大越凛太朗【東京優駿~Derby Week④】

 大仲でアマツヒの追い切り映像を繰り返していると、三度目に入ったところで扉が開いた。現れたちせは緑色のキャップとジーンズにポロという出で立ちで、手には大きめのエコバッグを抱えている。

「悪いな、助かる」

「みんな気を遣ってくれるから私の仕事も無くなっちゃって。大越さんにしても、今週は私が取りに行く方が向こうの人も気楽ですよ」

 そう言いながら、机の上から紙袋の中にある勝負服を一枚ずつ取り出して俺に確認させるように机の上で重ねていく。土曜日の早いレースから順に間違いが無いことを確認すると、ジーンズの尻ポケットからいつもの封筒を取り出して最後に置いた。それぞれの厩舎からの連絡事項だ。メールで知らせてくれている内容だが、調整ルーム用にと毎回紙でも用意してくれている。

「ちゃんと確認してくださいね」

 こういう作業を当たり前にこなしてくれるあたり、解散後にトレセンから離れてしまうのは勿体無いと思わされた。牧場を離れる少し前、美浦に来たいと言ったちせに偉そうな説教を垂れたことを思い起こして気恥ずかしくなる。

「どうしたんです?」

「ここの仕事は向いてないなんて断言したことあったなって、思い出してた」

「ありましたね、そんなこと」

 苦笑するちせを椅子に座らせて、労いと、ほんの少しの詫びの気持ちでお茶を淹れる。

 それから二人で調教映像を眺めていると、んまい棒を齧るちせの姿にふと一昨日のことを思い出した。

「ドレス着てみたか?」

「まあ、一応」

「どんな感じよ」

「どんなって言われても……有紀さんのセンスで見立ててくれてますし、間違いないと思いますけど」

 いかにも「めんどくさいなあ」という物言いで、女子校生から煙たがられるオッサンの悲哀というものを肌で感じてしまった。茶をすすりまがら自然と鼻の頭を搔いている自分に気が付くと、もう苦笑しか浮かばない。

「何かあったんですか?」

「まあ、色々な」

「うわ、今日の大越さん本当にオジサンですよ」

「うるせえ、三十超えてんだからオッサンで良いんだよ」

 映像はいつの間にかアマツヒから切り替わり、ダービー出走各馬の追い切りになっているがそのことは話題にもならない。ハナから流れている映像に意味など無い。きっとこれはちせも同じで、御大がこの場にいても同じだろう。浮足立っているのではなく、文字通り煮詰まってあとはやるだけの状態だ。

「初めて会った時に、アイツ、お前にダービーレイをプレゼントしたいって言ったんだ」

「アイツって誰です?」

「レラだよ」

 アマツヒ以外の馬は勝負にならないのは既に明白だった。これだけ力の差が歴然としている状況であれば、どの騎手も一発狙いはなく着拾いの乗り方を選ぶことになる。勝てば凱旋門という展望をアマツヒの関係者が隠さなくなっている現状では無駄な勝負などせずにさっさと勝ち逃げして貰うのがお互いに吉なのだ。勝ち目が増す秋以降の勝負に向けて少しでも賞金を積み増すという選択に関係者一同迷う理由が無い。勝負にならないほど明白な実力差というものは、騎手の立場からすると却って乗り易くすらしてくれるものだ。

 問題は一着を諦めた連中が何を目標とするか。二着ならば狙えるレースとするのか、三着以降を競うレースとするのか。即ち、レラをどう扱うか。

「あの子、本当に優しいですから」

「お前、割と根っこの部分でレラのことひいきしてるよな」

 ちせは湯呑みに口を寄せながら頷く。

「生まれてすぐに母馬が死んじゃいましたし、牧場を閉めるって決めて繁殖を減らし始めた頃だから、あの子しかいなくなっちゃった時もあって……どうしたって特別ですよ」

 言い訳するように答えるちせの姿に、いつだったか有紀にした質問を思い返した。アマツヒを特別扱いするわけにはいかないと答えた彼女の瞳の強さと比べると目の前の少女は職業人としては甘いのだろう。しかし既に失ったからこそ出せる本音とも見える。

「あのタイミングでクーとレタルが戻ってたのは偶然?」

「本当のところは解りませんけど、多分おじいちゃんが馬主さんに相談したんじゃないかなって」

 そこでふと俺の目を見ると、

「だからきっと、臼田先生と大越さんにも感謝ですね」

そう言って頭を下げた。

 御大が俺を送り込んだように、それぞれの馬主が理由を付けて馬を戻してやったのだろう。ちせの祖父やあの牧場が代々繋いできた縁の存在が、最後の最後にレラとちせをダービーという舞台に結び付けたのだろう。それは推測に過ぎないが、この話をしながら浮かんでくるあの牧場の風景にはそうであると信じる十分な説得力があった。

「感謝すんのはコッチだろ。ダービーなんて冗談にもならない騎手だったはずなのに、これで二度目だ」

「もう勝った気でいるんですか?」

 ちせは茶化しているつもりらしい。

「二度も負けてるからな、次は無いよ」

「馬主の前でそんなこと言うもんじゃないですよ」

「これが最後のダービーだって先生も言ってたし、俺もそうだなって」

「大越さんはオジサンでもそんな歳じゃないでしょ」

「最高のダービーにできるのなら、これが最後の競馬で良いさ」

「どこまで本気なんだか……そういうの、有紀さんの前で言っちゃダメですよ」

 突然沸いた名前を笑って流そうとすると、見透かしたような声色で続いた。

「大越さんはレラのことよりもう少し自分のことを考えた方が良いです」

「まあ、終わってからな」

 子どもの癖に余計なお世話だと言ってやりたかったが、考えてみるとこと人生経験についてはいっぱし以上のものをこなしてきている女だった。

「俺のことより、お前はどうすんだよ、レラが引退した後」

 だから、もしかしたら案外しっかり考えているのかも知れない。そう思って聞いてみたのだったが、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったみたいな目になって言葉を詰まらせた。

「なんだよ、自分の方こそ全然じゃねえか」

「レラの預託先のこととかは漠然と考えてますけど」

「わざわざ探さなくても種牡馬で引く手あまただろ」

「まだG1も勝ってないじゃないですか」

「週末にはダービー馬だ」

 ちせは小さく笑ってから、ほんの少し真剣な表情で言う。

「仮にダービー勝てたとして、あの子の血統って種馬として人気出ると思います?」

「俺はそっち方面素人だけど、あんまり人気出る感じじゃないんだろうな。アイツやエトは突然変異みたいなもんなんだろうし、先生はいかんせん構成が古すぎるって言ってたよ」

「ならやっぱり先々の預託のことは考えておかなきゃですし、それか私がもう一回牧場やるのもありかなって」

「閉めたばっかりなのにまた牧場やんのか?」

「生産はやりませんよ、引退した馬を預かるような牧場です。食べていく程度にはやれると思うんです」

 事も無げに言う姿は、俺なんかよりもよほどにしっかりと将来を見据えているような気がした。語る内容は漠然としていても、きっと実現するのだろうとなんとなく思わせるような雰囲気があった。

「馬主さんと話してたらどの人も世話になった馬を引退した後どうするかで悩んだ経験があったみたいですから、競馬が終わった後でゆっくり過ごせる場所を作っても良いんじゃないかなって。レラの賞金があれば元手は十分だし、ここに来てからツテも増えましたから」

「ツテって、宮代とか?」

「有紀さんのところは勿論そうですけど、馬主さん達とか、トレセンの人たちもそうですし、この話だと特に競馬会の事務方さんとかは割と真剣にアドバイスくれそうですし……本当、レラのお陰で世界広がりました」

「お前、マジで大物だな」

 心の底からそんな言葉が出た。ただぼんやりと日常を過ごすのではなく、トレセンや馬主席のちょっとした出会いからそういう機会を見出せるあたり、ちせには『縁を築く』という才能があるのだろう。

 すっかり感心して言葉が出なくなると、お茶をすすって調教映像をぼんやりと眺めるだけになってしまった。不思議と焦るようなことは少しもなく、却ってほっとしていた。俺も自分のことを考えなければならないのだと思うと、振り返るものは何もなくなったような気がした。

「レラはどうしたいのかな」

 ちせが言った。

「お前がしたいことに賛成するだろ、アイツは」

「大越さん、もしもレラと話せるなら聞いてみてくださいよ」

「気が向いたらな」

 そうして静かに茶を飲みながら、くだらない雑談で時間は過ぎていった。

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