散華

第50話

 この時代、日本最大の都市は京都で、人口はおおよそ四十万、大坂と江戸がその半分というところである。

 世にいう大坂冬の陣で、畿内に入った幕府軍は、総数二十五万を越えた。豊臣方の軍勢もまた十二万を越えたから、ひとところに集めるのはかなり無理がある人数である。兵站についても、史書の多くは記していないが、これだけの大軍を移動させるには、膨大な数の官僚の下支えが必要なのであり、江戸幕府はこの乱を通して、さまざまな制度や仕組みを整えたと言ってもいい。


 黒田や福島については当主が江戸城に留め置かれている。

 黒田ほど徳川に尽くしても、寝返りの可能性は完全に払拭されていなかった。主に西国諸大名については同様の扱いになったと言って良い。そうでなくても、軍勢は十分に足りている。畿内の収納能力の方がもたない。

 佐助については、吉興が豊臣方に立ったことから、動員令が一端停止され、小倉にて待機扱いとなった。

 見星院とコウ姫は元々、江戸城中、佐助上屋敷にて暮らしていたが、中屋敷にいた、時康室の安姫、嫡男の正寿丸、次男の金剛丸、長女の芽久姫も、一ツ橋の上屋敷に移された。同屋敷には、大分佐助家、鎌倉赤橋家の面々も移されている。

 時康が、吉興に呼応しないよう、人質として囲ったわけである。

 隠居とは言え、吉興が豊臣軍総大将に就任したことは、豊前佐助家にとっては、弁明のしようもない失態であったが、今のところ幕府は、表立ってそれを糾弾する姿勢を見せてはいなかった。

 それどころではなかったから、とも言えるし、吉興が単身で大坂城に入ったことから、吉興単独の責任に落とし込みやすかったからでもある。


 本多正信も畿内に上る準備の中、忙しい日々ではあったが、幾つかの報告を受けて、違和感を覚えた。

 服部半蔵支配の従来の徳川諜報機関である伊賀者以外に、将軍家隠密として、本多正信は柳生一門を育てていた。

 情報機関と言うのは、時がたてばギルド化し、自らの利益のために上を統御しようとするものなのである。「古い」忍びである伊賀者にもそうした傾向はあった。為政者側がそれに対抗する手段は主に二つ。

 頻繁に、その人事に介入すること。しかしこれが難しい。情報機関はたやすく不可触領域になりやすいからである。もうひとつは、情報機関を複数に分け、互いに対抗せしめることである。

 そういうわけで「徳川家隠密」である伊賀者に対して「公儀隠密」である柳生の育成は急務であった。

 伊賀者や柳生の網は、豊前小倉にも及んでいる。

 さしたる意味の無いように思える情報も、全体の流れの中で見れば、意味を生じる。

 豊前小倉を訪れた佐助吉興が、大手門において、単身、徒歩で現れたために騒動になったという報告を見て、本多正信は、いったんは、吉興殿らしいと苦笑して捨て置いたのだが、今になってそれが気になった。

 吉興には、忠犬よろしく付き従う、今枝一学がいたはず。その一学をなぜ伴っていなかったのか。

 そして、大大名の隠居であり、前権中納言という高位官位を持つ吉興が、単身にて、大坂城に入ったということ。

 この単身とはいかなる意味か。

 普通に考えれば、最低限の従者はいるはずである。それらを除けば単身であったという意味なのか。それとも。文字通り単身だったという意味なのか。

 正信はこれは調べてみる必要があると思った。

 吉興は今枝一学を伴っているのかいないのか。いないのだとすれば、この十四年、吉興に従い続けた今枝はどこへ行ってしまったのか。

 それが、正信の疑問を解く鍵になるかもしれない。

 此度の戦、普通に考えれば、どう考えても豊臣にとっては無謀極まりない。普段の吉興ならば、何をしてでも、絶対に阻止しようとするはずである。それをあっさりと、秀頼の我意に靡いた。

 それが秀頼にとっては破滅への道だと知らぬ吉興ではない。

 しかしあくまでそれを制するのではなく、吉興はあっさりと秀頼の意に迎合した、かのように見える。

 まるですでに大坂の豊臣家と秀頼を見限ったかのように。

 それをしたとしても、致命傷にはならないと思っているかのように。

 だとすれば。

 推理を重ねて、妥当な仮説をたてる。

 秀頼以外の豊臣家の血筋を確保したからとしか考えられない。常高院が若狭より、今まで隠していた豊臣国松を大坂城内に入れたことは伝わっていた。

 常高院。

 豊臣にとっても徳川にとっても鍵となる女性である。

 吉興とも親しい。

 若狭を、京極を調べて見なければならぬ。そう思いさだめて、本多正信は柳生宗矩を呼びだした。


 大坂城では、戦の大枠の方針が、決しようとしていた。


 大坂股肱は、概ね籠城戦を主張していた。血気盛んそうに見える木村重成ですら、そうであった。大坂城は、太閤の城。そうやすやすと敗れるはずがない、と。

 大野治長は、かつてこの地にあった大坂本願寺が十数年に及んで織田の猛攻をしのぎ切った故事を挙げた。

 大坂城は、その大坂本願寺よりもはるかに巨大であり堅牢である。


 だが浪人組の中にそれに与する将は一人もいなかった。

 真田信繁の弁が、最も理路戦前としていた。


「そもそも籠城とは、援軍が来るまで持ちこたえるためのもの。大坂本願寺とて、毛利の支援と補給があればこそ十年を持ちこたえられたのである。今の大坂には援軍はひとつもなく。しかも、大坂城の結構、天下の首邑であったことから、諸大名熟知している。家康はそもそも西ノ丸に居住していたのであるぞ。詳細な絵図面も持っておろうし、抜け道のひとつやふたつ承知していたとしてもおかしくはない。天下人の居城が、まさしく大名諸侯が親しんでおる故案外脆いのは、関ヶ原における伏見城、岐阜城の例を引くまでも無い。ここは打って出ることを主眼とするが上策にござる」


 木村重成はなおも抗弁しようとしたが、吉興は制して、真田信繁の言を是とした。分かり切っていることに時間を費やすわけにはいかなかったからである。


「おのれじじいめがっ!」


 その切り捨て方が一切の容赦がないものであったので、重成は思わず憎まれ口を叩いた。


「黙れ、小僧!」


 怒りを発したのは、吉興ではない。副将たる後藤基次であった。明石全登も冷え切った眼差しで重成を睨んだ。激昂のあまり、下品な振舞いをした重成を、大野治長、渡辺糺、大坂城股肱組も、豊臣の名誉を汚すとして、鼻白む思いで睨んだ。

 木村重成は、武芸の鍛錬、軍略を学ぶことにも、熱心ではあったが、時代的な制約のため、実戦経験は一切無い。実際の戦場で切ったはったを経験していた歴戦の猛者が威圧すれば押し黙るしかない。

 後藤基次のような、誰がどう見ても猛者が上に立つのであればさほど反発は無かっただろう。佐助吉興は、一見、ただ口煩いだけの文弱にしか見えない。実際、弓矢を持たせれば子供よりも弱いだろう。

 その吉興を、歴戦の諸将が明らかに圧倒的な上位者として、遇している。それが腑に落ちない重成であった。


「ま、じじいであるのは事実よの」


 とだけ、吉興は言って、さらりと流した。吉興にしてみれば重成の罵倒などその程度のものに過ぎぬ。この忙しい最中、重成の教育になど構ってはいられなかった。


 おそらくは、疑心暗鬼の状況で、幕府は西国諸大名を動員は出来ないだろう。摂津、丹波を制圧して、西と東の往来を分断してはどうか、と基次が言う。そうすれば、西国諸大名を引きずりやすくなるだろう、と。

 悪くはない考えである。

 吉興は後藤基次評を改めた。吉興は英雄は家中の統率を乱すから大嫌いなのだ。佐助家中には一人も英雄豪傑がいない。そして後藤基次は、その否定的な側面を含めて、英雄の典型であった。

 吉興にとっては、黒田長政という人物は、溶姫の件といい、如水と不仲であったことといい、愛憎半ばするところがあるのだが、人物としてはわりあい高く評価している。頭がいいのは事実、何度邪険にされてもめげずに、吉興を義父としてたて、そういう律儀なところは嫌いではない。女たちの交流を通して、最も親しく付き合っている大名と言っても過言ではないだろう。

 後藤基次と言う人は、その長政とそりがあわなかった人なのである。長政も別に大人物というわけではあるまいが、話を聞けばさすがに長政に同情するものであった。

 そもそも両者は幼馴染として、兄弟同然に育てられた。長政も耐えに耐えたと言って良い。例えば朝鮮での戦いでは、長政が敵兵数名に囲まれ、一人で奮戦する横で、後藤基次は何もせずにそれを見ていたという。何とかしのぎ切って、敵を討ち果たした後、長政は当然、なぜ主君が危ういのに加勢しなかったのかと難じた。基次答えていわく、あの程度の敵に難渋しているようであれば我が主君ではない、と言い放った。

 よく言えば、正確に敵に力量を見切っていたとも言える。無暗に周囲の力をあてにせぬよう、長政を鍛えたとも言える。だが、戦のこと、いくら弱兵であっても槍を突き出せばそれは致命傷になり得る。弱兵を率いて来た吉興にはそのことはよく分かる。

 その話を聞いた時、吉興は、根本的に基次とは軍事思想が合わないと思った。個人の力量に重きを置き過ぎている。

 基次が出奔した後、長政は、諸大名に回覧を回して、基次を仕官させぬよう、諸大名に要請した。黒田五十二万石とわざわざ敵対してまで基次を仕官させようとする大名はいない。吉興ならば、基次が必要と思えば、長政の意など無視して仕官させていたであろうが、吉興の軍事思想からすれば、そもそも後藤基次などは絶対に佐助家中にはいて欲しくない武将であった。

 長政のやり口も陰険ではあったが、耐えに耐えて基次を容れていた長政を、ささいないさかいで見限って出奔と言う形で見捨てたのは基次の方なのである。十数年に及ぶ浪人生活も自業自得と言えなくも無かった。

 そうであるから、吉興は、後藤基次のことを猪武者に毛が生えた程度の武将と捉えていたのだが、実際こうして話してみると、なかなか戦略眼がしっかりしている。如水の薫陶を受けただけのことはある。人物も、さして、気の荒い部分もない。むしろ謙虚で寡黙な人、という印象である。

 浪人生活の苦労が、基次を丸くしたのかも知れない。

 基次の方は、如水晩年の盟友であった吉興には、絶対の信頼を置いている。

 豊臣副将の任に十分堪え得る武将となっていた。


「それをするにしても、まずは、徳川の兵を削がねばなりますまいな」


 明石全登が言った。吉興も同感であった。先に広く展開してしまえば各個撃破されるだけである。

 まずは摂津平野にて、敵兵力を削ぐ。それが吉興の方針であった。

 そうなればそこから、西国諸将が呼応するということも無いとは言い切れない。吉興は期待はしていないが。むしろ主眼はそこから講和に持ち込むことである。今回の決起、不問に付すためには、こちらが勝った上での講和に持ち込むしかない。そこに至ったとしても、そこから先がいばらの道であるには違いないが、道がないよりはましなのだ。


「ならば、摂津に誘い込みし敵兵を逐次撃破する。それをわが軍の方針とする」


 吉興の声が響き渡り、軍議が決した。

 



 


 

 

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