第53話

 豊前佐助ではすでに導入されていたのだが、大坂の陣では、吉興は班制を敷いた。これは五人一組とし、両となりの班が、軍功を証言するという制度である。これをするためには、事前に膨大な事務処理が必要なのだが、そこはさすがに豊臣家である。太閤以来の俊才たちが官僚として残っていた。

 豊前佐助では、首狩り、鼻削ぎを軍規において禁止している。何も人道的な理由からではなく、戦場において解体作業で時間を消耗することが、勝機を逃がすことにつながるからである。

 しかし、班に分けて、互いが互いを証言しあう制度は、当時のやり方としては非常識過ぎた。兵が納得するかどうか。首狩りはともかく、鼻削ぎは認めるべきかとも思ったのだが、緒戦四ノ口での戦いで圧勝したことから、吉興は軍制に自信を深め、試しに導入した班制をそのまま継続することとした。

 恩賞には困らない。

 そもそも元は中央政府であった豊臣家にはなおも大坂城に莫大な金銀がある。負けてしまえば意味の無い蓄財ならば、少々怪しげな証言であっても、それなりの恩賞を出した方がいい。

 枚方の戦いの処理が終わり、播磨国境に向けて進軍を開始した頃、大和口と紀州口の戦況がもたらされ、箕面で後藤基次と合流した時には、結果まで明らかになっていた。


 丹波口、敵、酒井勢の被害、二万中一万九千人が戦死。後藤勢の損失は一万中千人。

 大和口、敵、井伊勢の被害、二万中一万九千五百人が戦死。長曾我部勢の損失は一万中二千人。

 紀伊口、敵、榊原勢の被害、二万中一万七千五百人が戦死。明石勢の損失は一万中二千五百人。


 敵はほぼ全滅しているのに対し、味方の被害は多くて二割程度に留まっていた。重要なのは、徳川四天王のうち三人を討ち取ったことである。

 四天王と言っても、本来の四天王はすべて大坂の陣前には没している。すべては次世代である。しかし、四天王の家は徳川の武名の中核であり、大きな衝撃を与えるはずである。

 それによって西国諸将が豊臣に加担する可能性が増えるのは確かであった。吉興は期待はしてはいないが。

 四天王の残りの一人を叩くため、吉興はこれから豊中へ向かう。

 後藤基次の軍勢から兵を補充し、一万五千としたうえで、残りの兵を基次に預け、引き続き、休息を挟みつつ北摂津の警護をなさしめることとした。


 本多忠政は、吉興にとっては相婿である。

 コウ姫の妹の登久姫が忠政の室である。登久姫も吉興が育てて、佐助から嫁がせた姫であった。無論、家康の養女として、ではあったが。

 吉興は豊臣家臣、忠政は徳川家臣であるため、当主同士の交際はさほど無かったが、女たちを通しては緊密な交際がある。

 時康が若くして家督を継ぎ、江戸に赴くことも多くなれば、本多忠勝と本多忠政が後見めいて世話を焼いてくれることも多かった。

 佐助豊州家と本多中書家は友誼の間柄と言ってもいい。

 しかし、四天王の家の当主の首、わたくしの友誼のために見逃してしまえるほど軽くはなかった。


 豊中の戦いは、戦闘が開始されてから一時間も過ぎないうちに、佐助勢の圧勝で終わった。倍以上の伊達と戦って圧勝した戦術である。同戦力で本多相手に戦って負けるはずもない。佐助側の犠牲はわずかに三百人のみ、敵側は文字通り全滅、生きていたとしても数名、数十名であろう。

 探して、本多忠政の遺骸は見つかった。班制のおかげで、首も狩られてはおらず、見苦しくはない。胸を突かれただけであった。

 吉興は、数度、南無阿弥陀仏と念をとなえ、故人の冥福を祈った後、兵に命じて遺骸を丁重に京へ送る手筈を整えた。

 忠政は義弟なのである。


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 忠政戦死の知らせが江戸に届いたのは七日後のことである。

 遺骸は京にて埋葬されたとのこと。ほぼすぐさまと言って良いほどに、一ツ橋の屋敷に事実上軟禁状態にあるコウ姫の元に、妹の登久姫から恨み、怒りがつらねられた書状が届いた。

 さっと、一通り目を通した後、ためらいもせず、コウ姫はその書状を火鉢にくべた。


「おコウ」


 自分に回しもせずに、燃やしてしまったコウ姫を、見星院がとがめた。


「読むほどのものではございませぬ。ただの愚痴でございます」

「あの子も今は忠政殿を失って、錯乱の極みにあるのでしょう。姉であるならば寛い心で、なぐさめてもよいではないか」

「馬鹿馬鹿しい。戦のことですよ。負ければ死ぬのは当たり前ではありませんか。忠政殿が、吉興殿よりも弱かったというだけのこと。吉興殿が負けていれば、忠政殿は討ち取らなかったとでも? 義兄に弓矢を向けた不実をまず詫びるべきところ、佐助を詰るとは見当違いもはなはだしい。あの子は誰に育てて貰ったと思っているのですか」

「おコウ。落ち着けば私からも言い聞かせるゆえ。何もそなたたち姉妹が争わずとも」

「母上。大殿の室として申し上げます。殿の敵は私の敵。それだけです。母上も間に立とうなどなさらぬように。佐助のお方にございますぞ」


 日頃の迂闊さなどかけらもない、厳しい表情で、コウ姫はそう言った。コウ姫は三人の息子たちをも責めていた。父が大坂に加担したならば、息子たちもそうするべきであると。

 溶姫も責められた。黒田は何をしているのかと。仮にも豊臣恩顧、両兵衛の家ではないかと。

 東姫も責められた。なぜ夫を説得し、豊前佐助を豊臣方として参陣させないのかと。

 責められていないのは、宗教家に嫁いだ末の英姫のみであった。その英姫にも、本願寺が豊臣から受けた恩を顧みれば少なくとも豊臣の危機に際して資金援助するくらいは筋だ、くらいの厳しい言葉が向けられた。


 時康が代表して、大坂城に入る前に、吉興が小倉城を訪れたこと、吉興自身が、自分と佐助家を切り分けて、佐助家が加担することを望んでいないことなどを懇切丁寧に書状で説明したが、コウ姫が納得することはなかった。

 ぼんやりはしていたが、ただただ優しいだけの母であった。子や嫁たちは困惑した。そう、嫁たちも叱責された。宗興の室は加藤家の出であったので、加藤家が微塵も動かないのはどういうつもりか、清正公がご納得するはずが無いと目の前で罵倒された。宗興の室も、一ツ橋屋敷に集められていたのである。

 安姫は、そもそも豊家和合のために内藤家が何の役に立ったのかと難じられた。仮にも家康の実弟の家系、佐助の縁戚ならば、人一倍、豊家和合のために働かねばならぬのに、一体何をしていたのだと叱責された。

 万事、しっかり者で、義母に逆らったことなど一度も無い安姫とても、落涙したほどの剣幕であった。


 佐助吉興の選択は、妻に、それだけの負荷をかけていたのだった。

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