要があるとは思えないが、悪い事でもないだろう。
三人揃って頭を上げてからレラの元へ向かい、御大に抱えられて鞍に跨る。
「緊張はしてないな、良いことだ」
ちせに額を撫でられて上機嫌なレラへ、いつもの調子で声をかける。
『そっちこそ、ビビッてヘマすんじゃねえぞ』
レラもまたいつもの調子で言う。
「よし、行くか」
前の馬が動き出したのを見てから手綱を取った。
斎藤さんに引かれてパドックから地下馬道へ入る。薄暗がりの分かれ道を先導に従って暫く進んでいくと、緩やかな上りスロープの向こうに眩い世界が見えてくる。地下を抜けてから道なりに右方向へ進路を取ると、突如として視界が開け、だだっ広いグランプリロードとその先の中山のターフが一直線に連なる。
「やっぱり、ここの景色は綺麗だな」
コースまでの一直線を幅広にぶち抜いた贅沢な通路は日本の競馬場で随一と言って良い立派なものだ。特にG1の時などは入場を待つファンがかぶりつきで覗き込んできており、正しく舞台への花道そのものといった装いになる。
その時、先頭の誘導馬達が一足先に観客の前へと姿を見せたのだろう、前方からG1の入場曲と正面スタンドの歓声が鳴り響き、レラがピクリと反応した。
「大丈夫、ただの応援だ」
『解ってるよ』
宥めるように首を撫でながら前へ進ませる。右側から花道を覗き込むファンは心得たもので、大きな声は出さずに、静かに馬達を見送ってくれる。
「もう大丈夫です」
馬場に入る手前で斎藤さんに言うと、向こうも予想していたように手際よく引綱を外して脇へ外れた。
「まずはゆっくり、並足だ」
スタンドの歓声に必要以上に反応しないことを確かめてから外埒沿いに進路を取り、足元を確かめるように、じっくりとダグを踏ませる。そうしていると後方の数頭が勢いよく追い越して行った。
『あっ!』
レラがそんな風に叫んだ。あの野郎俺の順番を抜かしやがったみたいな反応。それが妙に可愛らしく、大舞台だと言うのに馬上で吹き出してしまう。
「大丈夫だって、焦る必要は無い」
『でも、なんかズルくねえか』
「ズルくは無いさ、スタート地点に行くだけだからな。変に急ぐよりこうしてしっかり足慣らしした方が身体にも良い」
『年寄りみたいな事言いやがって』
「大事な事だ、良いから黙ってじっくり並足。ほれ行け」
気の抜けたやり取りにすっかり肩の力も抜けて、リラックスしてレラを進ませる。レラもまた俺に応えるように一歩一歩感覚を確かめるように踏み締めながら身体を解す。
「どうだ、ここの芝」
『別に、普通だぞ』
「なら良いさ、いつも通りで良い」
特別な事は何もないという事が解ればそれで良い。如何せん初めての中山だ、右回りへの不安は無いが、コース自体に嫌なイメージを持たれては困る。
「さて、もう少しスピードを出そうか」
そうしてスタンドを半分も通り過ぎてから、キャンターへ移行して返し馬に入った。
発走時刻が近付き各馬がゲート前に集まる。
それとなく周囲の様子を観察してみたがイレ込んだ様子の馬はなく、見た目には各馬とも順調だった。その中でも抜きんでて静かな圧を放っているのが四枠五番の青帽、黒地に黄鋸歯の勝負服のアマツヒであり、もしかすると他馬は落ち着いているのではなくアマツヒに委縮しているのかも知れない。
「ありゃすげえな」
立っているだけで他を制するその存在感にそんな感想が漏れてしまう。
『どれだよ』
「アレだよ、アレ」
『だからどれだよ』
「ホレアレコレソレ」
『もう良い、うるせえから黙ってろ』
こうして遊んでいられる程度に余裕なのは、俺達くらいのものだろう。
「ゲートの前にいる黒い青帽だ。アマツヒってんだと」
『ああ、アレか』
「他の馬は割とビビッてそうだけど、お前はそうでも無いんだな」
『別に、普通に勝てるんだろ。お前がそう言ったぞ』
「その通り、信用してくれて結構だ」
そうしているうちにスターターが現れ、気の早い観客が手を叩き始めた。
「多少うるさくなるけど、驚くなよ」
スタート台がせり上がりその頂点で赤い旗が振られると、彼方から管楽器のファンファーレが鳴り響き、スタンドから掛け声と手拍子が巻き起こる。
ファンファーレだけならばともかく、この派手な演出はまだ幼い二歳馬達に少なからず動揺を生んだ。ホクヨウアーツが立ち上がりかけあわやという場面になる。或いは、歓声だけが理由では無いのかも知れない。振りほどかれないようにしがみつく館川君の青白い表情を見る限り、観客の盛り上がりに鞍上の緊張が弾けてしまいそれが馬に伝わったという線も有り得る。
『なんだよアレ、みっともない』
嫌な緊張が伝わってしまったのだろうか、多少ナーバスになった風にレラがぼやく。
「他所の事は気にするな。それより、もう時間だ」
出来るだけ気を逸らせるように、俺はそっと言い聞かせた。
奇数番からの枠入りは順調に進み、五番アマツヒも堂々ゲートに収まると中で嫌がる素振りも見せない。
七番エヴィーヴァが入って偶数番へ。係員に引かれてレラも十番ゲートへと進む。
深く息を吸い、思い切り吐き出す。ゲートに前足を踏み入れるタイミングでリセットボタンを押し、こねくり回していた思考の全てを空にする。
多少不安があったホクヨウアーツも順調に入って偶数番も終了。
最後に十三番スギノリュウジョウが収まってスタート体制が整うと、一寸の拍を置いてゲートが開いた。
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