第二部
沙羅
第70話
佐助吉興の処刑が執行された翌日、佐助時康、佐助宗興、赤橋吉清の、いわゆる佐助三兄弟は、二条城に召喚され、将軍秀忠臨御の下、連座処分が下され、計七十五万石は収公されることとなった。
そして直ちに、同三兄弟を、故人、松平信康の養子とし、源姓としたうえで、従前の所領がそれぞれの松平家に与えられることになった。
すなわち、豊前松平家六十八万石、大分松平家五万石、鎌倉松平家二万石がそれぞれ独立した大名家として成立したことになる。
特に豊前松平家は女系外孫とは言え、女系ゆえ松平という一段低い扱いにはなったが、公儀として正式に家康長男の嫡流、すなわち徳川嫡流と認められたわけであり、これは処分と言う形をとった地位の上昇であるとも言えた。
家康以外は、将軍家も、佐助の当事者らもまったく望んでいなかったとは言え。
信康と時康を直接結ぶことで、系図上、吉興とコウ姫が排除されたわけである。それによって、これ以上の吉興との連座を防がれ、秀忠家を徳川宗家とする一方で、信康家を松平本家とすることとなった。
時康としては、呑むも呑まないも、これを甘受する以外には一族の生き残りが計れないのであり、幕閣の要求に従って、領内より佐助の痕跡の排除に、さっそく手を付けざるを得なかった。
佐助稲荷神社、江ノ島弁財天、小倉城内の浅井万福丸のための社などは破却され、八幡宮が勧請された。
家紋も葵紋に替えられたが、これは逆向き葵であり、茎側が頂点として重なるようになっている。見ようによっては北条の鱗紋にも似ていて、豊前葵と呼ばれる。
こうして佐助の名は消された。
しかし佐助の血も思いも潰えたわけではない。
徳川幕府はこの措置を受け、一門の家格整理を決定している。
第一が将軍家。
第二が尾張家、駿河家。これを御連枝家とした。頼宣にも徳川姓が与えられることが正式に決定された。
第三が水戸家。準御連枝家とされ、後に徳川姓が与えられている。
第四が御家門であり、豊前松平家、越前松平家の二家。豊前家の方が格上とされた。
大分松平家と鎌倉松平家は、支藩ではないが支家とされ、譜代上位として扱われた。松平忠輝及びその家の長澤松平家については数々の不行跡があり、この時に正式に改易処分が決定され、所領が収公された。捨扶持として川中島一万石が与えられ、復活が成るかどうかは今後の態度次第である。御家門には入れられず、譜代扱いとなった。
この措置は、吉興処刑という不測の事態を受けてなされたものであるが、そのわりには考え抜かれていた。家康が、私案として長年温めていたものである。
義直と頼宣を徳川として扱うことで、本家断絶の継承危機に備え、将軍家が独裁して暴走しないよう、牽制役とした。その風当たりが、尾張一家に向かわぬよう、同じ立場に頼宣を置き、義直の立場を強化している。
水戸家は、将軍家と御連枝家の仲裁役であり、審判役でもある。天秤の役割を担うがために、「大事になる前に調整する」のが任になる。
その水戸家を、豊前家の上に置いたことで、信康家というある意味、系図上は強力な豊前家の立場を薄めた。家康の望みは、豊前家が嫡流として尊重され保全されることであって、将軍家にとって代わることではないからである。敬されて、実権からは遠ざけられる、そういう立ち位置を豊前家に与えた。
それでいて、次男の家系である越前家よりは上に置かれることで、豊前家の格式を担保した。
一年後、豊前家には更に二万石が加増されて、きりよく七十万石となったが、これは一門衆の中では将軍家を除けば最大の石高である。そうやって、家康は豊前家を「重んじるべき家」として示したのである。
慶長二十年、佐助時康は天正十三年の生まれであるから、この年に三十歳となった。改姓に併せて、官位も進められることになり、従三位権中納言となった。これが江戸時代を通して、豊前家の極官となった。
一方で、佐助以来の幾つかの特権を、豊前松平家は継続して所有することになった。
大坂屋敷の維持、これは、大坂における通商権の確保につながった。豊前松平家は、佐助以来の「商いの家」の性格を保持し続けたのである。
船舶の保持も同様である。南蛮船を接収し、独自に建造した愛宕丸などの外洋船も保持が認められた。主に江戸との往来のために用いられたが、空いている期間は交易にも従事させ、相応の利潤を豊前松平家にもたらしたのであった。
参勤交代についても、かなり後まで、全行程海路での参勤が許されている。これはそもそも参勤交代制度が出来るよりも先に、佐助がやっていたことであり、その実態の上に参勤交代制が築かれたわけであるから、「制度外」の措置ではない。しかし既得権益であったのは事実である。
船で無停泊で行けば、宿泊費もかからないわけで、先行船を出して安全を確保したうえで、豊前松平家の参勤船は夜間航行も可能になっていたので、十日もあれば小倉と江戸をつないだ。
豊前松平家にとっては隣国の薩摩島津家の場合、大坂迄への海路使用は認められていたが、そこから先は陸路であり、片道、四十日はかかった。総費用で言えば、実に、豊前松平家の十倍以上はかかっている。
豊前松平家の場合は、参勤交代用の御座船、代々の愛宕丸が、直接、江戸の蔵屋敷につけることが可能であったので、極端に言えば、船には藩主一人が乗って、蔵屋敷で参勤用の人足を揃えることも出来た。
豊前松平家では、大名行列は、江戸築地の蔵屋敷から、一ツ橋の上屋敷の間のみで行う、数時間かからない行事に過ぎなかった。
豊前松平家がのちのちまで、こうした特権を許されたのは、大権現様御教書として家康の命が豊前松平家、幕府双方に伝えられたからである。
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