第71話

 大坂の陣で畿内に集まっていた軍勢は、随時、国元に返されていたが、直接動員されていなかった大名らを含め、将軍は上洛を命じた。

 京屋敷を持たない諸大名らの宿所は寺社仏閣が充てられていたが、豊前松平家の場合は、西本願寺に逗留している。時康は、国家老の橘内吉久、寒河江を除いて、十三家老のうち、十一家老を上洛させた。

 豊前松平家としての新制をどう定めるか、将軍家との交際、松平一門への挨拶等々、やるべきこと、しなければならないことはごまんとあった。

 滞京命令が下されていなければ、時康は国入りしたかったところである。


「誰が大殿の首級を持ち去ったか、では分からぬと」


 雨森が悔しそうに言った。


「雨森殿。大殿ではござらぬ。吉興殿であろう」


 滝が言った。


「なにをっ。そなたは新参ゆえ」


 磯野が詰る。

 近江産、丹波産の家老らにとっては、佐助吉興に仕えていたのである。その吉興が首となったことは悔しい。処刑は戦のことであるからやむを得ないであろう。しかし、首を晒したことには、幕府への憤りがある。まして、首級を遺族へと返還しないとは。


 おあんより、吉興の首を奪取し、埋葬したことが伝えられたのは、翌年の三月頃であった。黒田家に伝えられたのだが、おあんはそれだけ接触して露見するのを用心していたのである。


 この時点では、吉興の首が失われた、としか聞かされていない。家老らは、幕府が意図的に隠しているのだと思っていた。


 その吉興を、もはや大殿ではない、と最新参の家老である滝が言った。


「おうよ、儂は確かに新参よ。なれば言おう。豊前松平家として生き延びることを選ぶのであれば、端々までそうならねばならぬ。我らはもはや佐助家中ではない」

「滝の申す通りである」


 時康が、言った。

 ここは、幕府への恨みつらみを述べ立てる場ではない。幕府の命令を、あげあしを取られずに、現場に落とし込む方法を探る席なのである。

 家老たちに事務的な話をして、おのおのの分担が取り決められた後、橘内長久のみを、時康は別室に呼んだ。


「あの件の手筈はいかがなっているか」

「吉興殿のご指示通りに」


 吉興を、吉興殿と呼ぶ律儀な物言いに、時康は笑った。


「長久。そなたと二人で話す時は、我らは佐助ぞ。大殿で良い」

「それはようございました」


 長久も破願する。


「なればそなた、一の家老として、父上の意を継ぐが、当家の任であると、その考えでよいのであろうな」

「どうもこうも。佐助はそもそも二度滅びた家にございます。一度は鎌倉で、二度は小谷で。それを、大殿が一代でこしらえになられた御家。陶工が、土を練り上げて、花瓶になれと申すのであれば、花瓶になるのが土の役目」


 その老眼には迷いは一切無い。もし、時康が、吉興の遺命に反するのであれば、長久は、時康をも排除しようとするだろう。


「吉久には、話したか?」

「ご指図通りに、話しました」


 吉興の指示では、佐助の当主と嫡男、橘内の当主の三名が、知っておくべきことしていたが、実際問題として、その範囲内で「三名が」承知しておくべき、と時康は解釈した。

 例えば、当主が五十過ぎとして嫡孫が五歳であれば、五歳児に話してもどうにもならないわけである。その時に、橘内の当主が五十で、嫡男が二十であれば、備えが一番固くなるのは、橘内の嫡男に教え聞かせておくことである。

 全体で三名が把握しておくということは、踏まえたうえで、長久も高齢であるから、その嫡男の吉久があらかじめ踏まえておくことは大事であった。

 時康の嫡男は、まだ幼少であるから、教えられるのは、橘内長久が亡くなってからで十分だろう。


 慶長二十年、この時点で、時康の子は四人いる。幸い、夭折した子はいない。

 第一子で長女のうん姫は慶長十年生まれ。

 第二子で次女のちょう姫は慶長十三年生まれ。

 第三子で長男の松寿丸が慶長十六年生まれ。

 第四子で次男の育樹丸が慶長十九年生まれ。


 育樹丸以外は、正室の安姫が産み、育樹丸は御国御前の梅丸殿が産んだ。梅丸殿は、長久の娘である。


 松寿と育樹は、佐助代々、長男次男の幼名であるから、機械的に命名されたのであるが、姫の名は、吉興に命名してもらっている。

 雲の字は北条早雲から、桃の字はその妹で今川義忠室の桃源院から、とられた。吉興にとって、小田原北条氏は天敵であったが、時康以降には、北条早雲に近しい血が流れている。

 鎌倉北条氏の遺恨を、流すべきところは流すように、との吉興の思いが込められていた。

 吉興自身、矯めるべきは矯めて、努力をしていたのである。慶長十五年には、家中礼法指南として、吉興の口利きで伊勢盛衡なる者が佐助家中に雇用されているが、これは広く言えば小田原北条氏の一族である。


 いずれにしても慶長二十年のこの時点で、長男は数えでもまだ五歳、次男は二歳であって、嫡男に、豊臣遺児の秘事を話すなど、まったく現実的ではない。


 時康は、豊臣遺児を保護するために、屋代衆、佐伯衆なる者たちを組織した。これは元々、水軍であったが、幕府の水軍解体令に伴って、佐助の家臣化し、忍びとして養成していた者たちである。

 屋代衆には、小倉にほど近い小郡に一村、入植地としてまるごと与え、いずれそこにある寺に赴任してくる、正家せいけ(本物の豊右府遺児)を保護するのを使命とさせた。

 佐伯衆には、若狭より連れて来た身代わり、潤家を忍びとして保護させることにした。ちなみにその潤家当人は、武家・佐伯家の養子となり、家臣として育てられている。

 屋代も佐伯も似たような使命を与えられている一族が別にあることを知らず、そもそも守っているのが豊臣氏であることを知らない。

 正家が、確かに豊家末裔であることを示す証拠の数々、豊臣から下賜された遺品(それらは本来、国松に与えられたものであったが)、佐助吉興と常高院直筆の認め状、等などは小倉城奥にて、保管されることになった。


 時康がしたためた、「事情記」なる、経緯説明の書状も同じくそこへしまわれている。子々孫々が吉興の意を継ぐことを求めた書状であった。

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