第13話

 小田原北条氏には気の毒な面が多々ある。

 彼らの動きが鈍重であったのは事実であり、やや、二股膏薬な面があったのも事実だろう。徳川と上杉が間にあって、豊臣と直接接していたわけではないので、反応速度が遅かったというのも確かだ。

 しかし、積極的に豊臣と徳川を比較して漁夫の利を狙おうとしただとか、豊臣への礼儀がなっていなかったということも無かったのであって、そろそろ落ち着いて、北条氏政も上洛しようかという頃になって、いきなり北条討伐を叩きつけられたというのが彼らの実感に近い。


 理不尽である。


 しかし全国政権と言うものは「理不尽を押し通せる力がある者」を言うのであり、豊臣もどこかで理不尽を見せておく必要はあった。

 秀吉はこれまでのところ、わりあい物分かりがいい。

 柴田は攻め滅ぼしたが、生きて降伏していれば受け入れたであろうし、逆らったかつての敗者、前田利家も、佐々成正も、織田信雄も、長曾我部元親も、島津義弘も許している。滝川一益の命も奪ってはいない。

 物分かりがいいのは悪いことではないが、反面、舐められがちになる。

 全国統一と言う事業から言えば、北条は生きていても死んでいても構わない。しかし統一の覇者,その後の全国支配という事業から言えば、ここはどうしても生贄になってもらう必要があるのだった。


 なぜ室町将軍家執事の伊勢氏が、北条を名乗ったのか。おそらくは伊豆を支配し、その伊豆支配の中で北条なる地を収めたことが大きいのではないかと思われる。

 つまり鎌倉北条氏と小田原北条氏は、たまたま苗字の地を同じくした別の氏族であり、どちらが本物、どちらが偽物というわけでもない。

 しかしそれはある種の詭弁である。

 武相を統治するうえで、北条の名が正統性の根拠になったことは言うまでもないことであり、小田原北条がそれを狙っていなかったはずがない。

 歴とした鎌倉北条氏の末裔である佐助吉興から見て、小田原北条氏は不愉快極まりない存在であったし、これは、同じく鎌倉北条氏の末裔である平野長泰も共通して持っている感情である。

 平野氏は、鎌倉北条氏庶流の横井氏の流れで、その縁で、吉興は平野長泰と親しく交際していた。吉興の次女の東姫とうひめは、平野長泰の一子に嫁いでいる。


 横井氏の流れからは、幕末に横井小楠が出ている。小楠の一子、時雄は明治になってからキリスト者となり、新島襄の妻・八重の姪と結婚し、同志社を継いでいるのだが、その時には姓を伊勢に改めている。

 その意は何であったのか。

 伊勢は確かに平氏の拠点であり、清盛の流れはこの伊勢平氏ではあるが、北条氏は関東の平氏の流れであり、厳密に言えば伊勢平氏ではない。そこで敢えて伊勢を名乗った意は何であったのか。

 小田原北条氏が伊勢であったことと、何らかのつながりがあるのか。


 それはともかく、小田原北条氏と戦う機会があれば、佐助吉興も平野長泰も全力を尽くすつもりであったのだが、その機会は得られなかった。

 佐助は既に二十二万石の大大名であったが、その程度の兵力ならば豊臣政権としてはいてもいなくても同じであり、これ以上佐助に功績を立てさせると、他の者との釣り合いがとれなくなるからで、その点、平野長泰は大名ではないからここぞとばかりに奮戦すべきではあったのだが、逆に小身過ぎて、使いようがなく、北条攻めでは畿内残留を命じられていた。

 ただ、さすがに小田原城、秀吉は攻めあぐね、黒田官兵衛を呼び寄せた。

 吉興が呼ばれたのは、北条の降伏が間近に迫っていた頃で、奥州仕置きを見据えて、大名配置をどうするか、政権の構図を描くためである。

 蜂須賀小六は既に亡く、豊臣秀長は病床に伏していた。

 政権の日常運営は、三中老、五奉行らでつつがなくなされていたが、経営の最高判断となれば、そこはやはり両軍師に頼らざるを得ない。

 吉興は船で大坂まで行き、九鬼水軍や駿河灘の水軍らの護衛と案内を受けて、小田原に付けた。

 琵琶湖が近いとは言え、元々、内陸で育った吉興は、船に乗れば随分船酔いをしていたのだが、この頃には場数も踏んで、そうそう見苦しいことにはならないようになっていた。

 なお、吉興は自身の経験を踏まえて、前後左右にゆれる船型のシーソーのようなものを小倉城内に設置し、家臣はことごとく船酔いに慣れるよう、訓練を課していた。この時期、佐助は全国で最も船を活用した大名家である。

 水軍を抱えているわけではなく、あくまで交通・通信用であり、佐助は独自の足早船を十二隻所有していた。

 橘内長久には、村上水軍の頭領の娘を正室として迎えさせていて、家臣を定期的に村上水軍の元へ「研修」に送り込む関係も築いている。

 これに限らず、佐助が抱えた家臣やその縁戚には何らかの異能者が多く、しばしば彼らは被差別民として他国では扱われていた。佐助領内では、それら異能者には、平民身分が保証され、非人の制度を佐助は廃していた。

 それがまた、佐助では人材が集まる好循環をもたらしたのである。

 吉興が、苅田のあたりを見回っていた時、立ち寄った曹洞宗の寺で、墓を見て回ったことがあった。墓には来歴や生没年がかかれることが多く、それ自体が歴史の教材であり、治国の助けになるからである。

 墓の中に、畜生塚があり、聞けば非人の墓はそうしているということであり、仏道にもとるということで、吉興は直ちにその寺を廃し、浄土真宗に預けている。

 そう言うこともあって、吉興は禅嫌いの大名として知られることになった。鎌倉五山を開いた鎌倉北条氏の伝統には逆らう姿勢であったが、吉興は別に祖先だからと言って鎌倉北条氏を神聖視するのは毛頭ないのである。

 悪政に陥ったから滅びたのであって、悪政を悪政ではない、と言い募る気はまったく無い。

 吉興は、鎌倉北条氏の末裔である前に、竹中半兵衛の弟子なのである。


 さて、小田原に到着した吉興に、秀吉はさっそく、北条征伐後の構想を示せ、と迫った。


「官兵衛様はいかが仰せでございましょうか」


 その場には官兵衛はいない。


「官兵衛にも官兵衛の意があろうが、それとは別にそのほうの意を知りたい」

「さすれば」


 と吉興は、構想を述べた。


「関八州には徳川を置くがよろしかろうと思われます。徳川の旧領のうち、甲信には、織田信雄殿を移し、東海道は駿河から美濃まで、子飼いの者らを置くがよろしかろうと」

「それでは徳川が大きくなりすぎるのではないか」

「見かけの身代は確かに大きくなりましょうが、関八州は四公六民の地、実際には徳川には五十万石ほどの減収とあいなりましょう。関東は難治の地。徳川は関東に張り付かせて置くのが肝要かと」

「家康は受けるか」

「受けねば滅びるだけにございます。北条攻めの兵をそのまま駿河に向ければよろしいかと」

「織田はどうであろうか。濃尾から離れるとは思えぬが」

「まあ、間違いなく渋ると思われます。その時こそ、織田を取り潰す好機かと」

「織田を、潰す? 儂がか」


 秀吉は、吉興をじろりと睨んだ。


「生かしてあるだけご寛容なのです。そろそろ天下にも、信長公のことは忘れて貰う潮時かと」

「ごねれば、信雄をどうする」

「命までは奪いますまい。そこまですれば、殿下の評判に傷がつきましょう。今川の氏真殿のようになっていただければ十分。知恵を働かせて、甲信に移るならばそれでもよし。畿内から遠ざけられましょう。まして甲信の土豪はなおも武田を慕う者が多く、織田は苦労することでしょう」


 信雄が移動を拒否すれば濃尾に伊勢を加えて丸儲けである。


「家康はそこまで馬鹿ではあるまいな」

「おそらく。そのまま関東に移るでしょう」

「家康の抑えはいかがする」

「常陸には佐竹がおりまする。甲信までを豊臣子飼いで抑えられれば関東からは出てくることは叶いますまい。念のため、蒲生氏郷殿あたりを会津に置けばよろしかろうと」

「蒲生か。まあ、氏郷もよかろうが。官兵衛は蒲生の名は上げなんだが、そこまでは官兵衛の見立てと同じよの」

「さようでございますか」

「奥州は、どうじゃ」

「さて。血縁が深く絡まり、あちらを立てればこちらが立たず、伊達はともかく、いっそのこと現状すべて安堵とするのも一策かと」


 奥州では急速に膨張していた伊達を除けば、現状追認でもそう大きな問題はない。


「大崎、葛西が、拝礼に遅参してな」

「まあ、雪深い処故やむを得ぬかと」

「官兵衛がな、大崎葛西を潰して、三十万石ひねりだし、そこをな、ある者に委ねてはどうかと申しておる」

「まさかそれがしではありますまいな」

「はは、そなたでも慌てることがあるようじゃの。奥州は嫌か。更に伊達を削り、二十万石、計五十万石くれてやってもいいがの」

「お戯れを。豊前をいかがなされますか」

「分かっておる。あそこはそなた以外には預けられぬ。それこそ官兵衛にもな。戯言じゃ。して、誰を置くべきと官兵衛は申したと思うか」


 奥州は古い。それこそ鎌倉御家人がそのまま残っているような地方である。しがらみとしがらみが複雑に絡まり、ひとつを成敗すればそれがどのように波及してゆくか見当もつかない。

 誰かを置く必要があるとしても、なまなまな手腕では「進駐軍」には治められない。


 細川幽斎、小早川隆景、島津義弘、立花宗茂らの名を吉興は挙げ、秀吉はいちいち「それは違うの」と言った。吉興が誰を高く評価しているのかが知れて、秀吉は楽し気であった。


「木村吉清じゃ」


 ついに、秀吉はその名を明かした。


「まさか」


 と言いつつも、すぐに官兵衛の意図が分かり、吉興は嘆息した。


「官兵衛様もえげつないことをなされる」

「じゃが、適任であろうが」


 木村吉清は元は荒木の家臣であり、明智の家臣となった。

 明智が滅びた後、その几帳面さを惜しんで、秀吉が傘下に加えていた。確か今の身代は一万石。三十万石ならば大出世である。

 治めきれれば、であるが。

 几帳面で律儀ということを除けば、取り立てて長所はない男である。奥州仕置きにも四角四面であたるだろう。魑魅魍魎の棲む奥州には一番向かない型である。


 有岡城に幽閉された頃、官兵衛は荒木の重臣であった木村吉清を見知っていたはずである。その時に何か遺恨でもあったのであろうか。


「殿下、家臣を使い潰すはよろしくないかと」

「家臣ではない」


 と秀吉は言い切った。


「長浜子飼いらとは違う。儂はこういう時のためにあの者を飼っていただけよ。謀反人の荒木、明智に仕え、しかも結局は、主君を二度までも裏切っている。信用ならぬ」


 木村吉清の性格と器量からすれば、必ずや大一揆を招くであろう。このようにやれと上から言われれば、土地土地の先例を尊重せずに上だけを見てやりかねない男なのだから。

 しかしそこで一揆を誘発させれば、大掃除が出来る。


「せめて、蒲生殿の与力となされては」


 木村吉清はおそらく詰め腹をとらされることになるだろうが、死を免れたとしても、今ある一万石ですら失うことになるのは必定、路頭に迷うことになる。

 蒲生の与力にしておけば、氏郷が憐れんで、養うであろう。


 伴天連追放令を主導したことから、吉興と切支丹大名との関係は悪い。蒲生とは、見星院を通しての織田氏縁者としてのつながりはあるのだが、氏郷との関係も悪化している。それでもなお、蒲生氏郷という武将の人品を高く評価している吉興であった。


「まあ、その程度のことであれば、それでよいがの」


 秀吉はしぶしぶそう言った。

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