第12話

 国民国家とは、国民であることを最大のアイデンティティとするという思想であるが、秀吉はこの意識を持っていた人である。

 同時代から言っても、かなり稀と言えるだろう。

 九州の大名たちは、硝石のために捕虜となった兵や占領した地の領民を奴隷としてスペインに売ることを躊躇わなかった。

 彼らが特別、非人道的であったわけではなく、それが古今東西、支配者の発想の常であったのである。階級が違えばそもそも「人」ではない。

 キリスト教がそれに加担していたがどうか、カトリックも案外一枚岩ではない。人道的な観点からの批判もあれば、布教が困難になるという損得からの批判もあったが、一部であっても加担が見られたのも事実である。

 いずれにせよ、キリスト教の浸透が、日本と言う国家の根幹を揺さぶりかねないことは明らかであり、切支丹が外国勢力と通じる可能性は無視しがたいものであった。

 九州征伐の事後処理の中で、外国への人身売買が明らかになるにつれ、秀吉は強い危機感を持った。

 この時期にもし公儀というものが成立していなければ、日本は切支丹を介して、各個撃破されていた可能性はある。そう言う意味では、豊臣政権の成立は、ぎりぎりで日本を救出したとも言えるだろう。

 吉興はこの危機感を秀吉と共有し、あるいはさらに強く持っていた。


 禁令と言っても一筋縄ではいかない。

 そもそも、キリスト教は秀吉の周辺にも及んでいる。

 豊前を得た吉興は、領内の切支丹追放令を出した。毒には毒を、ということで、同じく、民衆からの求心力が高い一向宗を積極的に勧誘している。

 吉興自身、浄土真宗に改宗しているが、大名での門徒はごく少ない。

 ただし、豊前国内での浄土真宗僧侶の人事権を佐助家が握ることになった。本願寺としては、それでも禁令にされるよりはいいので、佐助の宗教政策に全面的に協力している。

 吉興が癒着したのは後の西本願寺の方であるが、吉興の娘、永姫が西本願寺大谷家に嫁ぐなど、人的関係でも結束を強めている。


 家臣団の編成については、佐助には特殊な採用方針があり、英雄豪傑を雇用しない。佐助の軍勢は徹底した集団運用を前提にした編成になっていて、我の強い英雄豪傑などは却って邪魔だからである。腕力よりは、作戦を理解できる頭脳、計数の才が求められた。

 吉興は独自の試算をしていて、家臣の人数はおおよそ、一万石あたり二百五十名が適当との解を得ていて、それに沿って、五万石の大名であった時には、家臣の人数は千二百五十人であった。それを五千五百人にまで拡充する必要があった。

 長浜以来と呼ばれる、佐助累代の家臣は百分の一にも満たない。

 丹波では丹波の者を、山城では山城の者を雇用していたが、大きな割合を占めていたのが、元は僧侶、あるいは商人だった者で、武家としては彼ら自身を初代とする者たちであった。二千人余りがそうした者たちである。

 内訳としては、新規武士が二千人、譜代が五十五人、丹波衆が四百人、山城衆が四百人、近江衆が四百人、豊前衆が二千人、他国衆が二百五十人であった。豊前衆は人数は多いが、首脳には加えられていない。


 石田三成に島左近があるように、上杉景勝に直江兼続があるように、佐助にも高名な家臣がいるかと言えばいない。年季から言えば橘内長久が、筆頭家老であったが、元は近江の小規模な土豪であった頃からの番頭であり、二十二万石をやすやすと操るような才覚は無い。

 まんべんなく家臣の能力を底上げする一方で、経営判断自体は吉興が集中して行う体制を築いたのである。

 代々の生息地であった近江から抜かれた家であり、家臣もほぼすべて新参に近かったから、先例も慣習も何もない。吉興がすべての先例を作ってゆくのである。

 年貢はかなり下げた。四公六民であるから、税率が低いことでは定評のある関東並である。

 税が低ければ文句は無かろう、ということで、かなりのやりたい放題をすることが可能になった。

 代わりに若松港、戸畑港、門司港を整備し、倉庫業を佐助家直営の事業として、かなりの上りを上げている。日本海航路の船、瀬戸内航路の船、ここに倉庫を得られれば、移動距離が削減でき、かなりの経費節減になるのである。

 博多の商人らも誘致し、特に大賀宗九は小倉商人の顔役になった。

 佐助領では、毎月、計数役人が商人の帳簿を調べ、粗利益の四割を税として徴収した。頻繁に船の動きと合わせて、調べられるため、不正はかなり困難であり、正確に金の流れを佐助家は把握していた。

 四割の税は決して軽くはないがあくまで粗利に対してであり、資産に対してかけられるわけではない。他に合力金を求められるわけでもなく、事業は不調の場合は免税されるので、商人としても悪くはない制度である。

 重要なのは船奉行と呼ばれる商業審判の制度を確立したことで、佐助がありとあらゆる理不尽から守ってくれるということで、堺からも多数の商人が本拠地を小倉に移したのだった。

 更には町人地の整備をすすめ、神楽、芝居、女郎屋、見世物小屋、ありとあらゆる娯楽施設も整備したので、金を地元に落とす、その流れが出来た。


 吉興が建立した寺社仏閣は、小倉稲荷神社、門司弁天社、東明寺が主なものである。

 小倉稲荷神社は、鎌倉の佐助稲荷を勧請したもので、佐助の氏神とした。門司弁天は江の島弁天を勧請したものであり、こちらは鎌倉北条氏としての氏神である。東明寺は、浄土真宗の寺であり、佐助が直轄する菩提寺である。

 英俊神社という小さな神社は小倉城内にあり、これは旧主・浅井万福丸が祀られている。浅井氏との縁は、北政所との関係では微妙なものになりかねないので、隠すように祀る必要があったのである。

 海峡内の島、巌流島については所有について、毛利と多少揉めたのであるが、神域とし、頼朝を祀る白旗神社、平氏鎮魂のための安徳神社を共同で建立することで決着している。


 毛利は室町幕府の体制の中では、安芸国人に過ぎず、権威にやや弱点があったのだが、元は大江広元の直系であり、鎌倉幕府の権威を打ち出すことで、諸大名の中でも抜きんでた貴種性を主張することが出来る。

 そう言う目論見もあって鎌倉北条氏の末裔である佐助とは良好な関係を築こうとした。佐助としても異論はない。

 友好を維持しながら、関門海峡の主導権を下関から奪い取るだけである。

 言うまでもないことであるが、この時期の毛利はまだ長州ではない。奥まった吉田郡山城からようやく広島平野に出張って来てはいたが、毛利の根幹の意識は、安芸から抜け出てはいない。

 関門海峡を抑えることの意味が、まだ一家上げて意識されているとは言い難かった。


 対して佐助は、完全に吉興の独裁制である。

 正寿に引き渡す頃までには、集団指導体制への移行にめどをつけるべきであったが、今は吉興さえ理解すれば佐助は最適解にむけて最合理の行動をとる。


 ともあれ、吉興は日々をそのようにして潰していた。

 専属の足早船を作り、最短三日で大坂まで行けるようにし、たまには京大坂にも顔を出してはいたが、ほぼ豊前に張り付いていた。

 その間、秀吉はついに北条攻めの兵を上げ、小田原城を囲むに至っていた。

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