第52話

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、秋山好古大将の挿話として、次の話が語られている。

 日本陸軍騎兵師団の創始者であり、日露戦争にあって、当時世界最強と知られていたロシア陸軍コサック騎兵団を破るという壮挙を打ち立てた秋山であるが、陸軍騎兵学校において、初年度の学生らに向けて、


「騎兵の本質とはこれである」


 と言い放ち、いきなり拳で窓ガラスを砕いた。

 つまりは一点集中の敵陣突破、その突撃力によって敵陣を撹乱し、料理しやすいように敵陣を誘導することにこそ、騎兵戦力の本質であると言い放った。


 これは軍事思想としては極めてオーソドックスなものであり、長い騎兵の歴史の中でも、ほぼ最末尾の最後の栄光の時代に位置していたと言ってもいい、秋山がそう語ったように、騎兵は突撃力を重視して運用されるべきものであった。


 日本の歴史においても、騎兵が用いられた戦闘では、ほぼ密集陣形による圧倒的な蹂躙力が目立っている。日本産の小型馬でもそうなのである。


 しかし、紀元前三世紀末という気の遠くなるような遠い昔、葡萄香る地中海において圧倒的な戦果を挙げた一人の軍事的天才にとっては、騎兵とは、何よりもまず機動力であった。すなわち、足が速い。

 その男、ハンニバル・バルカは、カンナエの戦いにおいて、騎兵の機動力を駆使して、十万のローマ軍を、五万のカルタゴ軍で降した。ただ勝っただけではない。実に七万のローマ兵が捕虜となり、奴隷として売られたというほど、圧倒的な勝利、ローマにしてみれば壊滅的な敗北であった。


 日本史においては、騎兵の機動力が重視された戦闘は、著名な戦闘の中では吉興の時代まで見られない。もちろん、撤退において馬を用いることはあったのだが、それは、用兵とは別の話である。逆に言えば、武将は何のために馬に乗っていたかということだ。

 第一に突撃して、素早く軍功をあげるため。

 第二に敗色が濃くなれば素早く戦場から離脱するため。

 作戦として機動力が組み込まれた戦闘はほぼ見られない。

 これは急峻な山地が多い日本の国土のせいであるかも知れない。山や川、丘に阻まれれば、とたんに騎兵の機動力は相殺されてしまう。

 しかし今回、佐助吉興が機動力を重視したのは、運用が可能な条件が揃っていたからである。

 第一に、戦場となる摂津は平坦な土地が続いている。

 第二に、豊臣領の河内国は、中世来の牧が多く、馬の入手が容易であった。

 河内はそもそも河内源氏、すなわち清和源氏の本拠地であったのである。単に出身地と言うだけではない。京近くに軍事拠点を構えることで、清和源氏はいちやく有力武家集団になったのである。

 その頃から、馬の生産は絶えることなく続いていた。


--------------------------------------------


「おのれえっ、くそじじいがっ!」


 木村重成が任された陣中央は、敵主力の猛攻をまともに受けていた。馬鹿馬鹿しいほどの長槍で密集陣を敷き、盾を並べて凌いではいたが、いつまで保つか。


「儂に死ねというかっ! じじいを一発殴っておくべきであった!」


 愚痴は多いが、仕事はきちんとこなしている。敵がよればきっちりと、部将自らが槍を振るって、撃退していた。

 息をつく間もない。冬と言うに、木村重成は汗だくであった。それは他の兵も同じこと。


 かような苛めのような配置に木村重成の部隊は敵よりも佐助吉興に対して怒りをたぎらせ、それがかえって攻撃力と防御力を高めていた。


 戦況は、伊達を上、佐助をしたとした場合、中央に伊達の主力があたることで、佐助勢の中央がへこみ、M字形になっている。


「押せ! 押せーっ!!! 敵陣突破は目前ぞ!」


 伊達政宗が全軍を鼓舞した。この時点で、佐助の陣形は両翼が回り込み、U字形になった。

 そして騎兵が敵後方に回り込むことで ― 。


 本陣のはるか前方から、赤い花火が上がった。

 ついに、陣形はO字形になった。中央が破られるよりも先に、両翼に配置していた騎兵が敵後方に回り込んだのである。


「ようやった! 重成! 全軍、一斉にかかれえっ!」


 本陣において、吉興は豊臣の軍配を振り下ろした。


「なんぞこれはっ!」


 伊達政宗は驚愕の声を上げた。

 一斉に、前から後ろから、左右から、敵の攻撃が始まり、伊達軍は瞬く間に混乱に陥った。誰も後ろには目はついていないのである。

 包囲陣の完成。いや。包囲殲滅陣の完成であった。


 いかに兵力差があっても、動けなければただの的である。

 伊達勢の中央部は味方の壁に阻まれて、敵を攻撃することが出来ない。一方で、佐助勢は一人残らず戦闘に参加できる。しかも。時間がたつにつ入れ包囲の輪は小さくなってゆく。佐助三に伊達二であったのが、三対一に、五対一に、十対一になってゆく。

 伊達勢は加速度的に削られていった。


「殿!」


 呆然としている政宗に向かって、片倉景綱が叫ぶ。


「父上!」


 秀宗が声をかけた。


「佐助にしてやられたか…。佐助の方が儂よりも上手であった」


 独眼竜、これほどの屈辱を味わったことはいまだかつてない。

 

「殿! 敵陣の薄いところを見出しました! 我らが道を開く故、秀宗様とどうかお逃げください。殿が戻らねば、伊達家は未だ幼い忠宗様のみとなりまする!」


 ここには伊達家のこれまでを担ってきた者たちも、これからを担う者たちもことごとくいるのだ。政宗が生きて帰ったとしても、この痛手から立ち直るのは容易なことではない。ましてまだ、十四の忠宗のみであれば。


「済まぬ! 儂は生きのびる!」

「はっ!」

 

 伊達の重臣たち一人一人が決死隊となって道を開いてゆく。世に名を知られた名将たちが、伊達の股肱たちが次々に地に倒れてゆく。


「秀宗! いそげっ!」

「はっ!」


 人垣を抜け出た時にはもう、政宗は秀宗を従えるのみとなっていた。しかし逃げ切れる。そう思った矢先。

 目の前の小高い丘に、佐助吉興が陣を張り、伊達父子を見下ろしていた。


 敵陣を食い破ったのではない。食い破らされていたのである。


「貴様…よしおきーっ! どこまで伊達を愚弄する気かーっ!」


 政宗は剣を振り上げ、突撃する構えを見せた。


「父上!」


 硝煙を上げた火縄銃から、秀宗は政宗をかばい、前に出た。銃弾は頭部に当たり、即死である。遺骸は馬上から、地面に叩きつけられた。

 咄嗟に冷静になったかのように、政宗は一瞬、驚愕の想いを浮かべ、震える表情で、吉興を見た。


「早く始末しておけば互いのために良かったのであるがな。黄泉路で、そなたの数々の背信、太閤殿下に申し開きして貰おう。此度ばかりは鶺鴒の花押のような小細工は通じぬぞ。さらばである、独眼竜」


 独眼竜を始末するためには、吉興は剣は使わなかった。一発の銃弾で事足りたからである。


 大坂の陣の緒戦となるこの戦闘を、枚方の戦いとも言う。

 この戦闘において、伊達三万のうち、二万九千五百が戦死した。生き延びたのは、北東に位置していたわずかな兵に過ぎない。それらは、京を目指して、這うようにして逃れた。

 対して、佐助勢一万五千の内、戦死者は三千に過ぎない。そのほとんどは、中央を受け持った木村重成の部隊であった。


「吉興様」

「む」


 そう声をかけたのは、この陣の副将とした雨森氏方である。雨森氏は元は北近江の豪族であり、浅井家中ではこの氏方も吉興の同僚、それも先輩であった。数代遡れば佐助と縁戚関係にあるはずである。

 浅井滅亡後、氏方は播磨に逃れ、更には毛利に行き、秀吉が関白となった頃に豊臣に仕えた。寄り道をした分、豊臣家中における経歴は吉興に後れをとっているが、家臣を一人もつれずに大坂城に入った吉興を補佐し、副官格となっていた。佐助の家老の雨森氏は、この氏方の従兄弟の家系である。


「他の口は大丈夫でしょうか」

「策通りにしていれば、後藤、長曾我部、明石ならば遺漏はあるまい。氏方殿、佐助は天下に知られた弱兵にございますぞ。そを率いるそれがしは、誰がやっても勝てる策しかたてませぬ」

「まことに、見事な策にて」

「さ、我らはこれから転戦し、本多忠政にあたらねばならぬ。兵のとりまとめ、頼みますぞ。そうそう、馬を回収できるようならばそれも」

「心得ております」


 氏方は微笑みながら一礼し、事後処理に向かった。

 入れ違いで入って来たのは木村重成であった。満身創痍であり、返り血や土汚れを全身に浴びていた。

 恨み言の百や二百もあろう。ここは聞くのも務めであると思い、吉興は重成に陣座を勧めた。


 しかし、木村重成は、いきなり土下座をし、頭を下げた。


「申し訳ございませぬ!」

「何を。そなたが軍功第一ぞ。何を謝ることがあろうか」

「これまでの奢った態度にございまする。吉興様、心を入れ替えますので、どうかこのままそれがしをお使いくださいませ」

「はは。そなたは涼やかで罵られても愛らしいほどであったぞ。嫌と言われても手駒が無いのだ。これからも働いてもらう。頼りにしておるぞ、重成」

「はっ!」


 顔を上げた重成は号泣していた。


「なんの、そなたは子供のようであるな。一軍の将がみっともない。それ、顔を拭け」


 笑いながら、吉興は重成によりそって、自らの手ぬぐいで、重成の顔を拭いてやった。


「吉興様。あなた様はまさしく太閤殿下がおつかわしになった豊臣の軍神にて」

「さような物の怪めいた者ではない。ただのじじいよ。しかしながら、軍師であるだけよ」


 さあさ、と吉興は重成を立ち上がらせ、ついた土を、祖父が孫にそうするように払ってやった。実生活では孫に会う機会も滅多に無い吉興であったが。


「しかしの、ただの軍師ではないぞ。豊臣家の軍師なのだ」


 孫に言うかのように、吉興も自慢めいた口調で、そう言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る