第51話

 慶長十九年十一月になる頃までは、幕府方の配置はほぼ、終わっていた。

 大坂へと至る侵入経路は概ね四つ。

 丹波から入る丹波口(茨木口)、京から入る京口(枚方口)、大和から入る大和口、紀州から入る紀伊口(岸和田口)である。京二条城には家康警護として一万五千を置き、まずは先遣として伊達三万に京口から、摂津へ入らせることとした。

 そしてほぼ同時に、丹波口から酒井家次に引き入らせて二万で攻め込み、大和口からは井伊直勝がやはり二万で、紀伊口からは榊原康勝に引き入らせて二万、更に播磨まで回り込ませたうえで、播磨から本多忠政に引き入らせて一万五千の遊軍として、向かわせた。

 前線総軍のみで、十万五千である。

 この大兵力で摂津に橋頭保を築いたのち、京の家康、大和の秀忠が進軍する手筈であった。


 豊臣がこの時点で保有していた兵数は十二万であるが、すべてを出すわけにはいかない。大坂城の警護の他、大坂の町の防衛、特に湊の確保は重要であった。これに先立って、吉興は堺にあった船をすべて湊中で沈没させている。堺湊を使えなくしたのである。

 この頃までには堺湊は砂洲化していて、大型船の停泊がままならなくなっていたのだが、中型小型の船での輸送は可能であったわけで、敵の補給線をまず断ったわけである。大坂湊については豊臣自身の補給の可能性を考えて保全していたが、それは同時にここを軍事的に防衛しなければならないということでもある。

 それぞれの敵軍団に当たらせることが出来たのは、侵入が遅れる本多勢はともかくとして、それ以外には敵軍の半分ほどであった。

 丹波口で、酒井勢にあたったのが後藤基次一万、大和口で井伊直勝にあたったのが長曾我部盛親一万、そして紀伊口で榊原勢にあたったのが明石全登一万であった。吉興自身は、木村重成を連れて、一万五千で伊達勢三万と対峙する。

 大坂城には、真田信繁を置き、六万の兵と共に、籠城戦に備えて出城の建築にあたらせていた。真田丸である。

 渡辺糺には市中警護が命ぜられている。

 

 大野治長は文の印象が強いが決して文弱ではない。書物でも軍略を学んでいる。吉興のこの配置が、治長には戦力の逐次投入に見えた。城内には六万の兵があるのだ。

 治長の言も筋が通っている。

 兵は一気呵成に投入し、決着をつける、これが兵法の常道である。兵は拙速を尊ぶはいつの世にも真理であった。

 しかし吉興が想定していた用兵では、この数が限度であった。限界を決めたのは馬の数である。

 吉興は、諸将に策を授け、徹底してそれに従うよう、求めた。さすれば数に劣っていても勝てると。


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 伊達政宗は、佐助吉興を嫌っていた。

 吉興も政宗を嫌悪していたからお互い様である。

 吉興の活動範囲は主に西国であって、奥州産の政宗とはそもそもさして接触がない。にもかかわらず、政宗が吉興を嫌悪していたのは、政宗が小田原に遅参した際、吉興がかなり執拗に、政宗の処刑と伊達取潰しを要求したからである。

 その後も、大崎葛西一揆の時も、やはり吉興は政宗の処刑を主張した。

 百才あって一誠なし。吉興は政宗をそういう男だと見ている。

 面白がってさような男をのさばらせていれば、必ず豊臣に仇名す存在になる、吉興はそう確信していた。

 実際には吉興が予想したとおりになったと言って良い。

 政宗は尻尾を振りながら、常に要所要所では確信犯的に豊臣の敵になってきた。

 小田原の折、潰しておけば、脅威をひとつ取り除けたはずなのである。

 秀次処刑の際には伊達も危うかった。

 あれには吉興は一切絡んでいないのだが、政宗は吉興が黒幕にあったと思い込んでいる。

 実際、吉興が伊達家に悪意を示したこともある。朝鮮に何度も渡海させようと試み、実際一度は成功している。吉興は朝鮮征伐で、せっかくだから伊達家を使い潰すつもりだった。

 これには政宗は家康に泣きついて、なんとか一度きりの渡海で逃げ切った。

 性格的に合わないとかそう言う話ではないのである。

 吉興は何度となく伊達を潰そうとしてきた。他の大名には一切しないにも関わらず、である。政宗にしてみれば、迷惑この上ない。仲が悪いと噂されていた黒田と潰しあえばいいのに、と思っていたくらいである。

 とにかく、この戦で、ようやく佐助吉興を叩きのめせるかと思えば、独眼竜も意気揚々であった。


 伊達秀宗は二十三歳である。秀吉の猶子であり、秀吉から偏諱を受けた身であるが、豊臣への思い入れは一切合切無い。この戦が初陣であるが、ちょうどいい時期に戦が無かったため、初陣が遅いのはやむを得ない。この戦が終わればますます戦場で手柄をたてる機会もなくなるだろう。

 今度の戦では、秀宗自身もそうであるが、秀宗に手柄を立てさせること、そのことで家中が一致している。

 政宗の次男、忠宗は、秀宗とは九歳差である。生まれたのは関ヶ原の戦いの直前である。ただし、兄の秀宗は側室腹、弟の忠宗は正室腹であった。まさかその年になって、政宗室の愛姫めごひめが男児を産むとは誰も想定していなかったことなので、伊達では厄介な事態になった。

 秀宗しか男児がいなかった以上、すでに秀宗は伊達の嫡子であると認知され、当人もそのつもりでいたからである。しかし正室が男子を産めば話は別である。

 こういう場合は正室の子であっても、跡取りにはならないこともある。愛姫も、長年、秀宗を実子同然に愛育してきたこともあり、今更兄弟同士で家督争いなどして欲しくなかった。それでなくても、政宗の代には、政宗が弟の小次郎を殺害することを余儀なくされている。実母から毒も盛られている。

 愛姫は骨肉の争いはもう何が何でもご免だった。政宗にも嫡子は秀宗のままでと頼んでいる。

 しかし政宗自身が、愛姫の血筋を伊達宗家に残したかった。ただの正室ではない。ただの妻ではない。実の母でさえ政宗を殺害しようとした時に、たったひとりだけ信じられた人なのである。

 そういうわけで、愛姫の意向もあって、十中八九、秀宗の家督相続が継続される見込みであったところを、政宗が一存でひっくり返した。

 以来、父子間の関係も最悪である。秀宗は愛姫には率直に甘えるが、政宗とは口もきこうとすらしない。一方的に政宗が嫌われている。

 何とかしようと言うことで、今回の戦には秀宗を連れ出した。

 関ヶ原の戦いでは、政宗の謀略の失敗もあって、伊達家はほぼ加増に預かっていない。自業自得と言えば自業自得ではあるが、徳川に貸しがあるとも言えなくもない。大坂の陣で伊達が軍功を挙げれば、十万石くらいの加増はあるかも知れない。そうなればその加増分は、秀宗に与えよう。

 政宗はそう言う腹積もりである。


 そうした皮算用だけではない。おそらく今度が最後の大戦になるだろう。仙台には忠宗を残して、老兵たちには冥途の土産とするために、若い者たちには戦の経験を積ませるために、ほぼこぞって連れてきていると言ってもいい。

 何しろ圧倒的な戦力差である。

 万が一にも負けるとは思えない。伊達軍とて戦国最強の一画を占めるのである。


「あの旗は」


 前方に敵影が見えて、軍団は臨戦態勢をただちにとった。

 千成瓢箪の旗印、豊臣総大将の在処を示すものである。秀頼が出張ってきているとは考えにくい。


「やや、赤三枚鱗もありますぞ。江ノ島龍神の旗もありまする」


 片倉景綱がそう声を発した。


「佐助である、な」


 政宗はにやりと笑った。伏兵を忍ばせることなど叶わぬ平野である。ざっと見れば兵差はこちらの方が倍以上有利。


 三枚鱗は佐助の家紋であるが、同時に小田原北条氏の家紋でもある。鎌倉北条である佐助の方が由緒正しいのであるが、実際問題、小田原北条氏と区別がつかねばややこしいことも生じる。それで、佐助では旗印の三枚鱗は赤に染め上げているのである。江ノ島龍神は鎌倉北条氏の氏神であり、その文字もまた、佐助の旗印であった。


「積年の恨み、ここが晴らしどころよ! 皆の者! 進め!」


 佐助を侮ったわけではない。

 しかし平野での力と力のぶつかり合いである。

 数の上では負ける要素はない。


 伊達軍は敵陣中央へ向けて、一気呵成に突き進んだ。

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