大越凛太朗【牧場編③】

 午前四時ごろに自然と目が覚める。寝坊したと焦るようなことは無く、まずはお湯を沸かしながら落ち着いて作業着に着替える。起床時刻はトレセンの頃よりも遅いのに、その上モーニングコーヒーを味わいながらゆったりと朝食の用意が出来るのだから貴族的な暮らしだった。

 頭が働き始めたら適当に朝のメニューを決める。とは言え基本は晩の残り物で、卵があれば目玉焼きをプラスするとかそんな程度だ。

「おはようございます」

 欠伸を噛み殺したちせは大抵五時少し前に起きてきて、その頃にはすっかり朝食の準備が終わっている。暮らし始めた最初の頃は俺よりも早起きなくらいだったが、朝食を俺が担当するようになって一月も経つと次第にゆっくり起きてくるようになった。

「大分寝坊するようになったじゃん」

「すみません。でも、朝ゆっくりで良いって幸せですねえ」

 所帯じみた主婦みたいな事を言いながら、ちせは机に突っ伏した。

「良い傾向だよ、一般家庭じゃこれでも十分早起きだからな」

 牧場を閉めた後のことを考えれば夜中に起き出す生活リズムを少しずつでも一般社会に寄せて行かなければならない。そうした“リハビリ”が必要な程度には、ちせの生活リズムは世間からズレている。

「用事終わったら社会勉強のつもりで少し街中ぶらついて来いよ」

 ちせは今日、牧場を閉めた後の新生活を準備する為に、街へ出かける予定になっている。人口五千人程度の小さな町では現代社会を学ぶのに適切な教材とも思えないが、十キロ圏内にコンビニすら存在しない、文明という概念が完全に消失したようなこの辺境の牧場が比較対象では、人が暮らしていればそれだけでもマシになってしまう。

 そしてちせは、そんな辺境の地で十数年の間ごくわずかな身内や馬とだけで暮らしてきたのである。今のままこの芋娘を都会に放り出すようなことになれば、東京と言わず札幌程度でも、文明の毒に萎びて死んでしまうだろう。

 突っ伏したままのちせにインスタントのコーヒーを差し出すとむくりと起き上がった。寝起きとはいえあっちゃこっちゃに跳ね返った寝癖が馬の首みたいにゆらゆら揺れる様を見てしまうと、世間一般の女どもと比較してほんの少し可哀そうにも思える。

「大越さんが言うと説得力ありますね」

 コーヒーを飲みながら、ちせがぼんやりと呟いた。

「何?」

「ほら、一般家庭の話。私は牧場の生活以外知らないから」

 とろんとした瞼でちせは微笑み、俺は反射的に視線を逸らしていた。

「俺も、知らんけどな」

「でも、大越さんって外から入ってきた人ですよね?」

 騎手になるような人間は、大なり小なり馬に関係のある家に生まれたやつが大半だ。裏を返せば、俺のようなよそ者が入り込む事なんてそれ自体が珍しいから、業界で生きていれば実家の話は必ずついて回る。ましてやちせの場合は自分の所の馬の主戦を任せていたのだから、俺の過去などある程度は知られていても当然だろう。

 ただし、特に俺の場合、ある程度という中途半端さは却って厄介だった。というのはつまり、知っている人間ならば深入りを避けるような込み入った家庭事情なのである。

 折角の優雅な朝なのに、思い出したくも無い話題に触れてしまった。

「馬の家じゃないけど、一般って感じでも無かったんだよ」

「何それ」

 冗談とでも思っているのだろう、ちせは無邪気に笑った。俺は何も知らないその反応に安堵した。

「話すと長いし、めんどくせえ」

「えー、教えてくださいよ」

「そのうちな。それよりさっさと飯食うぞ、今日は忙しい」

 ちせにとって大して知りたい話題でもないのだから、必死になって隠すより曖昧なまま流してしまえばそれで済む。

 料理を運ぶ俺がテーブルに着くのをちせはちゃんと待っていて、声を掛ける訳ではないが、いただきますと手を合わせるタイミングが揃う。そういう時間は、なんとなく、けれど本当に、有り難い。


 自分たちの食事を終えてから、その日の作業を始める。ほとんど汚れる事が無い馬房掃除はものの数分で済むので、カイバも六時前には用意出来る。美浦村より日の出が遅いこともあって、深い雪の夜からようやく紫色の曙光が漏れ出そうかという時間帯だ。

 厩舎の中には今日の天気を伝えるラジオの音声が響き、外が吹雪くとノイズが混じる。俺とちせは、牧場の奥に広がる、鬱蒼とした森林へ続く獣道の方を眺めて、輪郭を持ち始めた景色に三頭の姿が現れるのを待っている。

 牧場に隣接しているとはいえ、人の手で整備されている訳ではない自然の森で真冬の夜を過ごすサラブレッドなど聞いたことも無かったが、ここではそれが当たり前だった。馬達が厩舎に入ってくるのはカイバや手入れの時か、それにちせに甘えたくなった時くらいで、基本的に一日中外で過ごしている。多少吹雪いたくらいでは戻ろうとしないし、ちせもまるで心配しないため、彼らは雪の中でも自由にうろつき、勝手に沢へ降りて水を飲み、そこら辺の草を適当に食むという、野生さながらの暮らしをしている。

「あ、来た」

 ちせが呟いたので視界に集中すると、森の奥からひょっこり現れた三頭の姿は粉雪の中にその影がようやく判る程度だった。

「おかえり!」

 そうしてちせが手を振りながら声を張り上げると、雪の中を駆けてくる三頭は尻尾を振る犬のようにその勢いを増すのだから苦笑するよりない。

「ほとんど野生なのにな」

 世話をする側からすれば仕事が減って有り難いことだが、首輪をしている訳でも無いのにこれほど主に忠実な家畜というのは、実際に目の前で見ている今でもどこかオカルトめいて感じる。極端すぎる野生の中で暮らしながらも反面では人と本物の家族のように暮らしているという奇妙な関係性だ。

「よそが過保護過ぎるんですよ」

 ちせは当然のように言う。何か特別な事をしているつもりなど無いのだろう。

「まあ、確かに。アイツらの場合は余計な心配だな」

 事実を自分の目で確かめた俺もまた、そう言わざるを得ない。

 この方式を知らされた最初の数日間は、熊やら野犬やらがウヨウヨしている中で放し飼いにする事など考えられず当然反対した。しかしちせはまるで取り合ってくれず、それどころか、一緒に過ごしてみれば解るからなどと言って俺をレラたちと一緒に一晩外へ放り出したのだ。

 結果、心配は全くの杞憂である事を思い知らされただけだった。

 この三頭の馬、そんじょそこらの野犬程度であれば余裕で蹴り殺してしまうのである。俺が付き合った夜も運悪く数頭の野犬の群れに出くわしたが、馬達は逃げ惑うどころか雄叫びを上げて突撃し、野犬の脳髄を癇癪玉よりド派手な勢いで辺り一面にぶちまけてみせた。暫く肉が食えなくなりそうなスプラッタな惨状に打ちひしがれていた所に、狩り過ぎて数が減っちまったんだよな……としみじみ呟いたレラを見て、俺はコイツ等の保護者役を早々に辞退したのだ。

 流石に熊が出た場合はやり合わないらしいが、雑木林を時速六十キロ以上でビュンビュン突っ走る競走馬である、捕まる訳ねえだろとはレラの弁だが全くその通りで、この森での彼らは却って熊や野犬が避けて通る存在に違いない。

『ちせー、おはよー』

 呑気な挨拶をしながら駆けてくる、一見では邪気の欠片も感じられない純粋無垢な馬達だが恐らくは昨晩も数頭の野犬を血祭りにしたのだろう、蹄の裏に血と脳症がこびりついているかも知れないと考える方が自然だ。


 厩舎まで帰ってきたらまずは検温するのだが、三頭ともちせにやって貰いたがるため人気の無い俺は客を確保するところから始めなければならない。

「おい、俺の所にも来いよ」

 声に出して言いながら、葦毛の馬に手を掛ける。

『やだよ、ちせがいい』

 身体を揺すって拒否するのは初日に牧柵の中で俺の陰口を叩いていた馬その一、登録名はサンスピリット号、牧場ではレタルと呼ばれている。三歳の牝馬で脚部不安から放牧中、中央で七戦二勝しており重賞挑戦の経験もあるらしいからうだつが上がらないという評価は間違いだったかもしれない。オーナーの意向で繁殖に上がる事まで決まっており、大事を取って来年の春まで戻らない予定だそうだ。

「じゃあクーこっち来い、やってやるから」

『凛太朗はレラに乗りに来たんだから、レラの世話をしなよ』

 牧柵の中で俺の陰口を叩いていた馬その二、スギノホウショウ号は牧場での呼び名をクーと言い、鹿毛の額に弓張月のような星がある。新馬戦では入着もしたが二戦目を目指している時にソエが出たらしい、軽く走らせる程度ならば全く問題無いようだが、馬主は無理をさせずに来年の夏競馬で上を目指す方針とのことでこちらももう暫くは放牧されている予定とのこと。

「レラ、来いよ」

 結果は解り切っているのだが一応声を掛けてみると、我が愛馬は冷めきった視線をちらりと返しただけだった。当たり前といえば当たり前なのだが、返事すらないのは少し寂しい。

「おい、レラ」

 焦れてもう一度声を掛けると、ようやくこちらに向いて一言。

『後で乗せてやるから、それで良いだろ』

 これである。

「遊んでないでさっさとやっちゃいましょうよ」

 三頭から拒絶されてほんのり傷心していた俺に、呆れた感じでちせが言う。

「みんなお前にやって貰いたいってよ」

「何それ、サボってないで仕事してくださいよ」

「ならお前が決めてくれよ、そうすりゃコイツ等も言う事聞くから」

 成果の上がらない営業活動に嫌気がさしてちせに投げると、馬達はピクリと反応してちせを見る。自分が回されないことを祈っているらしく、緊張感すら漂わせているのだから、事情を理解している俺としてはひたすら虚しい。

 話を向けられたちせは怪訝な表情だったが、仕事を進めたい気持ちが勝ったのだろう、考える間も置かずに「それならレラを」と手短な指示だった。

 瞬間、レラはがっくりとうなだれる。

「じゃ、やっちゃいましょう」

 ちせは落ち込んだレラの様子に気付いた素振りも見せず、慌しく動き出した。ひょっとすればさっさと仕事を済ませて街へ出る支度にとりかかりたいのかも知れない。いつもならば言葉が通じていなくても馬の変化を敏感に察しているのだが、今朝はやけに急いている。

 レラはしばらく他の二頭とちせの様子を羨ましそうに眺めていたが、やがてどれだけ見ていても相手にして貰えないことを理解すると、諦めたように俺の方へ寄って来た。勝手に計れと言わんばかりに無言のまま尾をまくりケツの穴を突き出してくる。その様は親に構って貰えずに不貞腐れてしまった子供そのもので微笑ましくもある。

「今日は我慢しろ、明日はお前をやってくれるさ」

 拗ねた子供に言い聞かせるように、そんな言葉が自然と口から出てくるほど、この牧場は馬と人が一緒になって暮らしていた。馬と人が家族になって日々を過ごす、幸せな家庭の風景に違いなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る