第8話

 丹波、近江、美濃の土豪らは、京に近いだけに、旧い家柄の武家や公家と縁続きになっていることが多い。

 佐助も例外では無かったのだが、ただ一点のみ、他家と違う点は、足利流、新田流の源氏とは、縁組をして来なかったことだ。腐っても鎌倉北条氏、北条高行と佐助流を除く北条一門を族滅に追いやった足利新田とは、縁戚関係になるわけにはいかなかった。

 コウ姫が初子を産み、男児であった。

 佐助では長男には代々、正寿丸も幼名を与えている。これは鎌倉北条氏随一の英雄である北条時宗の幼名であり、それを頂く形になる。

 吉興が我が子に正寿の名を与えた時、その時初めて、というのも迂闊な話であるが、新田の血筋が佐助の家に入ったことに気づいた。

 コウ姫は徳川の姫、新田流の清和源氏の血統だからである。

 吉興にしてみれば、コウ姫は織田氏の忘れられた姫という印象が強く、織田氏は平氏であるから、コウ姫の氏素性をさほど深く考えないでいたのである。


 ま、よいか。


 どうしたものかと一瞬考えて、吉興は「新田や足利の流れと婚姻を結んではならぬ」という佐助の隠された縛りを、捨て去ることにした。

 佐助の家も別に遠い過去のことをいつまでも、恨みを抱えて生きられない。こまごまとした縛りは、海の物とも山の物とも知れぬ土豪の佐助氏に、鎌倉北条氏の末裔という背筋を与えるために作られた添え木のようなもので、今や佐助も五万石の大名、そんな縛りがあっては却って邪魔である。

 現に佐助家中には清和源氏の者もいれば南朝方の末裔もいる。

 過ぎたことを持ち出せば、今現在の家中の統制が乱れる。


 佐助のしきたりには口煩い橘内長久が、コウ姫を嫁に迎える時点で反対していない。コウ姫が新田流源氏の末裔ということに思い至らなかっただけかも知れないが、その程度の縛りと言えばその程度のものである。長久がうるさく言わないのであれば、後は吉興の胸先三寸、鎌倉北条氏の末裔云々は封印することに決めた。

 この、佐助の家は、吉興が初代であり、正寿が二代目である。それでいい。

 吉興はそう思った。

 


 正寿丸については、表記揺れがある。吉興がコウ姫に宛てた書状の中でも「正寿」「松寿」「しやう寿」の表記があり、公文書に近い文章においてはおおよそ松寿、松寿丸の表記になっている。

 一説には、旧主・羽柴秀勝の室と、吉興は依然と交際を持っていて、彼の人を通して毛利元就公の幼名を拝したのだという説もあり、これは後に成長した正寿自身が、そう語ったとも言われている。

 佐助が毛利とかなり緊密であったのは事実であり、ある時期までは、徳川との交際よりも目立っていた。

 佐助吉興は、山陰における毛利攻めを担当していたこともあり、毛利家中には、身内の者が吉興に殺されなかった者はいない、というくらいのかつての仇敵であったのだが、それだけに毛利は吉興を高く評価し、関係が良くなるよう努めていた。

 吉興がコウ姫を娶ってからは、ことさら見せつけるように毛利との昵懇の関係を、維持していたのは、徳川との関係から目をそらさせるためかも知れない。


 正寿の表記に限らず、佐助では、その時々の情勢に応じて、諸々の謂われが二転三転していることが多い。これは、情報操作、広報活動のために、吉興が都度都度使えるものを最大限に利用してきたことが原因である。

 吉興には、小さなことで嘘をついて小さな利を積み重ねてゆくという悪癖があり、吉興自身がそう言っていたからそれが正しい、ということには少なくとも佐助については言えないのである。

 

 正寿丸の表記は、最終的には松寿丸で落ち着いたのだが、吉興自身の幼名が正寿であったこと、近江佐助氏の墓を見れば、夭折した、嫡男とおぼしき正寿の名が幾つか刻まれていることを踏まえれば、松寿丸の名が毛利元就公に由来しているというのは、確実に「嘘」だった。


 この時期、秀吉は、京聚楽第にいることが多い。

 豊臣の本城である大坂城には北政所、大政所、三好御前(秀吉の姉のとも)を置き、聚楽第には側室らを置いている。

 秀吉の側室は、京極氏(松の丸殿)がこの時期、筆頭の立場にあるのだが、これに新たに浅井氏が加わっている。浅井氏、すなわち茶々であった。

 浅井の姫たちについては、織田氏によって保護されていたため、吉興が感知するところではなかったのだが、柴田が下された後、茶々が秀吉の側室に迎えられたことは知っていた。

 秀吉の側室たちには、それぞれ京極、前田、宇喜多、織田などが後援についていて、その中で、茶々のみが確たる後援を持たない。敢えて言えば、伯父の織田信包であろうが、そもそも織田の姫としては信雄の娘が秀吉の後宮に入っていて、浅井氏をことさら立てる義理はない。

 そう言う中で茶々の女房が、吉興に接触し、吉興からは手許金が茶々へと定期的に届けられるようになっていた。

 近江の国人だからと言って、浅井の旧臣というわけではない。

 石田三成などは、六角氏の系であり、浅井氏は元々は敵である。

 浅井の旧臣の中では、吉興は出世頭であり、茶々を盛り立てるのは、吉興の倫理的な義務であった。

 浅井の嫡男、浅井万福丸の小姓だった吉興は、茶々とも面識がある。


「茶々がの、そなたを罰するは許さぬ、と言うのじゃ」

「かたじけないお言葉でございます」

「まあ、この程度のことで捨てるは惜しい男なのは確かよ。そなたでなければの、腹を切らせておるところだが」

「はっ」


 聚楽第の広間、秀吉も含めて、秀長、蜂須賀小六、利休ら、豊家首脳らの、吉興を見る目は厳しい。

 朝日を徳川に送ったのはいいが、家康からの音信はあれから無い。

 豊臣では、その間、九州平定にかかっていたが、家康のことを気にかけていないわけではない。

 黒田官兵衛は、九州平定後の差配をするために豊前中津にとどめ置かれている。

 佐助吉興は、対徳川工作のために敢えて畿内から動かさないでいたと言うのに、その対徳川の策がまったく進捗していない。

 秀吉が怒るのも、もっともであった。


「家康は莫迦なのか」


 秀吉は呟いた。秀吉は関白になった。その関白が妹を差し出したのだ。わざわざ家康の顔が立つよう、あつらえてやったのである。

 それを袖にすれば、秀吉がいかに融和を望んでいたとしても、強硬策をとるしかなくなる。

 そしてまともにぶつかれば、万に一つも徳川に勝目はない。

 信州、甲州は無論ながら、駿河でさえ、家康が領してからそう長くは経っていない。どうかすれば、遠州でさえ切り崩されかねない。

 家康は徳川を滅ぼすつもりだろうか。


「決して、さようなことは」

「ならば、なぜ動かぬ」

「家康殿は見ておられるのです」

「何を、じゃ」

「豊臣の仕置きを。此度の九州仕置きでは、事情があってのこととは存じますが、官兵衛殿、豊前国人の城氏を謀略にかけ、族誅に追い込まれました。また、大和大納言様、降った島津家久殿を斬っておしまいになったとか」

「あれは偽計であったのだ! かの者を生かしておいては、必ずや後背を突かれたであろう」


 秀長が躍起になって弁明した。


「過ぎたことをとやかくあげつらうつもりはございませぬ。さりながら、豊臣のなすこと、すべての大小名が注視しておること、お忘れなきよう」

「家康は我らを信用できぬと? 朝日を差し出してなお、疑っているのか?」

「殿下、信用するしないではございませぬ。家康殿は選べぬことはようご存知。しかしながら、三河武士らはどうでございましょうか。あれらは、ある種の狂人でございます。徳川のためと思い込めば、家康殿を軟禁することなどためらう者たちではありませぬ。家康殿の嫡男、信康殿を死へと追いやった実績もありましょう」

「家康も、難儀であるの」

「しかしそれもそろそろ限度。ここ数日のうちに、おそらくは密使が来ましょう。それも出せぬようでは家康殿もいよいよ愚か。家康殿の孫婿のそれがしを斬って、戦端となされるがよろしかろうと存じまする」

「なぜ家康ごときのために豊家が股肱を失わねばならぬのだ。そなたは切らぬ。代わりに、両兵衛の才を存分に見せつけるのだ。ひと月を待って、家康より弁明がないようであれば、討伐の兵を上げる。総大将には名目上、秀次をつけるが、そなたが帷幕にあってすべてを差配せよ。三河者は女子供もすべて撫で切りにせよ」

「はっ」

「兄者、それでは朝日はどうなるのか」

「諦めろ、秀長」


 そう言われた秀長は、視線を移して、吉興を憎々し気に睨んだ。

 吉興はただ平伏するだけであった。

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