大越凛太朗【皐月賞前段⑤】

 覚悟を固めた矢先に肩透かしを食ったようになると言葉を継ぐのに一息の間が空き、その隙間に捻じ込むように宮代明は言った。

「今のままではレラカムイはアマツヒに勝てないだろう」

 耳を疑うとはこういう時の為の言葉かも知れない。聞き間違いかと思ったし、そうではないとしても言い間違いだろうと思った。そして、この真剣な雰囲気の中で、よりにもよって一番間違えてはいけない部分を言い違えたシュールさに気が付くと、堪え切れなくなって吹き出した。

 しかし宮代明は表情を崩さない。嗜めるような視線を俺に向けながら、悠然と足を組みかえながら言った。

「このままでは、レラカムイは、アマツヒに、勝てない」

 言い間違でない事を強調するように、一つ一つの言葉を区切りながら、繰り返した。独特の間は誠実な態度を表すものではなく、ただただ高圧的に、自らの言葉を正解として押し付けようとしているものだ。

 そうしてようやく俺もスイッチが入る。

「つまり、アレだ。敵に塩を送るとか、そういう演出がお好みですか?」

 言葉を選ぶような真似はしないが、激昂するような真似もしない。あくまで淡々と、思った事を包み隠さず口にしてやればそれで事足りる。

 俺の言葉に宮代明は虚を突かれたような表情を見せた。長く王様をやり過ぎたせいで噛みつかれることを忘れてしまったのかも知れない。

「幼稚な趣味です、そんなものを勝負に持ち込まれたくありません」

 んまい棒をかじりながら、挨拶代わりに浴びせてやった。

 相手の姿勢が解ってしまえば怒らせることは怖くなかった。好意的に接してくれる相手であれば嫌われるような真似をするはずもないが、こちらを見下している相手から好かれようとするのは馬鹿馬鹿しい。そもそも俺は臼田厩舎の所属騎手なのだから、身内のやり方にケチを付けてきた相手に訳もなく下手に出るべきではない。

「なるほど確かに、弟子だな。その度胸は買おう」

 宮代明は、冷静なまま、どころか雰囲気は柔らかくなっていたかも知れない、呟くように言った。そうして据え付けの大型ディスプレイを指しながら、

「これは、ネットの動画とかも映せるかい?」

そんなことを尋ねてくる。

「映りますけど、何か見たい映像でも?」

「アークを」

 そのレース名がアマツヒと繋がる。彼等の目標をわざわざここで見る理由は解らなかったが、客が見たいと言うものを拒否するほどのことではない。

「いつのです?」

「いつだって構わない、君の好きなものがあればそれを見よう」

「海外の競馬なんて大して見ないですから、こだわりもクソもありませんよ」

 こだわりが無いままに日本語で検索をかければ、必然的に日本馬の出走したレースが優先的に表示される。スターホース達の敗戦の記録がズラズラと羅列された中から適当に一つ選んで再生すると、ロンシャンの落ち着いた映像とは対照的な、妙に興奮したような日本人アナウンサーの声が届く。自然と苦笑が浮かんでしまうような、それはきっと気恥ずかしさなのだ。

「凱旋門ってそこまで特別なレースですかね」

 映像の中でゲートが開くと同時に思わず漏れた、それが俺の本音なのだろう。

「どうして?」

 レースの映像を眺めながら、んまい棒を齧りつつ、宮代明は言った。知人と居酒屋で呑んでいる時にするようなユルさで、だからこそ俺も詰まることなく言葉を継ぐことが出来たのかもしれない。

「香港も、オーストラリアも、ドバイでも、もう散々一流どころを勝ってるんだから、そこまでこだわる必要も無い気がして」

「アークはまだ勝ってないからね」

「勝ってないからってだけじゃないでしょう。少なくとも凱旋門に限っては、それだけじゃなくなってしまっている」

 そうして話をしているうちにもレースは進み、天然の木々に囲まれた浅い森のようなコースの上り坂を抜け、大きな第三コーナーを曲がりながら長い坂を下り、有名なフォルスストレートへと入っていく。

 日本から出走していたのは、このレースの前年に三冠と有馬を、そしてこの年の春の天皇賞を制している、紛れもない現役最強馬だった。前走でフォワ賞を使ってからの本番であり、その際に見せたパフォーマンスが現地でも話題となって圧倒的一番人気に支持された。生産は宮代ファーム、セレクトセールで落札したオーナーは三歳時から厩舎サイドへ遠征を打診していたらしい、悲願達成を合言葉にチームスタッフが一丸となって取り組んだ遠征だったと語り草になっている。

 しかし、それでも負けた。

 映像はフォルスストレートを抜けて直線に入った。残り三〇〇の地点で前を交わして先頭に立ってもなお脚は鈍らず後続を見る間に突き放していく。勝利を確信した実況アナウンサーは声のトーンを一段高くして『その時は来た』と大きな声で叫んだ。

 この後、ラスト五〇メートル地点で馬が突如内にヨレてしまい、このレースは二着に終わる。当時俺は競馬学校にいて、翌朝の周りの連中が揃ってお通夜のような表情をしていた事を今でも思い出せる。俺は彼らのように競馬が好きな訳ではなかったから、その様がひどく滑稽に見えてしまったのだった。

「アークなんて大して勝ちたい訳じゃない。それが本音だよ」

 宮代明はそう言い切った。画面に映し出されるかつての熱狂を醒めた視線で眺める彼の様は、それが真実の言葉である事を告げている。

 アナウンサーの悲鳴のような実況を鼻で笑ってから、宮代明は俺に尋ねた。

「アークに日本馬が出なかったとして、フランス人は狼狽えるかね」

 突然の質問に意図を掴みかねてしまい即答は出来なかった。レースを終えて騒がしいだけになった動画の再生を止めながら少し考えたが、それでもやはり意図は解らないままだった。

「そんなの気にしないんじゃないですかね」

 解らないまま答えると、宮代明はその通りだと頷いた。

「では、ジャパンカップに海外馬の出走が無かったら、どうする」

 そう言われてようやく意図を理解した。要するに、ただの意地なのだろう。

「俺は別に、なんとも思いませんけど」

 尤も、俺からすればそれが本音だ。欧州馬にしてみれば日本よりも使い易いレースがあってそちらに行くというだけの話だと思うし、それ以上に意識することは無い。しかし、世間や競馬会はそうではない。そして宮代明はその事を言いたいのだろう。

「府中の二四〇〇はロンシャンの二四〇〇に劣るかい?」

「ロンシャンの二四〇〇に乗ったことがありませんから」

 肩を竦めて見せながらそう返したが、宮代明は僅かにも表情を崩さず、ただじっと俺を見つめていた。やはり親子とはこういうものなのだろう、その態度が有紀に似ている。

「私の馬は彼らの馬に劣っていると思うかい?」

 マジでガキっすね。って返してやりたいけど言えない、そんな心境。

「勝たなければいつまでも終われないから本気で勝ちに行く、それだけだよ」

「そこまでの勝算があるんですか?」

 宮代明はあまりにも前を向き過ぎていた。全てが徒労に終わる未来を見落としているように思えた。だから俺はそう尋ねた。

「あの馬は絶対を可能にする」

 どこかで聞いた台詞を引用するように、宮代明は言い切った。どこから湧いてくるのか解らないほどの自信に満ちた態度は正直うんざりさせられる思いだったが、まだ本題を聞けていない。

「で、俺に依頼する理由ってのは何です? 今の話とは全然関係無いでしょ」

 そもそもそれだけが話を続けた理由だった。宮代明がどんな理由で凱旋門を目指していようが俺とレラにとっては関わりがないのだ。

「絶対があると言うならどうぞフランスでもどこでも行って勝てばいい。その代わり、国内では俺達が勝ちますよ」

 そう挑発してやると、宮代明は無言のまま新しいんまい棒を剥き口に咥えた。遠慮のない男だった。既に三本目だ。つられて俺も新しいんまい棒の封を切る。

「関係はある。絶対を得る為にレラカムイの力が必要、それが君に騎乗依頼をする理由だ」

「アマツヒの為に俺を鍛えると、そういう理屈ですか」

 宮代明はんまい棒を咥えたまま頷く。

「賢いサラブレッドはレースでは全力を使わない。彼等は生き残る為の合理的な思考として、許される最小限の力でコースを回り、レースを終わらせようとする。これはアマツヒも例外ではない」

 それが真実であるか否かなど馬以外には知る由もないが、宮代明が語る内容はあながち大外れでもないだろう。馬が持っているそうしたズルさは言葉など介さなくても何となく伝わってくるものだ。

「だからこそアマツヒには限界ギリギリのレースをより経験させる必要がある。そうすればアマツヒは隠していた力を引き出して今よりも強くなる」

「出来るんですか?」

「馬という動物は君が考えているよりもずっと賢い。レース前にカイバを調整する事も、自分の身体を作る為に運動量を調整する事も、一流と呼ばれる馬はそれを行うだけの知性を持っている。更に言えば、実戦によるアマツヒの変化はホープフル後に確認済みだ。今回の提案はその確証があればこそだよ」

 宮代明はそう言ってからじっと俺の瞳を覗き込むようにした。いよいよ核心に触れるという事らしい。話の流れからして、俺にとっては耳障りな話になることは間違いない。それでも聞かない訳にはいかないのだろう。

「現状、レラカムイの一番の弱点は君だ」

 覚悟はしていたはずだが、実際に言われると握り込んだ拳が小さく軋んだ。

「技術的な意味合いはさておき、何よりも大レースでの騎乗数の少なさはレラカムイのポテンシャルを発揮する上で妨げになりかねない。今の君達でも並のG1なら勝てるだろうが、アマツヒの底力を引き出すには足りない。こちらも実戦の機会は限られている、つまらない勝負では勝つ意味が無い」

 つまり、宮代明にとって俺とレラは餌でしか無いのだ。負ける事を想定すらしていない、ただの踏み台。

「お互いに悪い話ではない。君も私も、得難い経験の為に手を結ぶという訳だ」

 ここで手袋を叩き付けてやれたらどれだけ良いだろう。唾を吐いてきた相手を一昨日来やがれと叩き返して本番でもきっちり勝ちを収めて高笑いを決めてやれたらどんなに気持ち良いだろう。

 しかし熱に浮かされたそれは正しい判断ではないのだ。受けるにしても断るにしても、その判断は冷静な頭でくださなければならない。

「一つ、質問させてください」

 燃えるように熱い腹の底から湧き上がる情念を堪えながら、一言一言を口に出す。

「もし、あなたのお陰で俺が成長して、レラがアマツヒを倒しても、構わないんですね」

 宮代明は右の手で口元を覆い、目元に不敵な笑みを湛えながら、

「無論だ」

そう答えた。




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