大越凛太朗【皐月賞前段⑧】
特別固くなっているつもりは無かったが、興奮に揺れるスタンドの歓声が耳に届くと勝負に没入していた精神が一気に水面へ引き上げられ、そうして安堵の息が漏れた段になってようやく意識していたことを自覚した。
徐々に速度を落としながら第一コーナーへと流していると、後方から総司の声が届き、振り向く間もなく隣へ寄せてきていた。
「おめでとうございます」
鞭を持った右拳を突き出され、礼の代わりに空の左拳を軽く合わせる。
「二着はお前か?」
揺れる馬上で少しオーバーアクションになりながら、総司は頷いた。
「ワンチャンくらいあるかと思ったんですけど、ゼーンゼン」
総司もデビュー以来コンビを組んでいる馬に乗っているはずだったが、脱帽した風に言った。後方をすっかり千切っていた事は俺も蹄の音で知っている。
「多分マイル前後がベストなんだろうな」
「でしょうね」
それでも間髪入れずに返ってくる辺りには密かな悔しさが滲んでいるのだろうか。オークスは長いですよ、そう言いたいように見えた。
幾分控え目なウイニングランの後でカンカン場へ降り、鞍を外しながら須郷先生と簡単な挨拶を交わしていると、どこからともなく有紀がやって来た。
「お疲れ様」
湯気が立っているアスンシオンの首を撫でながら、いつもの通り淡々とした調子で労いの言葉をかけられる。
「及第点くらいは頂けます?」
「つまらないこと言ってないで、さっさと検量してきなさい」
馬のケツにするような調子で背中を張られたのですっかり脱力して笑いながら検量室のドアをくぐったが、その瞬間、俺へ向く視線の鋭さに気付かされて表情が硬くなった。
これまでまるでマークもしていなかった、運だけでダービーを獲ったような三流騎手が突如確変を起こして二週連続G1勝利なんて離れ業をやってのけたのだから、他の騎手にしてみればどうしてお前がという思いも生まれるだろう。嫉妬の類だと理解すれば悪い気もしないが、だらしなく笑ったままでは余計に睨まれる。勝負の外で余計な因縁は持ちたくない。
秤に乗り、負担重量を確認してから確定を待つ。隣に立つ二着は総司、三着山﨑四着久保ときて五着に笹山、六着真戸原七着浦野と並んでいる。二番人気はクリスのはずだがどうやら派手にトバしたらしく姿は無い。
「桜花賞は初めてやろ?」
裁決委員の処理を待つ僅かな間、邦彦さんから声をかけられた。
「そりゃそうですよ」
タイトルを選んで勝てるような騎手ではない。謙遜するつもりもなく浮かんだ言葉をそのまま返したが、邦彦さんは真面目な表情を崩さなかった。
「縁を引っ張るのも騎手の力。二週連続は本物の証だよ、胸を張れ」
もしかしたら部屋の中の雰囲気を察してこんな風に声をかけてくれたのかも知れなかった。周囲がどれだけ嫉妬しようとも、名手笹山が実力だと認めればそれに逆らって陰口を叩く事は出来ない。騎手会の会長を務める人物が人前で発言するからこその意味は当事者である俺自身にも良く解る。
「ありがとうございます」
理解すればこそ頭を下げるしか出来なかった。三十を過ぎてなお先輩に面倒を見て貰う情けなさは痛いほど感じたが、だからこそ頭を下げる以外に出来る事が無い。
裁決委員の宣言が終わるとすぐさまプレス対応の職員が駆け寄って来て脱鞍所のバックパネル前へと先導される。されるがままについて行く道中、桜色の優勝レイをかけられたアスンシオンの姿が目に入ると、その脇の有紀の首元はちらと光っていた。
最終レースは乗り鞍が無かったので表彰式を終えた足でそのまま調整ルームに向かい、荷物を回収してっさっさと退散しようとしたのだったが、ロッカーから回収した携帯に入っていたメッセージを見て固まった。
『ごめんなさい。父さんのことよろしく』
発信主は今しがた別れたばかりの有紀であり、どうやら俺が調整ルームまで歩いてくる僅かな時間に送ってきたらしい。
『間違えてませんか?』
細かい事を考えるのも面倒になったのでそれだけ返してから遠征用のバッグを担いで表へ出る。
駅までのハイヤーを待っているともう一度携帯が震えた。
『間違えてない。伊丹まで一緒に行くって貴方に伝えろって、父さんが』
あまりに唐突な連絡に軽いめまいを覚え、手近なベンチに座り込む。
『空港までお送りしろという事でしょうか?』
そこからは即レスだった。
『よろしければ大越さんも飛行機でどうぞ』
『新幹線の予定でして』
『勿論費用はこちらで出します』
『新幹線で品川から乗り換える方が楽なんですよ』
成田とかいうポンコツ空港は夜間便が無い、羽田に降りても美浦までの足が無い、故に新幹線を使った方が楽なのである。
『羽田にハイヤーを手配しますので――』
『ファーストで手配しましたので――』
『――とにかくお願いします』
有無を言わさぬ怒涛の三連投。逃げられない事は明らかだった。
『何かお話があるとかですか?』
『知らない』
せめてこれだけは聞いておかなければと尋ねたが、一呼吸の間の後で返って来たのはあまりにも役立たずな返答。父親の事になるとこの女も大概ポンコツである。
『どうやって合流すれば良いですか?』
溜息を吐きながらレスをして、ふと顔を上げると丁度見慣れないレクサスが目の前に止まったところだった。
あ、これだな、と瞬間的に解るようなオーラ。案の定、パワーウインドウが静かに開くと宮代明が手招きしている。
それからワンテンポ遅れて鳴った着信音。
『会えました』
レスには目を通さずに返してから荷物を抱えて車へ乗り込んだ。
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