第10話

 家康は、わりあい残虐なことが嫌いな人である。好き好んで残虐な刑を科した例は家康の生涯においては見られない。これは後世において改竄されたわけではなく、そもそもが、小姓を百人斬ったというのが謙信の自慢であったように、武の理に沿った残虐であれば、むしろ栄誉となった時代である。

 家康の残虐嫌いは、単純に性格である。

 三河と言うところは東海では、阿弥陀信仰が強い処で、浄土真宗に帰依する者も多かったし、そもそも松平の家祖は流れの時宗僧とも言う。徳川の家の宗派も浄土宗であった。

 つまり、教団宗派としてはともかく、思想としては、法然、親鸞の法統が三河には根付いていたと見てよい。

 禅は、いわば一個解脱を目指す行為であるから、小乗的とも言えるし、エリート主義でもある。

 対して念仏教は、他力本願で、阿弥陀如来の絶対の救いの前には、所詮、衆人などは横並びである。共和国的な意識が、少なくとも萌芽としてはあったと言える。他国では考えられないような、何度も滅亡のふちに瀕した松平氏に三河武士が忠義を尽くす自己犠牲が見られたのも、主従の間に同朋意識があったからである。

 徳川という家に土着的に見られる、残虐嫌いも、元をたどれば、悪女の深情けのような、三河武士の共和意識に根差している。


 家康が遠州を攻略していた際に、たまたま落とした城から、釜茹で用の巨釜が見つかったことがある。家康はそれを刑罰を科す際に用いようとしたわけではないが、基本、物惜しみする人だから、例えば炊き出しの時にでも使えるのではないかと思って、兵に命じて浜松城へと運ばせていた。

 兵らが運んでいる時に、本多重次がそれを見咎めて、問答無用とばかりに叩き割った。


「徳川にはかような、人を煮殺すための悪逆な道具は必要ない。他家はいざ知らず、徳川は正道を以て立つのだ。かような道具を抱えて、世人を恐れさせること自体が悪である」


 これはもう一個の思想である。

 徳川には数々の弱点があり、三河武士には数多い欠点があったが、結局はこの思想が、徳川家康をして天下人に押し上げたのである。

 それが正義なるものの力である。


 家康は本多重次を処分できなかった。しなかったのではなく、出来なかったのである。すれば三河武士が一斉に離反したであろう。

 三河武士は正義の奴隷である。

 家康に対しても、奴隷であることを要求した。

 奴隷のくびきを抜け出そうとした信康を、死に追いやって悔いることはまったく無かった。


 その本多重次が、秀吉の母、大政所に対してはとんでもない振舞いをした。それもまた、正義から出た行為である。但し、他国人であるため、酔いを共有していない井伊直政から見れば「度し難い愚昧さ」である。

 家康もまた、駿河の人であるため、酔いを共有していない。


 大政所の一行を迎えるために、京、聚楽第に派遣されたのは井伊直政であった。この時期、井伊は遣い倒しに使われている。家康直属のラインにある者としては、この時期は井伊くらいしか駒が無かった。依田信蕃や保科正直ら、武田旧臣を厚く用いるにはまだ早い。板倉勝重は三河武士ではあるが、三十路半ばまでは僧侶であったため、思考に酔いが一切含まれない人物である。ただしいずれ重用するにしても、まだ年数が満たない。

 井伊は若年だが、小姓の時から仕えていただけに、年数が足りないということもなく、戦場でも勇猛果敢であり、それ以上に、甲州信州調略で絶大な手柄を上げていた。

 家中には妬む者も多いが、批判のすべてを力技でなぎ倒してきた青年である。

 直政は無論、大政所行啓が徳川の命運を握ることを承知している。

 やろうと思えばどこまででも徹底的に気配りの出来る男である。

 また、態度も鮮やかで、風貌も優れていた。


 用は、旅の間中、涼やかな青年に、まるで女御相手のようにかしづかれて、大政所はいっぺんに、井伊直政を気に入ってしまった。

 ありとあらゆる任で井伊の働きが傑出していたのは事実であるが、後に井伊が徳川家中で第一とも言えるほどの大封を得ることになったのは、秀吉が人事に介入したからで、それは大政所が秀吉をせっついたからであった。

 なお、吉興はその介入については反対をしている。

 秀吉は、若年の直政を引き上げれば徳川家中で妬心を引き起こして、徳川の弱体化につながるからいいだろう、と言ったのであるが、吉興は井伊直政と言う人を知っていたから、そんなことで増長するような簡単な男ではない、むしろ他人よりも苦役を積極的に引き受けて、家中の収まりを図るだろう、麒麟に翼を与えてしまうことになると警告したのだが、結局は秀吉はおのれの意を通している。


 大政所は、朝日姫のところに遣わされると聞いて、素直に喜んだ。道中、久しぶりに尾張中村に寄れるのも楽しみである。秀吉が長浜城主となって以来、否応なく郷里を離れた大政所であるが、尾張の平坦な景色を懐かしく思わない日は無い。

 佐助吉興はそもそもの企画者であることを思えば、大政所に随行すべきであったのかも知れないが、今回は京聚楽第での家康饗応役を命じられていた。


「おっかさん!」

「朝日!」


 老嬢と老婆は、岡崎城で再会し、泣きながら抱き合った。

 家康はその時、国境に在った。確かに大政所であると確認して、ようやく、家康一行は三河を発ったのである。


 井伊直政は、大政所が落ち着いたのを見届けると、京洛において家康を補佐するために、とんぼ帰りで京に向かった。それが家康の命であったからだが、家康も直政もこれを悔やむことになる。

 信康の代から岡崎奉行であった本多重次が、家康が戻ってくるまで、朝日と大政所を城内に監禁し、しかもいつでも燃やせるように薪で囲んだからである。これにはさすがに本多忠勝も仰天し、重次をいさめたが、権限上も岡崎でのことは重次に委ねられている。榊原康政、酒井忠次、大久保忠世らも家康に同道していて、本多忠勝に加勢できる者は不在だった。


 後に、秀吉は、大政所から本多重次の仕打ちを聞いて激怒した。重次を処刑しなかったのは、家康からの泣きが入って、朝日が間に入ってとりなしたからであるが、徳川の背骨を成す男でありながら、本多重次が冷遇されていくのはこの時の失策のせいである。


 それはともかく、ついに家康は、秀吉に臣従した。

 この時の聚楽第には、上杉、毛利、小早川、前田、筒井、長曾我部、等々の大大名が臨席していて、織田信雄も、秀吉麾下の一大名として家康に臨んでいる。


「おそれながら、殿下の陣羽織を賜りたい」

「む、余が陣羽織をか」


 秀吉の陣羽織は豪華絢爛なものではあるが、無論、秀吉の身代からすればその費用などたかが知れている。羽織としては別に呉れてやってもいいのだが、陣羽織は象徴的なものであり、おいそれと下賜するようなものではない。


「宰相殿、無礼でござろう」


 そう声をかけたのは、秀吉の脇に控えていた石田三成であった。反対の脇に控えていたのは佐助吉興であったが、家康の言動が突飛であるとしても、それを正面から受けた三成の態度に苦笑した。

 ここはとにもかくにも和平の場なのである。場を固くしてどうしようというのか。


「なんの、陣羽織を殿下に着せようとするそなたらが不敬であろう」


 だが、家康はあくまで柔らかくそう言った。

 諸大名はかたずをのんでいる。


「この家康がまかりつかまったからには、二度と関白殿下に兵馬の労をとらせませぬ。日の本の端の端まで、なんとなれば唐天竺までをも、殿下の臣として、この家康、駆けずり回る所存にござる」

「よくぞもうした、弟よ。今後の働き、期待しておるぞ。陣羽織をとらせよう。豊前」

「はっ」


 吉興は、小姓から陣羽織を受け取ると、それを家康の羽織らせた。

 諸大名には、家康が臣従したことが鮮やかに印象付けられたのであり、同時に、陣羽織を得ることで家康はまんまと諸大名中の第一人者に収まったのであった。

 秀吉としても大満足、家康としても最善の結果を得られたのであった。

 更には「徳川嫡子」として長丸を豊臣に預けることも申し入れ、その場で了承された。長丸は秀吉から偏諱を貰い、秀忠と名乗ることになった。

 本多正信から事前に吉興には、


「振るとなれば尻尾は徹底的に振りまする。ちぎれんばかりの尾を関白殿下には御覧いただきましょうぞ」


 と申し出があったが、これがそうであるか、と思った。

 将来的にはともかく、この時期はまだ、秀吉は人質を諸大名からとることはしていない。秀吉が言い出しにくいことを、家康が率先して行ったわけで、これ以降、諸大名の室、嫡子は京大坂に集められることになる。徳川がやったことを、他家がやらないわけにはいかないからである。

 これは、これまでの遅参を補って余りある功績であった。

 難しい対徳川外交を担ってきた吉興にとっても面目を施した結果となった。


 七日が過ぎ、ようやく落ち着いた頃、家康は僅かな配下とともに宿舎としていた相国寺より佐助屋敷に移って来た。秀忠や他の家臣は相国寺に置いてある。京一条には早速、徳川屋敷の土地を拝領し、酒井忠次らはその普請の手配をしている。大坂へも同じく普請を行うため、榊原康政が派遣されていた。


「おお、正寿殿か。なんとまあ、赤子でありながら凛々しいお顔よ」


 吉興、コウ姫、見星院、それに秀吉の猶子となって羽柴秀康を名乗っていたかつての於義丸が居並ぶ中、家康は初の曾孫を抱いて、相好を崩していた。

 にこにこと笑っていたかと思えば、ふと顔をゆがませて、ぼろぼろと涙を流し始めた。

 突然のことで、声をかけるのもままならないまま、コウ姫は、どうしたものかと吉興の衣服の袖を引っ張ったが、吉興は妻を一瞬見て、「黙っておれ」と小さく言った。

 数分どころか、十分も過ぎた頃であろうか、家康はようやく、正寿を見る顔を上げて、見星院に、


「五徳殿、この子は信康に生き写しであるの」


 と言った。

 赤子と言うものは不思議なもので、一族のすべての者に似ている。見星院も受け流せばいいものを、なまじ理が勝った女であるため、


「そうでございましょうか、私は亡き父、信長公に生き写しであると思っておりましたが」


 と答えた。ちなみに、吉興は、正寿は亡き弟に生き写しだと思っていて、コウ姫は、男児ながら、末の妹に似ていると思っていた。

 見星院の答えを受けて、家康もむきになって、


「いいや、この子は今川の血筋であろう。瀬名にも似ておるし、かの今川義元公にも似ておる。義元公は御最期があのようであったから悪しざまに言われがちではあるが、まごうことなき英君よ。信康が赤子の時もこのような顔であった。のう、秀康、そなたは兄の顔を覚えておろう」


 と言った。それにこたえて、秀康は、


「正寿の顔がどうであれ、兄君は私の恩人なれば、御恩は正寿に返すつもりでございます」

 

 と涼やかに答えた。信康に恩義を感じている秀康からすれば、家康も見星院も、信康を死へと追いやった輩である。内心は憎悪していたが、それを隠す程度には、知恵を働かさなければならない境遇である。

 正寿のことは、家康などよりはよほど自分の方が気にかけていると思っている秀康である。


「是非そのようにしてくだされよ。この子は信康の生まれ変わりじゃ」


 と頬ずりをする家康であった。

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