大越凛太朗【皐月賞前段⑥】
仁川の桜とはよく言ったものだ。
蝶のように空を舞うそれがふと目に入ると意識を取られてしまった。手綱を引かれた感触に我に返ると跨っていた彼女もまた俺と同じ方向を見上げていた。注意を逸らしてしまった事を詫びる代わりに首を撫で、レースへ向けて意識を立て直す。
午前中に降っていた雨は嘘だったように晴れ上がり、濡れた芝が陽光に輝いている。
係員の誘導に引かれてゲートに収まると、先に隣枠へ入っていたサブがからかってきた。
「花見でもしてたんか」
「この時期の仁川なんて縁が無かった立場でね」
「その割には随分余裕があるやないか」
「オノボリ相手にイジメてんなよ、趣味が悪いぜ」
軽口を交わしながらゲートの先に伸びる直線を見据える。
G1開催週の主場はどの風景も初物尽くしで気疲れするが、その分だけ自分の中に何かが蓄積されていく、新しい刺激に思考を巡らせる事で今まで気付いていなかった引き出しが見つかるような、そんな不思議な感覚があった。
だから今は、ゲートが開いて馬を出す、その瞬間が待ち遠しい。
レースを終えて慌しく騎手控室へ入ると既にパドックの中心では馬主たちが人垣を作っており、周囲の騎手も挨拶に出始める頃合だった。とはいえこちらはレースを終えたばかりの身、もう一息入れてからで構わないだろうとベンチに腰を下ろすと、後から入って来たサブが俺を追い越すように表へとすっ飛んでいく。
「体力あるな、アイツ」
年寄りめいた感想を同期に向けて呟くと、いつの間に背後に忍び寄っていたのか、
「大越さんは行かないんですか?」
総司の声だ。
首を逸らすようにして後ろの席を見ると、澄ました顔でこちらを覗き込んでいる。
「お前もさっきのレース乗ってなかったっけ?」
「若さ、ですかね」
「クソガキが」
「大越さんだってまだそんな年じゃないでしょ」
総司は笑いながら言うと、軽やかな足取りで歩を進める。
「はよ行かんと、有紀さん怒らすと怖いですよ」
そうして、一段飛ばしで階段を駆け上がって表へ出て行った。
「だから行きたくねえんだっての」
とは言えいつまでもこうしている訳にはいかない。どっこいしょなんて掛け声に合わせて立ち上がり、大一番前の熱気に満ちた人の輪へと歩を進める。
有紀はいつも通り黒いパンツスーツの出で立ちで、その飾り気の無さはパドックに陣取った他の女性陣とは明らかに異質な雰囲気となっている。近付く上で迷わずに済むだけこちらとしては有り難い話だが、会釈する距離まで近付くといつもとは少し違う事に気が付いた。
ネックレスをしていた。派手ではないし見えているのはチェーンの部分だけだが、いつもより首回りが開いた白いシャツから覗ける鎖骨に沿って、胸元へ隠すように、糸のように細い白銀色が垂れている。
「どうかした?」
怪訝な顔で言われてようやくまじまじ見つめてしまっていた事に気付く。
「ああ、すみません。そういうの、珍しかったので、つい」
首元を指して言うと、有紀は苦笑いのような表情で腕を組んだ。その仕草は心なしか胸元を隠しているようでもある。
「変かしら」
「いや、そういう事じゃなくて。普通に素敵だと思いますよ」
こちらが戸惑うようなリアクションに幾分狼狽えながら返すと、言い訳するような口調で有紀は言った。
「G1の時はこういう物の一つでもして行けって、父さんが言うのよ。それも礼儀だって、だから」
普段の尊大さをすっかり忘れたようにごにょごにょと言い淀む有紀を目の前で見ながら、美浦に尋ねてきた宮代明という男の影が浮かんでくると、笑いを堪える事ができなくなった。
「あの人もそんな事気にするんですね」
非の打ち所がないような牧夫スタイルでトレセンを闊歩していた当人の事を考えれば、G1レースのドレスコードなんてものに気を払う姿がまるで浮かばなかったのだ。
俺の反応に有紀は一瞬目を点にして驚いていたようだったが、すぐに大きく二度頷いた。
「そうなのよ、自分がそんなタイプじゃない癖に、こういう時だけ」
ひどく幼い、子どものような態度だった。そうして、有紀のそうした態度を見ると何故だか愉快だった気持ちが急激に萎んでいくのを感じた。
「可愛がられてるんですよ、表に出す時は綺麗な格好をさせたいんでしょう」
相手は馬主なのだからフランク過ぎるのも良くない。そう考え、理由を深く追求することはせずに話題を流そうとしたが、有紀の方が止まらなかった。
「いきなり美浦に行ったんでしょ、悪かったわね」
「構いませんよ、面白い人でしたし」
「昔からなの。自分がこうするって決めたら即行動するから、周りの迷惑とか何も気にしないの。傍迷惑な人」
「だが少なくとも馬のことには誠実だ、俺にはそれが全てです」
真正面から聞いてしまうと笑って流せそうになかった。父という言葉にどうしようもなく引きずられていた。何より、その程度のことに引きずられている自分自身に腹立たしさを覚えていた。
「そんな事言って、貴方だって父さんに良いように使われてるじゃない」
「どういう意味です?」
「貴方、本当はこの話断ろうとしたんでしょ。レラカムイの世話に専念しようとしてたけど父さんがそれを止めたって、父さんが自分で言ってたもの」
「結論だけ見れば騎手としても真っ当な判断ですよ」
「嘘ね、そんな一般論なんて興味が無い癖に。父さんにそそのかされたのよ」
「そそのかされていたとしても問題ありません。レラはちせが見てますし、俺の経験を補う為に必要な話でもありました。騎手としてのキャリアで考えればそもそも大正解なのはお話した通りです。断る理由がどこにあります?」
穏やかに淡々と語るだけだったが、G1レースの晴れ舞台に盛り上がる周囲の馬主たちからは浮いてしまったらしい、気が付けば俺と有紀だけが周囲の人だかりから切り離され、パドックの島中で孤島のようにぽっかり浮いていた。
周囲からの視線を感じると流石に有紀も察したようで言葉が止まる。人前でこうした注目の集め方をしてしまった経験が無いのだろう、腕を組んだままの格好で固まってしまった彼女の肩に気安く手を乗せる。
「続きはレースの後にしましょうか、まずはアルカン君だ」
言いながら二度ほど軽く揉んでやると、すっかりいつもの調子を取り戻してぞんざいに払い落とされた。
「レースプラン聞く気ある?」
「それは勿論」
「実行する気は?」
「可能な範囲で」
「よろしい」
そうしてそっと携帯の画面を差し出すと、簡略化されたマークすべき各馬の分析とレースプランがザックリと表現しても良いような大雑把さで書き出されている。
「これだけで良いんですか?」
「細かい事言っても守れないでしょ、貴方の場合」
悪態だがいつも通りだ。ファザコン野郎、とは間違っても口に出さずに笑顔で返す。
やり取りが終わり、周回する馬へ視線を戻した有紀を横から眺める。首から垂らした白銀の糸を辿るように、鎖骨の窪みと胸元の暗がりを目で追う。ファザコン野郎、もう一度腹の底で呟く。
止まれの号令がかかると、それまで遠くに聞こえていた周囲のざわめきが急に近くなった。アルカン君の調教師である上田先生に補助して貰い、馬上へと上がる。
「どうせそそのかされたのなら、結果もキッチリ出してきなさい」
俺を見上げながらなおも有紀は言う。馬上からでもやはり鎖骨にかかる白銀の糸は目についた。何となく、それは優勝レイのようにも思えた。
「良いから任せなよ」
アルカン君の手綱を握りながら、ファザコン野郎、と誰にも聞かれない小さな声で呟く。
カンカン場へ入ると両手を大きく広げた上田先生が出迎えてくれたので、手を軽く上げて応えた。泥の付いたゴーグルを外しながら下馬し、腹帯を外そうとすると背後から抱き付かれた。
「ありがとう! ありがとう!」
高そうなスーツに泥が付いても良いのだろうかと抱き付かれた俺の方が不安になったが、しかし考えてみれば上田先生はG1初勝利だった。ならばと抱き付き返して勝利の泥を記念に付けてやる事にする。
良馬場発表だが実際は稍重を通り越して重馬場だったろう、前を行く馬から泥を跳ね上げられるような渋い馬場でも気にせず道中行きたがる素振りを見せるアルカン君を腕力で押さえ込んで番手をキープ。ハナを取った郷田さんの馬を風除けに進み、前一〇〇〇は一分と少しという馬場を考えればやや速い流れ。それでも上位陣がこぞって後方で牽制し合っていた事から道中で脚を擦り減らしており、三角から押し上げて来るところを見計らってこちらのペースも上げてやれば最後の直線は雨で重くなった馬場も相まって必然的にドロドロの泥仕合となる。切れ味で勝負するはずだった有力各馬はその武器を失い、逆にキレる脚は無くてもジリジリとしぶとく食らい付くタイプのアルカン君の持ち味が生きる展開が出来上がり、見事にハナ差で押し切ったという訳だ。
「これが噂に聞いてた大越マジックか」
「んなワケの解んないモンじゃないですよ、アルカン君のバカ力と根性が全てです。その分腕パンパンですけどね」
上田先生ともみくちゃになって戯れていると、その後ろから有紀が現れた。
「上田さんは一回離れて、とにかく先に検量してきなさい」
俺と上田先生のやり取りに呆れた風な様子でそう言うと、特段と喜んでいる様子は見えない。冷めた態度にムッとしないではないが、先に検量を済ませた方が良いのは事実だ。上田先生と距離を取り、検量へと向かった。
そうして、口取り写真の段になるとアルカン君の一口会員さんが一斉に現れた。数えただけでも数十人になる大所帯は撮影するにも一苦労だったが、目が合った会員さんが遠慮がちにお礼の言葉をかけてくれるのを聞くと、クラブ馬も悪く無いのかも知れないなんて思った。
会員さん達を帰し上田先生がアルカン君を連れて行くと、有紀と二人で残る形になる。
「桜花賞、正式にお願いします」
「合格って事で良いんですか?」
「それ、今更聞くの?」
「言わせたくてね」
勝利の余韻に浮かされるままに言うと、暫くの間を空けてから、笑いを堪え切れなくなった時のように、有紀は言った。
「合格よ、合格。少なくとも今日の結果は私の想定以上だもの。父さんの目論見なんて関係なく、今回は貴方に依頼します」
晴れ晴れとしたような口調には父親への甘えが含まれているのだろうが、今はそれは言うまいと思った。ファザコン野郎、小さく心の中で呟くだけで今は良い。
「依頼をお受けする代わりに、一つこちらからもお願いが」
「条件を付けるってこと?」
まさかというような表情で有紀は言う。そりゃあそうであろう、クラシック最有力候補に乗せてやると言われて逆に条件を付けるような騎手などそうそういるはずが無いのだから。
「難しい事じゃないですよ。本当に簡単なこと」
「取りあえず聞かせて頂戴、無茶な話じゃなければ考えるわ」
そう言った有紀の怪訝な表情を最後に見てから視線を外す。そんな意図では無いのだが冷静に考えるととんでもなくクサイ台詞として聞かれてしまうような気がして、見ながらでは言えない気がした。
「ネックレス、本当に素敵でしたから、どうせなら桜花賞の時は自分の意思で付けて来てくださいって、そんだけです」
ファザコン野郎なんてとても言えないから、こうしてお茶を濁すのだ。
そうしてそのまま、返事も聞かず、表情も見ず、お疲れ様と手を振った。
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