優駿

尾和次郎

The jockey

『――正に優駿と呼ぶに相応しい馬でしょう、金色の流星・カムイエトゥピリカ。』

 アナウンサーの震えた声が、意識が飛ぶ寸前の、最後の記憶だった。

 金色の流星というエトの二つ名が、俺は本当に大好きだった。

 エトの末脚は本当に空間を切り裂いているようで、最後の上がり三ハロンはここでない別の世界への扉が開いたようで、あの時、俺は金色の流星と間違いなく一つになっていた。

 俺はエトを愛していたのだと思う。

 女なんかよりもずっと、あの馬に惚れていたのだと思う。


 次に意識が戻ったのは病院のベッドの上で、痛々しい表情で俺を見るナースに死に損なった事を察したが、何のことは無い。もう全てがどうでも良かった。

 退院に時間はかからなかった。睡眠薬の飲み過ぎで胃洗浄をされただけなのだから本当なら即日出ることも出来たのだろう。

 厩舎には案の定マスコミが押し寄せており、テキは俺の姿を見るなりまとめてあった荷物を押し付けて北海道の牧場へと叩き出した。

 抵抗する気も無く、流されるように辿り着いた牧場は恐ろしくチンケな場所で、家族経営の小さな所らしかった。

「どうでも良いけどな」

 あの日以来口癖になってしまった言葉を吐き捨てながら牧柵に寄りかかって空を見上げていると、どこからか声がした。

『アイツ見た事あるよ、ジョッキーだ』

 声の主が気になってちらと辺りを見てみるが人っ子一人いやしない。

 牧場の人間は馬房掃除でもしているのだろうか、視界に入ってきた生き物と言えば柵の中にいる数頭の——恐らくセールで売れ残ったんじゃないかと思う——うだつの上がらなそうな馬くらいなものだ。

『アレだよ、エトに乗ってた』

『大越だ、あのヘボ騎手どのツラさげてここに来たんだ』

 しかし、またもはっきりと聞こえた。

 もう一度、念の為にぐるりと周囲を見渡してみるが本当に誰もいない。いるのは牧柵の中の――以下略。

 どうやら幻聴まで聞こえるようになってしまったらしい、我ながらクソ過ぎる人生に反吐が出る。

 むしゃくしゃして牧柵に蹴りを入れると、

『なんだアイツ、イカれてるのか』

『よしなよ、ほっとこう。ああいう人間に関わるとロクなことにならないよ』

今度は俺の方を見ながらだった。柵の中にいる馬がじっと俺を見つめながら、声はその方からはっきりと聞こえた。

「俺、マジでヤバいんじゃないかね」

呆れ笑いを堪え切れずにケケケと笑うと、馬たちは不気味がって散っていった。馬にすら避けられる俺って人間として終わっているなと改めて実感する。

 だがいつまでもそうしている訳にもいかない。テキから預かった手紙を手に、牧場の人間を探して敷地内をふらつく。

「誰かいませんかー」

 やる気の無い酔っぱらいのような声で呼びかけながら歩いてみるが、人っ子一人出て来やしない。

「いねえのかよ、バカ野郎!」

 頭にきて怒鳴った時だった。

『ウルセエぞクソ野郎!』

 すっかり怒り心頭といった声が馬房から返ってきた。

 声の主が牧場主かも知れなかったが、丁度良いと思った。喧嘩を買ってくれるなら相手は誰でも構やしない。ストレス発散に殴って行こう、そのついでで死んでしまっても構やしないと、そんなノリで声の方へ向かう。

 声は間違いなく馬房から聞こえた。

「どこだこの野郎、こっちはこんなクソ田舎の牧場に叩き出されてむしゃくしゃしてんだ、ぶっ殺してやる!」

『コッチだボケナス、さっさとかかって来いや!』

 どうやら相手もかなりカッカし易い性格らしい。互いに汚い言葉を投げ合いながら、声は間違いなく近付いてきた。

 やがて馬房の一番奥、声が聞こえてきたはずの所に立つと、しかしそこには人などいなかった。

 ただ一頭、馬がいた。

 美しい金色の馬体。エトに瓜二つの栗毛だ。

『さっきから喚いてたのはお前かこの野郎!』

 しかしどぎつい言葉がすぐに飛んできたから生憎と感傷に浸る間も無かった。どうやら声の元はこの馬房で間違いないらしい。

 そもそも、エトは俺の目の前で死んでいる。エトの骨が砕ける生々しい感覚を俺は身を以て知っている。ひょっとしたらエトが生きていたのかも知れないなどという夢を見るには、あまりにも知り過ぎている。

「お前こそいい加減姿見せろよ、ビビッてんのか?」

 見てくれこそ世間の平均身長より小さくとも、ジョッキーのはしくれとして筋力はそれなりに鍛えている、素人相手なら病院送り位お茶の子だろう。

 肩を回して気合を入れながら、周囲を見回すも、やはり人の姿は見えない。

 この馬房にいるのは栗毛の、エトにそっくりな美しい馬だけだ。

『目の前にいるじゃねえか、イカれてんのかお前』

 しかし、やはり、声は聞こえている。間違いなくこの馬房から聞こえている。

『おい、お前ホント大丈夫かよ。ビョーキか?』

 何故だ、この馬房には俺と馬しかいないのに、声が聞こえる。

『っていうか、よくよく考えたらお前人間じゃねえか。何で俺と話せてんだよ』

 その一言に酷く冷静にさせられて、俺は目の前の馬を見た。エトにそっくりで、けれどももしかしたら口が悪いのかも知れない、そんな馬を俺は見た。

「喋ってるの、お前か?」

『当たり前だろ、バカかお前』

 何てこった。今度こそ頭を抱えた。

 あの薬が実は睡眠薬じゃなくてもっとヤバい他の薬だったのだろうかなんて馬鹿な事まで考えてしまうがあれは間違いなく睡眠薬だった。そもそもクスリキメた所でこんなことあるはずないだろ、普通。

 だが、どうやら死に損なった俺は馬とお話しが出来るようになったらしい。


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