第9話

 西郷と言う姓は、西の村という意味であるから、日本全国どこででも発生する可能性があるが、幕末の薩摩の西郷隆盛と会津の西郷頼母は、どちらも菊池氏系の西郷氏であり、広く言えば同族である。

 会津西郷氏は三河西郷氏の分かれで、三河西郷氏は南朝皇胤に従って三河に入ったのかも知れない。

 この時期までに出生している家康の息子たちのうち、三河武士から圧倒的な支持を集めているのが三男の長丸である。母親が、三河の国人、すなわち三河武士のギルドから生じた貴公子だからである。

 長男・信康は今川閥の出であり、次男・於義丸の母はそもそも武家の出ではない。

 於義丸の母、長勝院は、三河国の神社の社人の娘だが、形式上のことであり、実際には流れ人であったのは、田舎であれば誰もが承知している。駿河で、家康の祖母に仕えていたことから、今川閥に連なる者とみなされていた。

 於義丸を孕んだ時には、その時に仕えていた築山殿から折檻を受けたとも言うので、今川閥に加えられるのも迷惑ではあっただろうが、少なくとも三河閥とは見なされていない。築山殿の下から助けてくれた本多重次にしても、人の道理としてそうしたまでのことであって、家康から、於義丸の与力に加えられるのは断っている。

 三河武士の忠義というものは異常である。松平氏は何度となく窮地に陥り、半ば滅亡の瀬戸際まで行ったが、そのたびに三河武士は主家を支えてきた。それは事実である。事実であるが、それだけに自負がある。

 表面的には愛情深い母親のように、子を支配しようとする。この場合の子、とは家康のことである。あるべき主従。その形に収まらなければ、主家のためと心から信じて、三河武士は主人を廃するだろう。

 家康には、既に家康当人よりも三河武士的には主家にふさわしい長丸という世継ぎがいるのだ。

 家康は三河武士を恐れている。

 彼らに対して気を抜いたことなど一度もない。

 井伊直政ら、新しい家臣たちだけが救いである。


 その者は三河人であった。しかし、新しい家臣でもある。既に主家に弓引いて一度は故郷を出奔した経験のあるその者は、本質的には亡命者であった。


「というわけででしてな、概ね、本願寺に籠っておったのですが、大坂にあった本願寺が落城してよりは、中国、北陸、あちらこちらを渡り歩いておりました」


 面白い男であった。家康の密使というその男は、吉興と対面するなり、ぺらぺらとこれまでの来し方を語り始めた。既に、二時間が経過している。


「本多殿、よう分かりました」


 たまらず、切りのいいところで、吉興は話を遮った。


「分かっていただけましたか」

「つまりは、本多殿は本多にあらず、ということで」

「いかにも」


 こずるそうな顔であったが、にやりと笑えばそれなりの愛嬌があった。

 本多と言えば三河の大族である。この者、本多正信が家康に仕えて、何ら不思議なことはないのであるが、そういう理由で自分は家康に仕えているのではない、と主張したいのである。


「我が主、家康公は、わざわざそれがしが選んだのでござる」

「そこもとが選んだと」

「いかにも。殿がそれがしを選んだのではござらん。それがしが殿を選んだのでござる。天下人になるお方故」

「なんと」

「関白殿下にお仕えする豊前様には、気に召さぬ申しようでありましょうが」

「秀吉公を選ばなかったと」

「いかにも。あのお方の危うさは気づいておられるのでは。天下をひとつにするお力はおありでも」


 茶菓子の羊羹を一切れ、正信は口に放った。茶菓子が切れてはいちいち小姓が追加を持ってきたものを、世話しないからと、正信はいっぺんに持ってくるようにいい、正信の前には十人分の小皿が並んでいる。そのうちの半分までを、すでに羊羹を食べてしまっていた。


「天下をつなげていくご器量はござらん」

「聞き捨てなりませんな」

「豊前様はあれでございましょう、浅井が滅んでたまたま羽柴に拾われただけでございましょう。こちらはたまたま主人を選んだわけではございませぬ」

「確かにたまたま、ではあるが。妻に出会ったのもたまたま、人の縁を軽んじるならばそれはもう人ではありますまい」

「いかにも、それでございまする」

「はあ」

「それがしは、くだん、の如き者。ある意味、人ではござらん。その人では無きそれがしが選んだ家康公、少々窮地にありましてな」

「三河武士が離さぬか」

「いかにも」


 それについては、正信はくどくどとは説明しない。

 吉興であれば、事情が分かっているからである。


「逆に、上洛を勧める者はおありか」

「それがしの他には、井伊殿、まあ、新参の中にはちらほらと。しかしながらいかんせん、重量が足りませぬ」

「榊原殿あたりでも駄目か」

「多少は目の明るい御仁ではありましょうが。いかんせん井伊殿を毛嫌いなさっておいでで。不詳、この正信も同様の扱いにて、聞く耳をもっていただけませぬ」

「本多忠勝殿は」

「あれはいけませんな。ただの武辺にござります。それがしが帰参するにも、大久保殿を頼ったくらいで」

「大久保忠世殿か。貴殿も人が悪い」


 大久保忠世は人柄で言えばわりあい人がいい。大久保党という大武力集団の頭領でもある。だが、典型的な三河武士である。いずれ本多正信とは相いれないことになるだろう。

 正信はそこまで分かっているはずである。分かっていて、一時的な利益のために、大久保党を利用した。


「なかなか、徳川の内情にはお詳しく」

「それがしも、信康殿の婿でありますからな」

「それで? このままであれば遠からず、徳川は滅亡することになるが」

「それは鯖を読み過ぎでございましょう。五年、いや十年は、さすがにこらえられましょう」

「もって三年。豊臣を舐めないでいただこう」

「豊前様が必ずやそうなされると。恐ろしい話ですが、さて三年として、必ずしもその時まで関白殿下がご健在とは限りますまい」

「すでに豊臣は譲歩をした」

「そこをなにとぞもうひとつ。豊臣は強者、徳川は弱者にございます。強者が弱者に情けをほどこすは決して武門の名折れではござりますまい」

「何をせよと」

「大政所様に、駿河御前様への見舞いにお越しいただきたい。その間に、我が主君は上洛を致します」

「それは家康殿の策か」

「いかにも。酒井や水野らを抑えて、なんとかひねりだした策でございます。いかがでございましょうか」

「…」

「ご返答を」

「第一にさすがに駿河は遠すぎる。岡崎まで御前様をお連れすること」

「然り」

「第二に大政所様ご自身には事情を知らせぬ。ただ娘に会いに行くだけよ。余計なことは、せぬように」

「然り」

「なれば、殿下に諮ってみようぞ」

「ありがたきことで」

「さりながら。それがしはひとつ条件を加えてもよかろうと思っている。家康公の軍師、そなたは豊臣には厄介な御仁よの」

「なんの、徳川にとりましては豊前様の方がよほど厄介にて」

「引き離すべきか、さて」


 吉興は本多正信を睨んだが、正信は平然と視線を受け流した。


「軍師とは天下の軍師にござります」

「…うむ」

「竹中半兵衛様であればさように仰せであったのでは。天機を読むは誰にでも出来るものではございませぬ。この才は、わたくしするものではなく、いわば我らは天下の道具。それがしも然り、豊前様も然り。それがしを徳川から引きはがすが、天道にかなうと思われるのであればそうなされるがよろしかろう。さすれば、家康公ほどのお方の傍にいるは酒井や大久保、水野らだけということになりましょうが。今後、話をつける際に、それがしがおらぬで、構わぬと思われるのであれば、そうなさいませ」

「なかなか口の回る御仁よの」


 吉興は皮肉気に笑った。


「お褒めにあずかり恐縮にござる」

「褒めてはおらぬが、まあよかろう。代わりにしかと働いてくだされよ」


 秀吉の裁可を受けて、秀吉の母、大政所を朝日姫の機嫌伺のために、岡崎に下向させることが決まった。














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