第73話

 元和元年八月の半ばに、秀忠が江戸に帰城した時、御台所、お江は寝込んでいた。


「母上。父上がお見舞いにお越しになられました」


 お江の傍にいるのは千姫と常高院であった。

 お江は何とか、体を起き上がらせようとしたが、自力ではままならない。千姫と常高院が支えた。


「長の御勤め、ご苦労様でございました」

「うむ」


 秀忠は、お江の隣に座り、その手を握ったが、生気が無い。

 何と声をかけたものか、言葉を探すうちに、お江が次第にわなないた。


「お江」

「姉上と秀頼殿をお助け下さると仰せであったのに」


 そうつぶやいて、お江は自らの言葉にはっとなった。


「御台所として申してはならぬことを口にいたしました。申し訳ありませぬ」

「お江」


 秀忠は握る手に力を込めた。


「済まぬ」


 叱られた子のように言葉を探す夫を見て、お江は、秀忠の胸に身を寄せた。


「あなた様を憎みたいと思ったのです」

「お江」

「さりながら、それも出来ず。どうすればよいのか。お教えくだされ」

「済まぬ」


 お江は、亡き姉のために初めて嗚咽を上げた。

 豊臣の滅亡を、慶事として祝わねばならぬ立場である。

 

 大名家の子女は、同腹の兄弟姉妹と言っても、そこまで睦みあうことは普通はない。それぞれに側近がいて、利害も違っているからだ。

 しかし茶々、お初、お江の三姉妹は亡国の姫であり、織田家中で蔑ろにされたわけではなかったが、そこまで重んじられていたわけではない。侍女らも何もかも三人まとめて、隔たりも無く一緒に暮らさねばならなかった。

 柴田が滅びてからは、しばらくは虜囚同然であり、庇いあって生きて来た。末子のお江にとっては、茶々は母同然であり、大切な家族だった。

 その姉を。

 夫が殺したのである。

 秀忠とお江とではお江の方が年長だが、秀忠は長男気質であり、お江は末っ子気質である。秀忠は三男であるが、長男と次男は浜松から離れていて、浜松で育った家康の子らの中では長男扱いであった。

 弟妹を保護する気分が強い。お江の事情は先に述べた通りであったから、この夫婦は、凸と凹が合致するようにして、互いの気質がよいように作用した。

 お江は無防備な女である。

 保護者と思えば、必ずや受け止めてくれると信じて、全身を委ねて倒れ掛かるような無邪気さがある。

 その嘘の無さが、秀忠には愛おしい。

 秀忠は三男であり、誰もが認める嫡男というわけではなかった。陰口も叩かれ、知りたくもない他人の裏の顔もずいぶん見て来た。

 それが当たり前だったから、それには何の不満も無かったのだが、お江と結婚して初めて、自分がそれまで不幸であったことを知った。

 秀忠にとって、お江は、自分の人生の中で唯一生じた奇跡であった。

 そのお江を。

 これほどまでに苦しめている。


「儂が浅はかであった。お江、お千、義姉上もお聞きくだされ。

 将軍として、儂は豊臣を討つべきであると申した。南北朝の例、室町の公方と関東の公方の例、頭が二つあっては天下が収まらぬ。さすれば戦乱がいつまでも終わらぬであろう。儂が、豊臣を討てと申したのじゃ。大御所様は、豊臣を生かせと仰せであった。しかし儂の意を知ってか、大御所様は、率先して大坂をお攻めになられ。大坂城を落としたは大御所様の手勢。

 大御所様の本意は未だ分らぬ。儂に代わって手を汚されたか、儂の覚悟をお試しになったか。

 無論、儂はそなたらが無明の地獄に彷徨うことになろうこと、分かっておった。いや分かっていたつもりであった。

 憎くて殺したわけではない。殺したくて殺したわけでもない。それは確かぞ。豊臣がただの大名家ならば、いくらでも生かす道はあった。

 しかしの。今、将軍として一点の恥も無いとは言い切れぬ。将軍という器を満たそうと無理をしていたのではないかと。その無理に、思考が引きずられていたのではないかと。秀頼殿が来ぬのであれば、こちらから大坂に行っても良かった。お江を連れて、お千に会いに行き、家族として、同じ家族として、共にこの難題を考えてみても良かった。

 まして、夫として、父としては。そなたらに見捨てられても、当然のことをした。赦してくれとは口が裂けても言えぬ。あと、十年、いや、せめてあと五年、待ってくれ。竹千代が、元服いたすまで。その時に、なお、そなたが儂を赦せぬというのであれば、自害いたそう」

「父上」


 千姫は首を振りながら、父に寄り添った。常高院が口を挟む。


「上様。滅多なことを仰せになられますな。例え竹千代殿、元服あそばされたとしても、あなた様が御支えにならねば、天下は麻のごとく乱れましょうぞ。豊臣から奪った天下、そのご自覚がおありならば、せめて天下の御安寧のためにお尽くしあられよ」


 手拭いで、涙を拭きながら、お江も、秀忠を見据えて言う。


「上様。私はあなた様の妻なれば、あなた様が誹りを受けるのであれば共に受けましょう。私がいつまでも気に病むのを、茶々姉上がお望みとも思えませぬ。御台所として在ること、私も覚悟をさだめました」

「済まぬ、お江」

「みっつお願いがございます」

「うむ」

「ひとつは茶々姉上と秀頼殿のご葬儀。国松殿とも併せて、私の名で改めて催してもよろしゅうございますか」

「それはならぬ。略式であるが、松ノ丸殿に誓願寺で弔いをしていただいた。それで堪忍して欲しい」

「分かりました。八年後になりますが、亡き父の、五十回忌となりまする。その折に、浅井一族として、豊臣の方々の法事も行いたいと思いますが、これはよろしゅうございますか」

「八年後であれば、ほとぼりも冷めておろう。内々であればよかろう」

「ありがとうございます。私が生きておらねば、京の完子に申し置きましょう。それも不都合であれば千姫に」

「必ず」


 と千姫が答える。


「それに伴ってでございますが、松ノ丸殿への御礼として、多少なりとも京極家へのご加増を」

「あいわかった。折を見て、年内にでも一万石を加増しよう」

「かたじけのうございます」


 常高院が京極家の者として、頭を下げた。佐助ほどではないが、京極家も間に入って動いたために、陰口を叩かれることが多い。この加増は、将軍家の一層の信頼の証となるだろう。


「ふたつめは、竹千代の室にございます」

「ふむ」

「秀姫を、と望んでおりますが」

「なに?」

「思えば徳川は二代続けて、豊臣から正室を迎えております。朝日様は太閤殿下の妹御、私は太閤殿下の養女にございます。竹千代の室が秀姫でも何ら触りはないかと」

「しかし。東慶寺に入れることで助命が叶った者ぞ」

「東慶寺には入れればよろしいかと。俗世と縁切りすれば、豊臣も徳川もございませぬ。そのうえで九条家の養女としてでも、奥に入れればよろしいのです。血筋は豊臣家。太閤殿下の御孫にて、めでたく両氏和合となりましょう。子が生まれれば大御所様にとっても太閤殿下にとっても曾孫。豊臣の怨念も晴らし、諸大名も喜びましょう」


 お江は名案と思ったのだが、これは実際には、秀姫の頑なな拒絶によって、流れることになる。さすがに、父、祖母を殺した家に嫁ぐのは甘受できなかったようである。


「それはおいおい考えてみよう。大御所様にもお話はしておく。三つ目はなんぞ」

「それはこの千姫のことにて。早々に縁組を」

「母上」


 千姫は首を振った。当面は誰かに嫁ぐなど考えたくもない。


「お千。せめて心の区切りがつくまでとお思いやも知れませぬが、区切りなど来ませぬ。上様の前で話すのもなんですが、私も前の夫が亡くなった時には、弔って余生を過ごそうと思いました。それを半ば無理矢理徳川に嫁がされて。そのおかげであなたたちも生まれたのですから、幸せですし、それで良かったのだと今は思っています。あなたも、母となりなされ」

「それはそうよの」


 と、常高院も頷く。


「伯母上まで」

「私は子福者のお江と違ってついに一人も子を産めませんでした。茶々姉上のことを見れば、子がいたらいたで苦労もありましょうがの。それでも母にはなれなかったことが心残り。いや、秀忠殿とお江からは初姫をいただきましたが、それはそれ。千姫。そなたも一人の女として幸せになってもいいのですよ。秀頼殿もきっとそれをお望みでしょう」

「伯母上…」

「ついては、上様」


 お江が秀忠を見据える。


「うむ」

「下手な外様にやり、苦労などさせたくはありませぬ。越前は御一門ですが、勝姫も苦労をしているようです。徳川のご意向、重々弁えておられる譜代にお入れくだされ」

「となると、家格からすれば酒井か、本多中書か、井伊か」

「本多忠刻殿がいかがかと」

「忠刻か」


 忠刻の母の登久姫は千姫とは従姉妹同士になる。


「見星院様のお血筋なれば、佐助の縁者、千姫を蔑ろにはいたしますまい」

「佐助ではない。豊前松平よ。それにどうかの。忠刻の父の忠政は、吉興に討たれておるわけであるし。千姫はその時は大坂にあったわけであるからの。いわば敵」

「そのあたりの探りも見星院様にお願いしては」


 それについては、見星院に話すだけは話してみようということになったのであるが、諸々で見星院が登城するのは年末にずれ込んだ。

 コウ姫が没し、喪に服したからである。

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豊右府末裔顛末記 本坊ゆう @hombo

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