驟雨
第14話
慶長三年十二月である。
音もなく降り続く雨が小倉の城下を覆っている。九州は温暖とは言え、玄界灘に面する豊前小倉はそれほどでもなく、雪がちらつくまでには至っていないが、風雨の厳しさはそれなりに肌を刺すものであった。
太閤秀吉の薨去から四カ月、何はともあれ、朝鮮から戻って来た諸将らが、仮の宿として小倉城大広間に集っていた。
宇喜多秀家、加藤清正、立花宗茂、浅野幸長、小西行長、島津義弘、黒田長政らである。小倉までたどり着いて一日、あるいは二日が経ち、さすがに諸将の衣装も改められている。
その場には当然、豊前国主にして小倉城主である佐助吉興の姿もある。
大坂より太閤薨去の報せが発せられると、吉興は、喪に服す暇もなく、渡海諸将らを無事に帰国させるために、寝る間を惜しんで全力を尽くした。商船軍船は言うに及ばず、漁師が操るような小舟にさえ、玄界灘を越えさせ、将兵を日本へと輸送させた。
佐助は、朝鮮出兵では一度も派遣されていない。小倉にあって、物資、将兵の輸送に専心したからである。むろん、ここにいるような者たちはみな、少なくとも半国の主であり、葉武者ではない。兵站の重要性は重々承知している。しかし、彼らが敵地で泥水をすすっていた時に、佐助は安全な後方にいたのも事実である。
それに対するわだかまりがまったく無かったわけではない。
だが、そうであったとしても、この大撤退で見せた佐助の渾身の働きには、彼らも文句は言えず、吉興に対してはむしろ感謝の念があった。
すでに秀吉はいないのである。
適当に流して、適当に処理したとしても罰する者はもはやいない。仮に諸将らが朝鮮で佐助を恨みながら死んだとしても、死んでしまえば痛くも痒くもない。吉興がそのようにして、ただ我が身の身代のみの保身を図っていれば、ここにいる諸将らは一人も日本へはたどり着けなかっただろう。
佐助には頭を下げるだけだった。
だが、大坂より派遣されて来た奉行に対してはそうではない。
五奉行筆頭の浅野長政、次席の石田三成が、上座にある。豊臣家、この場合は大老らから派遣されて来た正使であるからだ。
「諸将らにはご苦労であった。亡き太閤殿下も諸将の働きには満足されておられるであろう。茶や歌舞音曲も用意させてある。しばらくはこの地でゆるりと休んだ後、秀頼君に拝謁に大坂に参上するがよろしかろう」
石田三成が能面のような顔で告げた。
「治部少輔は、いい身分であるのう。我らが泥水をすすっていた時に茶なぞとは」
「おうよおうよ」
「どの面下げて我らの前に顔を出したのか」
そう憎まれ口を叩いたのは、加藤清正、黒田長政、浅野幸長であった。場を壊すような三者の物言いに、
「これ、幸長、控えよ」
と浅野長政は嫡子に鋭く言った。
「控えませんな。こればかりは我慢なりませぬ。我らが敵地にあった時に、三成の讒言でどれほど苦しめられたか、ここで指折って数え上げてもよろしいのですぞ」
家が当主と嫡男、隠居と当主に分かれれば相争うのは世の常であったが、対外戦争の経験の有無は、浅野家においても深刻な父子相克として生じた。
三成は表情一つ変えず、そっぽを向いている。
宇喜多秀家はおろおろとし、島津義弘は目を閉じている。小西行長と立花宗茂が、抑えに回った。
「お控えなされよ。治部少輔は秀頼君が差し向けられた正使にござる」
「治部には治部の苦労があったであろう。恨み言はこれからようく話し合って、潰してゆけばよい。さように喧嘩腰に物を言うものではござらぬ」
しかしそれも火に油であった。
何を、と浅野幸長が立ち上がろうとした時、吉興は懐に忍ばせていた軍配を手に取り、それで床を叩き、大きな音を響かせた。
「さて、各々がた。それがしを見くびっていただいては困りまする。それがしを誰とお思いか。黒田官兵衛様と並んで、たったふたりだけ、豊家の軍配を預けられた豊臣の軍師にござる。亡き太閤殿下より、いかなる場面でも必要であれば軍監として諸将を処断し、軍権を奪取する天下御免の権を与えられておりまする。それとも何か。そのほうらは朝鮮での戦に疲れて、それがしが竹中半兵衛様の衣鉢を継ぐ者であることをお忘れか」
「豊前殿。我らは何も貴公を難じているのではありませぬ」
吉興の勢いに、防戦に回った黒田長政が、吉興を宥めようとした。
「ほう。甲斐殿は面白いことを言われる。この豊前にて、この小倉城にて、豊家の諸将が相争うのが、それがしの名折れにならぬとでも仰せか。そのほうらに申し渡しておく。この地にてはいかなる諍いも、ましてや刃傷など許しはせぬ。文句があるなら、いつでもかかって来なされ。佐助と戦うつもりがおありならば、いつでも相手つかまつる」
吉興は普段はわりあい腰が低い方であるが、豊家の軍権については実際、その通りであった。黒田官兵衛、隠居して如水は、隠居の際に軍配を返上したので、実際には、軍監としては、吉興は最高指揮権を持っている。そのほうら、と敢えて見下した言い方をするだけの十分な根拠があった。
毛利攻め以来、吉興が戦線に立つことは極めて稀である。
豊臣の天下平定の事業にあっても、朝鮮征伐にあっても、吉興に与えられた役目は後方支援であって、軍功は大きなものではなかった。
それもこれも、軍配を預けた吉興を、秀吉が警戒していたからであり、佐助の軍功の無さは、却って家の名誉である、とも言われている。
毛利攻めで、山陰方面では必ずしも十分な兵力では無かった中、羽柴は連戦連勝であったが、それがほぼすべて当時は少年であった佐助吉興の才によるものであることを、諸将はなかなか忘れてくれない。
吉興は、「舐められた方が戦はやりやすい」という考えなので、今の畏怖される状況は不本意なのだが、今回はその畏怖を利用した。
結局、宴もないまま、数日のうちに諸将らは兵を率いて、黒田長政と浅野幸長以外はいったんは領地に戻ることになった。
黒田長政は、領国の豊後に戻ることなく、兵を選んで、そのまま大坂に出向くようである。
浅野幸長は領国が甲州であるので、領地に戻るには嫌でもまずは大坂を通らなければならない。
吉興は、必要であれば船も用意して、諸将らを見送り、やれやれ、というところである。
「殿は大坂には赴かれなくともよろしいのでしょうか」
小倉が静かになった後、橘内長久は、吉興に問うた。
撤退処理に追われて、吉興こそ、大坂での諸々が後回しになっている。
太閤の死に目に会えなかったのはしょうがないが、早めに秀頼には拝謁しておくべきだった。
「これからどうなるのであろうの」
吉興はため息をつきつつ、冬の空を見上げた。
豊臣には不幸が続いている。
鶴松が死に、豊富秀次が関白職を継承した。
しかし秀頼が生まれて、猜疑心を募らせた秀吉は秀次とその妻子をことごとく処刑した。
豊臣には、今はただの一人も、柱となれる成人男子がいない。
このまま豊臣の世がつつがなく続いていくとも思えない。
「殿らしくもありませぬな。どうなるかではなく、どうするか、でございましょう。殿はいつでも、天任せではなくご自身で運を切り開いてこられました」
「そうであったな、また、長久には苦労を掛けるが。大坂に行く前にの、策をまとめておかねばならぬ。そのためには会っておかねばならぬお方があるゆえ。明日にでもそちらに出立するか」
「それはいささか後手に回られたようですな」
「む?」
「先ほど書状が着きました。栗山大膳殿からそれがし宛でございましたが。ほらこれでございまする。伊賀守殿、と。明日昼頃には小倉にご到着とか」
「やれやれ。思うことは同じか。あ頑固爺いとお揃いでは気鬱になるが」
黒田如水、あるいは黒田官兵衛。
すでに豊後を出て、吉興に会うために豊前に入ったとの報せであった。
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