第54話
伊達敗走、それも壊滅的な崩壊の報せを受けて、京二条城にいる本多正信はただちに全軍の摂津入りの停止の緊急命令を発した。正信にはそれだけの権限があるのだが、使用したのは今回が初めてだった。
しかし大和口は指示が間に合わず、藤堂高虎が一万の兵で入ったところを明石全登と長曾我部盛親に叩かれ、更に九千の戦死者を献上することになってしまった。幸い、藤堂高虎は難を逃れたのではあったが。
ほぼ数日で、畿内に展開していた幕府軍の半分、十一万が蒸発した。豊臣の残存兵力を知る立場ではないが、ひょっとしたら今現在は数的優位が奪われてしまっているかも知れない。たまたまここ数日内に、尾張、美濃から三万、越前、近江から三万が徴発されて合流する予定になっているので、急がせれば幕府軍は数日内に十五万規模に回復する見込みではあったが、すさまじいほどの損傷率であった。
「軍師ひとりでこうも違うものか」
家康は衝撃のあまりぼんやりとしている。
「豊臣の底力というものか」
家康は本当は恐怖のあまり、駿府に逃げ帰りたい。しかし大御所たる身がここで逃げを打つわけにはいかない。
「大御所様」
司令部は今や正信頼みであるが、それだけにかかりきりになっているわけにはいかない。家康には立ち直ってもらわなければ、どうにもならないのだ。
「佐助吉興殿と言えどもあやかしの術を使ったはずもございませぬ」
「いや、吉興ならばあるいは」
「しっかりなさいませ! 天下泰平が大御所様の肩にかかっているのですぞ! 妖術があるならばなぜ妖術使いが天下を獲らぬのです。さような都合のいいものはこの世にはございません」
「ならば、吉興は何をやったというのだ! 徳川とて弱くはないぞ。競り負けるくらいならばまだしも、ことごとく軍団が壊滅するなど、あり得ぬ!」
「逃げ延びて来た兵も少のうございますが。今調べております。何かしら策があるはずです。それが分からぬうちは、動けませぬ。何卒、今しばらくお待ちを」
徳川に光明を与えたのは、梶原政景なる者である。すでに相当な老齢であった。岩槻太田氏の出で(元の姓は太田)、道灌嫡流の康資が没した後、道灌流の史料を引き継いだと主張する男であった。
家康側室のお梶の方、およびその兄とされる太田重正が道灌嫡流とされているので、この主張は危ういものがあったが、実際、道灌流の史料関係は、梶原政景に引き継がれていた。
その知識を武器に、梶原政景は軍略家として徳川に仕えていた。この男を見出したのは、松平秀康であり、身分は越前藩士であったが、今回、相手が佐助吉興ということで、何を仕掛けてくるか分からないということもあり、本多正信は主だった軍略家を一時的に自分の配下に出向させ、頭脳補佐とさせていた。
その梶原が申した。
道灌が山内上杉氏に対して取った戦法で、似たような結果をもたらした事例がある、状況から考えておそらくは、似た戦法を採用したに違いない。
それはまさしく、騎兵の機動力を活用した包囲陣であった。
その包囲陣の説明を受けて、自分でも脳内で何度か実戦を想定してみせて、その破壊力のすさまじさに正信は震撼した。
ただし、この策、関東でもその後使われていない。
関東は平坦なようで、意外と丘陵、渓谷、大河、湿地の多い土地である。機動力に着目して騎兵を運用するには、向いているようで向いていない土地であった。道灌自身、多大な戦果を挙げたにもかかわらず、その戦法は一度きりの使用であった。
摂津は古い土地であるから、河川や丘陵もなだらかになっていて、この戦法を駆使するにはまさに適地であろう。
鎌倉北条氏と梶原氏と言えば鎌倉時代においては対立した関係であった。また、太田道灌の子孫らは、主家の扇谷山内氏に粛清されかかったことから、旧知の小田原北条氏に保護されて仕えたのだが、佐助と小田原北条氏も敵対関係にあった。
古い因縁がよみがえり、佐助の足をすくったかのようであった。
「佐助を攻略するめどが立ちました」
正信は家康にそう報告した。
「ただし大量の兵が必要に御座います」
佐助の用兵は包囲殲滅陣であるから、要は包囲させなければいいわけである。相手の両翼が「後方」にたどり着けないほどの大量の兵を一気に流し込めばいいわけで、そうなれば佐助率いる豊臣勢は左翼右翼に分断され、各個撃破の的になる。そのためには流し込む大量の兵が必要。
本多正信は、そう説明したうえで、必要な数を三十万である、と断じた。
「三十万!」
家康もさすがに仰天する。さような動員は日の本でも前代未聞であった。
「うち十万は侵入戦にて斃れましょう。引き続き大坂城を囲むにはどうしても二十万は必要。となれば併せて三十万にございまする」
「どこからひねり出すのか」
「前田にも動員をかけましょう。東国諸将、全動員し、集結するが十二月初めかと」
臨戦態勢自体は、どの大名家もとっている。
天下統一のための最後の大戦である。無理に無理を重ねても、ここはやりきらなければならなかった。
「忠輝様をも」
「忠輝か」
家康は渋い顔になった。
「越後高田七十五万石、遊ばせておく余裕はございません」
「しかし万が一、豊臣に寝返るようなことあれば」
忠輝と秀頼は親友と言ってもいい間柄である。交際が禁止されているにもかかわらず、文のやり取りが続いていることを家康は承知していた。
「こたびはそうはならぬでしょう。いい具合に伊達政宗が死んでおりますれば。忠輝様にとっては弔い合戦にございます」
忠輝の室は、政宗の姫、五郎八姫であった。
忠輝の重臣を通して、軍功を立てれば、戦後処理においても発言権を確保し、さすれば秀頼の助命もかなうやもしれぬと吹き込んでおく、と本多正信は言った。
自らの息子たちの中に、敵を見出してしまう家康の性癖は奇妙であった。
そもそも家康は最初から家康であったのではない。克己して家康になったのである。
家康は、自身の元来の性格が、気性の荒い短期者であることを自覚している。
それでは生きては来られなかったからこそ、苦労して自らの角を矯めて、気長な、温厚な振りをしているのである。
関ヶ原後はタガが緩んで、小姓らに当たり散らすことも多くなっていたが、そう言う時には、本多正純や正信がさっと割り込んで、先に彼らが小姓らに激怒してみせる。そう言う形で、穏便に済ませて、家康は人格者という評判を守っていたのだった。
とにかくも、家康は気性の荒い子が嫌いであり、大人風の大人しい子が好きであった。単純な好き嫌いと言うよりは、信康が気性の荒いまま育ったので、二度とそのようにはしてはならぬという恐怖と反省から来ている。
それで言うと、秀康と松平忠輝は、特に気性が荒い子であり、そのために遠ざけられたといっていい。秀康はその後、やはり克己して重々しくなったから、一転して家康のお気に入りになったのだが、忠輝は一向に変わる様子が無い。
家康が佐助時康を気に入っているのも、時康が幼い頃から優しく気づかいの出来る少年であったからである。そういう優しさ、温厚さを、家康はことのほか重く見るのである。
実を言えば家康の子らの内、最も気性が荒かったのは、紀州頼宣、すなわち南龍公なのであるが、家康の最晩年ですら、南龍公は十代半ばであり、その性質の全貌があらわにはなっていない。家康がもっと生きていれば、必ず、南龍公とも相克が生じていただろう。
十二月の三日を、摂津侵攻の作戦決行日とした。
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