第11話
乱世の梟雄と言えば、北条早雲であるが、彼の代で北条を名乗ったことはない、長らく伊勢宗瑞と名乗っていたことは今は判明している。
古くは素浪人であったとも言われていたが、素浪人の妹が、名門今川氏の御前様に収まるはずがないのである。
伊勢氏は足利将軍家の官僚であり、礼典を取り仕切った。礼典を取り仕切る者は立場が強い。例に適わなければ、将軍に挨拶一つ出来ないからである。
大大名たちからすれば、吹けば飛ぶような小身代にもかかわらず、礼典を握り、差配している伊勢氏は、「君側の奸」そのものなのであるが、その「君側の奸」の家系から、戦国大名そのものとも言える小田原北条氏が生じたのも面白いと言えば面白い。
裏切りと謀略を駆使して成り上がったこの家を、律儀というのもおかしなものではあるのだが、少なくともくっきりとした盟約を結んだ場合、北条から手切れにした例はほとんどない。北条は常に外交にあっては受け身であった、とも言えるだろう。
それが結果的に、利をもたらすこともあった。
上杉景虎が廃されたことから、上杉と手切れとなり、武田勝頼が上杉景勝と結んだことから、武田と手切れとなり、結果的に織田につくことが可能になった。その流れから言えば、元々、織田に攻め込まれていた上杉が、豊臣に臣従するよりは、豊臣につきやすかった、とも言えるのだが、北条は別に豊臣に敵対していたわけではない。
いわば小田原評定さながら、様子見をしていたのであったが、秀吉の側からすれば、家康を降した以上、対徳川包囲網では積極的に動かなかった北条を、生かしておく理由はなかった。
秀吉が北条攻めを布告したのは、北条氏政と北条氏直が重い腰を上げてようやく上洛を決意した頃であった。
天正十七年、茶々が鶴松を産んだ。
これですべてが変わった。秀吉の方針が、調略から武力征伐に切り替わったのである。苦労をしたくないから調略方針であったのだが、実子が生まれたからには、秀吉は苦労をいとわなくなったのである。
家康も、鶴松が生まれた後であれば臣従は許されなかったかも知れない。
織田信包と言う人がいる。
信長の同母弟で、清州城を預けられていた。信長に似ず、温厚な人で、母の土田御前はおおむねこの末の息子と同居した。浅井が滅びた時に、お市と姫たちは輿に乗せられて近江から美濃、美濃から尾張清洲へと送られた。
輿が清州城に近づいてくれば、土田御前は待ちきれず、門まで走り寄って、輿から出て来たお市と抱き合って泣いた。そういう場面にいた人である。
茶々が秀吉の側室となってからは名目上は後見にたち、精いっぱい務めていたが、京大坂に常駐しているわけでもなく、小禄であるため到らないことも多い。
その至らない部分を補うために、茶々は佐助吉興を頼った。
それを横目で見ていた北政所であるが、鶴松が生まれるに至って、動いた。
北政所は頭がいい女である。しかし、決して、温厚でも無ければ人当たりがいつもいつもいいわけではない。おねの母は旭殿と言うがこの人は生涯、秀吉を婿とは認めなかった。関白になってでも、である。その頑固な女の娘なのである。扱いやすい女であるはずがない。
わりあい好悪の感情が強い女で、身内であっても、例えば甥の小早川秀秋には冷淡だった。あんまり態度が冷たかったから、秀吉から注意を受けているほどである。
福島正成や加藤清正らは、尾張美濃以来のおねの子飼いであるかのように言う説もあるが、彼らは大政所の縁者として登用されたのである。姑の縁者を子飼いにする嫁はいない。
北政所にとって真に子飼いと言えるのは、長浜城主夫人時代に手塩にかけた小姓たちであり、石田三成、片桐且元、大谷吉継、そして佐助吉興もそうであった。佐助吉興が、茶々に援助をしているのは知っていたが、吉興が浅井の旧臣であるのは事実であるので、やむを得ないしがらみとして容認していた。
しかし鶴松が生まれたならば話は別である。
豊臣秀吉の後宮では正室側室の区別は必ずしも厳密ではなく、すべてが正室である、と見なすこともできる。第一夫人、第二夫人と見るべきかも知れない。むろん、おねの立場は圧倒的ではあったのだが、茶々は第二夫人の立場を確立したとも言えた。
そうなれば、敵に塩を送るつもりはない北政所である。
「そろそろ長浜の子飼いの者らも、相応の大名の立場にとりたてては。鶴松を支えるはかの者たちであれば」
と秀吉に進言した。秀吉も似たようなことは考えていた。そうなれば、功績一等の吉興を無視するわけにはいかない。
「豊前殿は、何をしても十人分の働きはする人、京洛に置いて、使いたいというあなたさまのお考えもごもっともではありますが、かの者がいれば他の者が働く機がありませぬ。それは豊前に比べれば見劣りはしましょうが、使わねばいつまでも育ちませんよ。ちょうど良い機会なので、九州辺りで領国を営ませてはいかがかと。かの者を以てすれば難治の地も収められましょう」
「そうであるか。では、どこがよいかの。官兵衛には豊後に移ってもらうか」
かくして、佐助吉興は豊前小倉二十二万石の大名となり、黒田官兵衛は隣に移って、豊後府内二十五万石の大名となった。
隣り合う大名同士は仲が悪くなる。両兵衛を隣り合わせたのは、つまりはそういう意図である。佐助と黒田は、豊臣の右脳と左脳、いがみ合って貰わなければ、秀吉は安堵できない。
また、大坂が発展するにつれて、北回りの航路を抑える関門海峡の重要さはいや増している。下関は毛利が抑えているが、いくら毛利が親豊臣と言っても、秀吉はこの喉笛を外様に牛耳らせるつもりはないのである。
洞海湾を開発させれば、豊臣の子飼いが流通を握ることが出来る。
更に言えば将来の明国征伐を考慮すれば、兵站にも才がある吉興をかの地に置くことは非常に理に適っているように見えた。
北政所にすれば、物理的に引きはがすことで、佐助吉興を再び自らの閥に組み込むことに成功したわけである。
豊前に移ってからは、吉興もさすがに忙殺された。
小倉城の築城、湊の整備、新しい家臣の拡充。
徹底したのは、切支丹禁令である。既に伴天連追放令は出されていた。と言うか、吉興が主導してそうしたのである。これもまた、切支丹である黒田官兵衛との関係が悪化する原因になった。
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