第72話

 慶長二十年七月、朝廷において改元の詔勅が発せられ、新たに元和の世と定められた。また、応仁の乱以後、百五十年に及ぶ擾乱の世の終息を宣言、これをして、元和偃武と言う。

 朝に改元の議に臨するために、参内した大御所、将軍は、そのまま、居並ぶ公家、諸大名を引き連れて、二条城に戻り、その大広間に置いて、武家諸法度、禁中並公家諸法度を発した。


 禁裏、公家をも、幕府の下に置くという宣言であり、しかしながら、当時はこれに異を唱える者らはほとんどいなかった。

 単に、幕府の威を畏れて、というだけではなく、朝廷の権威のありようが、地に墜ちていたからである。

 応仁の乱から百五十年が過ぎ、本来の朝幕関係がどういうものであるか、実態として知っている人は誰もいなかった。


 勤皇的な反発が、この構造に対して発生するのは、次世代以降になってからである。若年層の、反体制的な気分の一環として生じたものであって、普遍への志向が勤皇思想に転嫁したものと思われる。

 ロシア革命におけるナロードニキの例を引いたうえで考えれば、反体制という思想は体制内エリートから生じるものである。日本の場合は、勤皇思想がその受け皿になったのであり、体制内エリートでなおかつ非主流派の、尾張、水戸が勤皇化したというのは、むしろ定石通りであって、その、「体制内エリート、なおかつ非主流派」という立ち位置に豊前松平家も位置づけられることになる。


 それでいて、豊前松平家はさほど勤皇化することは無かったのだが、それは内部に、豊臣を抱えていたからであるかも知れない。


 元和元年八月になってから、松平時康は、ようやく江戸に東行できた。共に松平となった宗興、吉清も随伴している。

 数名の家老を同道させたのだが、滝廉基は、陸路での行程を主張した。佐助は処分された身の上である。ある意味、豊前松平家となって佐助の積罪は無意味になったとも言えるのだが、処分を受けたのは間違いないので、基本的には遠慮すべきである、と滝は主張した。

 草創期ならばいざ知らず、幕府も地盤を盤石とする中で、航行自由の過去の特権にしがみついていては、驕慢のそしりを受けかねない。滝廉基は、そう主張した。

 それも尤もであったが、佐助は海運の家である。そこから得られる利益は計り知れない。そう簡単に手放せる利権では無かった。

 ここは敢えて、利権を保持することにした。

 時康らは大坂まで出て、そこから船で江戸に向かった。


 幕府は、豊前松平家から特権を取り上げるというよりは、その分の賦役を課すことで相殺しようとするようになる。同家の位置づけについては、大御所である家康直々の差配によるものであり、よほどのことが無い限り、老中らが介入することが躊躇われたからであった。

 寛永年間より、北部九州諸大名に命じられた長崎警護においても、久留米藩、柳川藩は十二年に一度、福岡藩、熊本藩、佐賀藩は六年に一度の担当であったのに対し、小倉藩(豊前松平家)は三年に一度の頻度で、重い賦役を果たすことになった。もっとも、石高から言えば妥当な負担ではあったのだが、数々の天下普請においても、主に輸送の担当として、豊前松平家は駆り出されることになる。


 ともあれ、蝉の声も絶えるような八月に入ってすぐ、ようやく、時康ら、兄弟は、母に対面することが出来たのであった。


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 コウ姫は明らかにやつれていた。


「大殿の御最期を見守って下さったと聞き、母は感謝しております」


 三人を並べさせて、コウ姫は頭を下げた。

 他には見星院、及び、国元より呼ばれた東姫が同席している。東姫は橘内吉久の室であるが、母が不慮ということで、江戸に呼び寄せられていた。溶姫と英姫は他家に出た身であるので、そうそう、会いに来ることは出来ない。


「さりながら」


 コウ姫は、時康を睨んだ。


「佐助の名を捨て、松平を名乗るとは。時康殿、いかなる御存念か」

「母上。それは大御所様の御裁可にて。我らが望みしことにはございませぬ。大御所様としても此度のことを丸く収めるには、佐助を残しておくわけにはいかぬというのも重々理が通ったことでございますゆえ」

「何が理か。大殿の御処刑は、ご当人もお覚悟のことでございました。戦のことでございますからとやかくは言いますまい。さりながら首を晒すなどと」


 コウ姫は悔し気に言い捨てる。その思いは無論、この場にいる者たちはみな、共有している。しかし。

 兄にばかり負担を押し付けてはいられぬと、宗興が言う。


「母上。御首級のことは。関ヶ原では石田、長束、安国寺恵瓊、小西らも同様の憂き目となっております。むしろ常識的な措置かと」

「なんと」

「それに。国松君は晒し首を免れておられます。これもひとえに、父上がその責を一身にお受けになったゆえかと。父上はご満足であらせられたでしょう」

「そなたらもそれで満足と言うか!?」


 コウ姫の難詰に、子らは押し黙った。いかに筋が通っていても、父を殺されて満足に思う子などいない。しかしながら、彼らもまた、佐助の子である。吉興が、そこまで計算に入れたうえで行動したことは確実であるとは思っている。

 特に時康は、豊家遺児のことを知っているから、父が敢えて処刑されたこと、国松の死で以て、豊臣が滅び去ったことを印象付けるために敢えてそうしたことを確信している。そのためには、自分のみならず、幼い国松を犠牲にしたことも。

 家康が、吉興を死に追いやったのではない。時康は親しい幕臣より、吉興を助命するつもりだとの家康の内意を事前に知らされていた。それが、家康と吉興が対面して、事態が急変した。

 吉興が家康を追い込んだに違いない。

 コウ姫も、三十年以上に及んで軍師の妻であったのだから、その程度のことは理解しているはずである。しかし理解することと納得することは、また別の話であった。


「首級を我らに返しもせず」


 コウ姫が続けて言う。


「それですが、母上。町人らが騒動を起こし、その隙に首級が奪われたとのこと。おそらくは京の町の者たちがねんごろに弔ってくれているに違いありませぬ」


 吉清が言った。それについては時康らも同意である。道崇先生が人気者であったことは、時康らも承知している。ある意味、京都奉行であった吉興としては、名誉なことではないだろうか。


「許しませぬ」


 しかしコウ姫は断罪した。


「大殿のことはご当人はご満足であったというのは私も分かっています。大坂城に赴いて話したのですから。しかし佐助の名を奪ったことは、許しませぬ」


 コウ姫が、小刻みに震える。


「母上、お体に障ります。さ、もう横になられて」


 東姫が肩に手を掛けようとすると、コウ姫は身をよじって、触れられるのを拒絶した。


「そなたらと会うも今日限りじゃ」

「おコウ。何を仰せですか」


 見星院が驚いて言った。


「大殿亡き後、生きていても甲斐なきゆえ。佐助の家が残るのであれば、大殿にお代わりして見届ける務めもありましょうが。松平など。食と薬を断ち、大殿に迎えに来ていただきまする」

「母上。中身は同じなれば」

「時康殿、私は大殿と私がこしらえた家が、松平などと名乗ることが許せぬのです」

「おコウ。当家が信康殿のお血筋であるのも事実ゆえ。そなたの不快は重々承知ではあるが」


 見星院がなだめにかかろうとするが、コウ姫は鋭い眼差しで、母を見た。


「ご自分の夫を殺した母上には、私の思いなど分かりますまい」


 コウ姫の言葉の刃は、見星院の胸を深くえぐった。


「父を殺めた母に育てられ。その父も狂乱で無辜の民を殺めた者。松平、徳川、織田なぞは、私にとっては呪いでしかありませぬ。佐助であることのみが、私を生き永らえさせてきたのです」

「母上…」


 時康もそれ以上の言葉が出ない。母が、どれほどの闇を抱えて生きて来たのか、ただ、夫のみが光であった母の真実を、時康は初めて見た思いがした。出来れば、生涯見たくはなかった真実である。


「時康殿。宗興、吉清、東姫。そなたらにも上に立つ者としての事情はあるでしょう。さりながら。私にも思いと言うものはあるのです。豊前松平などという家の奥として生きることは、金輪際断ります。徳川など、その血が自らに流れるのもおぞましい。

 母を哀れと思うならば、鴆毒をお与えくだされ。くださらぬならば、絶食して命を断つのみにございます。

 表向きの名がどうであれ、そなたらは佐助として生きねばなりませぬ。ゆめゆめ、子々孫々まで、大殿の志、無碍にすることなきよう。そのことを忘れぬように。私は命を以てして、そなたらを縛りまする。

 よいか。これは母の遺言ぞ。

 今すぐどうせよとは申しますまい。いかなる名になろうとも、御家が続くことこそ、大殿のお望み、これは明らか。なればそれぞれの家をまずは保つべきにて。

 さりながら、織田の天下は一代、豊臣の天下は二代。御家の祖の鎌倉の北条とても、今はなく。徳川もいずれはそうなりましょう。

 そうなった時に、この家は、必ず佐助に復さねばなりませぬ。頼みますよ、時康殿。

 それだけではありませぬぞ。

 いつのことになろうとも、その時には家康が墓を暴いて、必ず、必ず、その首を四条河原に晒すのです。大殿はさようなことはお望みにはなられまいが、私が望むのです。

 よいな。いつの日か、家康が首、必ず晒すのでありますぞ」


 コウ姫の思いに、面々は圧倒されていた。

 吉興の傍では、ただのぼんやりとした女であった。


「これを私の、遺命とします。必ず子々孫々に引き継がれよ」


 そう言って、コウ姫は震えながら立ち上がった。


「おコウ」


 打ちのめされたような声で、見星院がすがるようにして、声をかけるが、コウ姫はもはや母を見ない。


「時康殿。私はこれより、奥の部屋に入ります。私の傍仕え以外の者が入れば、ただちに舌を切って死にまする。私も好き好んで痛い思いをしたくはありませぬが、そうせねばならぬなら、必ずそうします。そして絶食いたしますゆえ。母を苦しめたくないのであれば、早々に鴆毒を用意なされよ」

「母上!」


 子らが、見捨てられたようにして、追いすがって声をかけたが、コウ姫は振り向きもせずに、自室に入り、その襖を閉めた。


 その日から四日に及んで、佐助、いや豊前松平の一族は、入れ替わり立ち替わり、部屋の外から、コウ姫の説得を試みたが、コウ姫の態度は頑なであった。

 ついには、時康の決断で、毒と水差しが差し入れられ、終着した。


 法名、正寿院釋等照。


 正寿院の院号は、亡夫の幼名に因んでいる。

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