第6話
大分県は面白い県で、九州の中にあってただひとつ、佐藤や鈴木、伊藤などの東日本型の姓を多く抱えている。これはかなり広範囲な階層で、東日本からの入植があったことを示している。
鎌倉時代においては、坂東武者が守護地頭として各地に派遣されることで、ある程度の遺伝的霍乱が発生している。鎌倉御家人制が、日本の武家貴族の原型になっているのだから、日本の貴人の多くは、元をたどれば神奈川県に由来することが多い。
少弐、大友、島津、大内、細川、毛利、上杉、武田、北条、伊達、南部、佐竹、いずれもが元々は鎌倉御家人の発生であり、頼朝の事業は、現代の日本人が思う以上に日本国の構造に影響を与えている。
大分県の場合は、そうした支配階級のみではなく、その下、更にその下においてまで、関東の影響が強く、瀬戸内を通して玄関口であるため、「西部開拓」の拠点、アメリカのシカゴのような役割を果たしたものと考えられる。
鎌倉の影響は、全国各地に見られるのだが、濃淡の差はあるのであり、既にそこに多くの人がいた、畿内、中国四国には比較的影響が及んでいない。日本国の両端、九州と奥州に影響が強く、近代以降、この両地域が軍国日本を支える強兵の産地となったことも、遠くを言えば頼朝の影響かも知れない。
日本史上、強兵と言えば、関東、九州、奥州の兵たちであり、それ以外の地域はそれほどでもない。
三河兵は精強と言う。しかし、意外と敗戦が多く、単純な武力だけで言えば、それは尾張兵よりは強いだろうが、全国で言えば、上の下、中の上というところだろう。
三河武士の本懐は粘り強さにある。敗れても耐え忍ぶ、その団結力、これは異常なほどである。
古くは北条早雲、近くは武田信玄、幾度となく名将知将たちに侵攻されながら、松平を旗頭として結束を保ってきた。こういう例は、他国ではそう多くはない。
今、三河武士たちは、家康と言う英主を得て、その史上においては五ヶ国を版図とする空前の成功にひたっている。
家康は、遠州、駿河に加えて、武田の旧臣たちも積極的に登用していたが、中核たる三河武士たちは、自分たちこそが古参であると威張っている。
井伊直政は、新参でありながら重用されている自身を例として、信州国人たちの鎮撫にあたっていたが、家康自身の意図はともかくとして、実態としてはやはり三河閥のようなものはある。
井伊直政もまた、何度、榊原康政や酒井忠次あたりの嫌味を受けて、こいつらを切り殺して出奔してしまおうと思ったか、数えきれない。井伊直政であればどこへ行っても出世はするだろうが、結局は、徳川に留まったのは、家康を見捨てられなかったのと、旧領の井伊谷を、家康が直政に与えたため、井伊谷のために徳川を離れられなかったからである。それを見越して、家康は井伊谷ひとつで、直政をしばりつけていたとも言えるだろう。
家康はしきりに、直政に「おまえだけが頼りだ」と言ったのだが、これは政略ではなく、案外、事実である。家康は、酒井も榊原も本多忠勝をも信用していない。
徳川家中で、三河閥を誇れば、家康が味方に引き入れたい信州国人などは、豊臣に靡く。豊臣には、代々の家臣などいないからである。
新参が肩身の狭い思いをするとわかっていて、他に選択肢があってわざわざ飛び込む馬鹿はいない。三河閥は徳川の国益を損なっているのだが、それが分かるほど三河武士は視野が広くない。
家康と三河武士は主従だが、この主従には大きな違いがある。
三河武士は三河人だが、家康は駿河人なのだ。家康は赤子の時は、三河岡崎にあったが、幼児の頃に尾張に行き、学童の年齢になってからは成人するまで、駿河で育った。
今川義元は実の父同然に、竹千代に配慮を示して、国師たる雪斎から、竹千代は天下の理を学んでいる。ハードウェアは松平であっても、家康のソフトウェアはまるごと今川なのであり、家康の今川への感情は決して悪くない。
家康は江戸に移り、将軍職を秀忠に譲った後、泉岳寺を建立しているが、これは今川義元の菩提を弔うためであり、家康がいかに今川をせつなく慕ったかを示している。家康が隠居城に選んだのも三河岡崎城ではなく、遠州浜松城でもなく、駿河駿府城であった。
逆に言えば、その頃にはもう三河閥の影響は地に落ちていたわけである。
三河武士にとっては、今川は自分たちを虐げた不倶戴天の敵であったのだから。
家康の正妻、築山殿は、今川義元の姪であり、今川の尊い血筋、かの名高い寿桂尼の孫である。信康は、その間に生まれた嫡男であった。
家康は、後世から見れば子だくさんの印象があるが、男児についていえば、長男の信康と次男の於義丸(秀康)の間には十五歳の年齢差がある。家康には子と言えば、信康と亀姫だけだった時期が長いのであり、これにはいくつか理由がある。
今川の将であった時は、今川一門から室を迎えた以上、側室を置くのはままならなかったというのがひとつ。
築山殿と信康を三河に引き取ってからは、三河武士の今川への憎悪が激しく、根深いため、側室を迎えれば築山殿を排せという圧力がかかり、男児が生まれれば信康を排せという圧力がかかりかねなかったからである。
築山殿と信康にはそれぞれ人間的な欠点はあった。
しかしそれでも家康は妻子を愛していた。当然だろう。
まだ何者でも無かった時に、家康を選んで生まれてきてくれた我が子。それを生んでくれた女。
赤ん坊の信康を抱き上げた時に、全身を駆け抜けた稲妻のような感動を、家康は生涯忘れることはなかった。
この子のためであれば。
この子のためであれば、世界を敵に回しても戦い抜ける。
その、自らの命よりも大事な宝を、家康は死に追いやらなければならなかった。
以来、家康にとっては、この世は地獄である。
家康は家中を二つに分け、うるさ型の三河武士を自らの手元に、すなわち浜松に置き、岡崎を信康に預け、信康の下には偏見のない若い世代や新参の者たちを多く置いた。築山殿を浜松に置けば、かの女が虐められるのは目に見えているので、岡崎に置いた。
そうやって、信康の立場を強化して、もはや安泰となったところで、初めて側室を置いたのである。
次男の於義丸と三男の長丸との間には五歳の年齢差がある。長丸は最初から実子扱いして、於義丸を遠ざけたのは、まだその時点では信康の立場が必ずしも安泰だとは家康は見ていなかったからである。
信康の立場を守るために、三河武士たちに他の選択肢を与える愚を、家康は犯すつもりはなかった。
そこまで配慮してもなお、三河武士の意地の悪さは底が無かった。信康たちは、始終、不服従、嫌味を言われる、陰口をたたかれる、の嫌がらせを受け続けた。
築山殿と信康が、武田に内通していたのは事実である。
信康の言動に、やや狂気が見られたのも事実である。
しかし、始終、嫌がらせを受けていて、狂うのは当たり前ではないか。
信康の謀反は苛め抜かれた結果であって、おおもとの原因となった三河武士を家康は心の底から憎悪している。しかし、国主としてはそれを知られるわけにはいかない。
「豊前殿。吉興殿。この通りじゃ」
翌日、茶室に誘われた吉興は、家康から深々と頭を下げられた。
「信康の姫たちを保護してくれてかたじけない。この家康、この恩、生涯忘れませぬ」
「宰相殿は、京の様子が知れなかったのですから、さぞや、気を揉まれたことでございましょう。さりながら、見星院様がご立派に、母御前として守っておられました」
「五徳か」
家康は冷たい声で、かつての息子の嫁を呼び捨てた。
家康にとっては信康を裏切り、窮地へと追い込んだ女である。
「本来であれば宰相殿のお許しを得なければならぬところ、コウ姫を娶ったこと、改めてお詫び申し上げまする」
吉興は急いで話題を変えた。
「いやいや。婿殿であれば願ってもない婿がねよ。五徳は、あれはさすがに信長公の娘、人を見る目はあるようじゃの。コウ姫のこと、末永くよろしく頼みますぞ。近々、子を産むとか」
「はっ」
「生まれればわしの曾孫よのう。信康の初孫か。是非とも見たいものであるが」
「なれば、上洛なさいますか」
吉興の畳みかけに、家康はにやりと笑った。
「そうはいかぬのう」
「さりながら、このままでは徳川はいずれ立ち枯れまするぞ」
「徳川は立ち枯れるであろうが、関白様の天下も全きものにはならぬであろう、そうではないか」
「関白殿下へ嫌がらせをするためだけに意地を張られるおつもりか」
「さて」
家康は茶をすする。
「大名なぞはしょせん、家臣の奴隷よの」
「徳川は統制がとれているように見えますが」
「それはわしが上手に踊っているからよ。京にはなんでも出雲の阿国とやらがいるそうな。踊り上手と言えば、その阿国が上か、家康が上か」
「さすれば、酒井殿あたりを説得せねば動けぬと」
「酒井、本多忠勝、榊原、大久保。説得しようとして石川数正は弾かれてしまったわい。もう、わしが身一つで徳川を捨てて、関白様にお仕えしたいくらいじゃ」
「お戯れを」
「ま、戯れじゃな。わしにはわしで、今では別の倅もあるし、姫らもいるでな。ともあれこたびは於義を差し出す」
「はっ」
「於義なぞは、本多作左くらいしか後ろ盾がおらぬからな、なんとかまとめたわ。あれも母の出自が卑しい。徳川にあってはどうあっても、家を継ぐことは叶わぬ。関白様のお人柄であれば、わし以上に可愛がってくだされよう。豊臣の者になるならそれはそれでよい」
「よろしいのですか」
「一応は、あれの父であるからの。於義のことを思えば、それが一番であろう。豊臣では、婿殿を頼るよう、言ってある」
「それは無論のこと。それがしにとっては年若なれど義理の叔父にあたる君なれば」
於義丸の母の氷見氏は、三河氷見神社の神主の娘であるが、実は拾われ子であるとも言い、家康祖母の華陽院に預けられてからは、氷見との縁も絶えていた。華陽院が駿府に移って、氷見御前も駿府で育ったことから、三河武士からは今川閥扱いされている。
この時期の家康の側室は、督姫母が今川一門の出であり、振姫母が武田一門の出であることから、純三河産である西郷氏が、三河武士から圧倒的な支持を受け、西郷御前の産んだ長丸が、家督を継ぐと見られている。
「ともあれ、こちらからは、於義を差し出した。次は豊家の番であろう」
「…宰相殿。豊家は天下人の家におわしまする」
徳川風情と一緒にするな、と吉興は厳しい口調で言った。
「分かっておる。わしはな、分かっておる。だが、問題は」
問題は三河武士である。
「天下人が質を出すなど、沽券が許しませぬ」
「名分がたてばいいのであろう。そうであれば表向きは質ではない。関白様には姉君がおひとり、妹君がおひとり」
「いずれも嫁いでいらっしゃいますぞ」
「離縁は出来るであろうが。とは言え、姉君の方は、秀次殿の御母、秀次殿以外には世継ぎはおられぬのであれば、その御母を他家には出せまい。妹君の朝日殿は、そのご夫君はさしたる将ではない様子」
「元が百姓でございますからな」
「まあ、お人柄はよろしいのであろう。だが、関白殿下の義弟として、果たして釣り合いがとれているかどうか」
「朝日様をご所望ということですか」
「幸か不幸か、今のわしには正室はおらぬ。ちょうどよいのではないかの」
「朝日様が築山殿の二の舞になるは許しませぬぞ」
吉興の厳しい言葉を受けて、家康はゆっくりをめをつむった。
「分かっておる。かの御方には井伊をつける。天下人の妹御、それをどうこうするほど酒井らも愚かではない。何卒、この話まとめてくださらぬか。天下のためよ」
「朝日様が下向すれば、きっと上洛なされましょうな」
「必ずや」
家康は吉興にひれ伏したのであった。
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