第7話

 下克上と言う言葉は、戦国、安土桃山の頃にも普通に使われていて、日葡辞典にも 項目がある。但し、守護代が守護にとって代わる、国人領主が勢力を広げる例がほとんどで、徒手空拳から大名に上り詰めた例はほとんど無い。

 秀吉はその稀少な例のひとつで、かの人が実際に天下を取ってしまったものだから、後世の我々が下克上なるものを過大評価してしまっている面もある。

 あれは戦国でも本当に稀な例であって、織田信長の革新と秀吉当人の常軌を逸した天才が相まって生じた奇跡である。

 秀吉は人材登用においてはさほどロマンチストではない。

 古参であれば放り出しはしないが、古参だからと重職に付けることもない。

 考えてみれば、最初期の秀吉の家臣などは、海の者とも山の者とも知れぬ足軽につけられた小禄であり、その程度の人材であった。

 日本は室町後期からすでに識字率が高い国で、平仮名程度であればそれなりに読み書きができる者も多かったが、寺子屋が普及し始めるのは十七世紀の末頃からである。秀吉の頃には、商家でもなければ計数を教えられることもない。

 つまり、身分差というのものは、ほぼ同時に教育格差なのであって、実力本位の世になった、と言っても身分が低ければその実力を身に付けることは出来ない。

 そこを乗り越えて来た秀吉が異常なのだ。

 大名どころか天下人にまでなった秀吉の、用を足せる者と言えば、最低限、侍大将階級あたりからで、秀吉側近の黒田官兵衛、蜂須賀小六らは、まさしく「最古参ではないが、能力で足切りされた者たちの中では最古参」であった。

 兄の秀吉が農民出身ならば、弟の秀長も当然そうで、そうでありながら、豊臣政府の長官職を務められる秀長も尋常ではない。

 吉興が家康の元から持ち帰った話に、秀長と蜂須賀小六は激怒した。

 なぜ豊臣が、朝日を離縁してまで徳川に差し出さねばならないのか。

 しかし黒田官兵衛は、秀吉の意向を忖度して、それも一つの手である、と容認した。

 結局、秀吉の裁決で、朝日を輿入れさせることに決まった。


 朝日の夫は添田甚兵衛とも、副田吉成とも言う。

 いずれにしても来歴のはっきりしない人物である。ここでは添田甚兵衛としておく。

 元は農民、足軽に毛が生えたような軽輩者で、名目上、但馬多伊城の城主に据えられているが、実際には秀吉の直臣が代行統治を行っていて、甚兵衛に仕える者もそう多くはない。

 朝日の夫であるから否応なく地位を上げられた人だが、係累の少ない秀吉としては、少しでも有能であれば、一族には大封を与えて、政権の安定を図りたいわけである。しかし飾りにしても最低限の器量は必要なのであって、甚兵衛はそれも無いから、秀吉の母のなか、大政所の近くに侍っている。

 ただ、性格は善良で、夫婦仲もよく、大政所との関係もいい。

 秀吉一家は、案外、仲がよさそうでいてそうでもなく、ともと大政所は、好き勝手なことを言い、時には嫁であるおね、北政所を軽んじるような態度もあり、秀長と朝日はそれをはらはらしながら見ていると言うのが通例の景色である。

 人柄のいい甚兵衛は、潤滑油のような働きをしていて、この者も豊臣には必要と言えば必要であった。

 だが、家康を転ばせるために、朝日が必要であるならば、否応もない。


「いやじゃ。なんでおらが兄様のために離縁せんといかんのじゃ」

「そのべべも馳走も、ぜんぶわしが呉れてやったものであろうが」

「誰も頼んどらんわ。勝手に偉うなって、おらたちを中村から引っこ抜いたのは兄様の都合じゃろうが。おらも甚兵衛さんも別に中村で鍬もって畑たがやして、それで何の不満もないとゆうに」

「天下のためよ。分からんか。大名の家の者は誰も好き勝手には生きられん。それを曲げての、今まで好きにさせてやったのじゃ。甚兵衛にも悪いようにはせん。この秀吉がしかと面倒を見る」


 予想されたことであるが、朝日は頑なだった。

 大政所は末っ子の朝日の味方である。だが、秀長は政権運営の難しさを知るだけに、妹の味方にはなってやれない。ともも、豊臣を継ぐは秀長との頭があるから、政権強化の策は大賛成である。


「朝日、そんな子供みたいに聞き分けもなく。豊臣のお家のため、致し方ないことではないか」


 と、秀吉の側に立って、説得にかかる。

 北政所おねは、こういう時は我関せずでいたが、無残なこと、と思わずにはいられない。しかし秀吉が意を決して言い出した以上、覆ることはあるまい、と思っている。


 最終的に朝日を説得したのは夫の甚兵衛だった。


「のう、朝日。百姓は田を焼かれ、畑を焼かれをしていたものを、兄様が天下をたいらかにしてくださったおかげで安んじて暮らすことができている。百姓のためにまつりごとをやっている兄様のために、百姓のわしらが役にたたぬと言うは、あってはならんのではないか。兄様も意地悪で仰せではあるまい。よくよくのことじゃ」

「甚兵衛さん、あんたそれでもいいのかえ?」

「朝日、形はどうであってもわしらは生涯夫婦よ。そうであろうが。おまえが徳川に嫁ごうが、どこに嫁ごうが、大したことではあるまい」

「だけど…、おらがいねば、あんた、嫁ごば貰うじゃろうが。それは嫌じゃ」

「たわけが。そんなことを案じておったか。心配するな。わしは他には嫁は作らん。生涯おまえだけじゃ。じゃがの、おまえはそうもいかんであろうが。意地を張らずに徳川殿に可愛がっていただくのじゃぞ」


 夫に説得されて、泣く泣く、朝日は了承した。

 朝日は、甚兵衛に五万石を下賜すること、秀吉に約束させた。五万石と言ってもそこには生活している人たちがいるのである。能力のない領主を置くには不都合ではあったが、ぎりぎり、秀吉が丸抱えで面倒を見られる限度であろう。


 この時、朝日は京の聚楽第にいたのだが、京を起つ前日に、甚兵衛に向かって、


「添田の家も大名になるなら世継ぎは必要じゃろうが。正室は許せぬが、側室ならおいてもよいがの」


 と言った。泣きながらであったが、ともかくも、甚兵衛の室としての最後の役目を果たそうとした。


「そんなことはおまえが心配することではない。必要なら養子をとるから、側女はおかぬ」


 甚兵衛は、朝日を抱きしめた。大して美しい女ではなかったが、その香りだけは優しく、なまめかしかった。


 東海道を下る花嫁行列としては前代未聞の豪華さである。

 これに匹敵するのは、幕末、和宮が江戸に下った例のみであろう。

 近江から伊勢、伊勢から尾張に入り、三河に入ったところで、行列の主催が豊家から、徳川から派遣されて来た井伊直政に渡された。

 家康はこの時ばかりは岡崎まで出張って来ていた。

 豊臣への礼儀であると同時に、朝日個人に、無残を強いたとの自覚があったからである。

 岡崎にて祝言を上げ、行列に随行していた吉興が、豊臣側の見届け人となった。

 岡崎から駿府までは、家康が直々に護衛することになる。以後、朝日は駿河御前と呼ばれる。


 この時、朝日は四十半ば、数えで言えば家康と同年齢である。

 但し見た目で言えば、家康がわりあい若く見えるのに対して、日に焼けた朝日は年齢よりも老けて見えた。

 家康も美貌を期待していたわけではなかったので、それで何を思うと言うわけではなかったが、ただ、目の澄んだ女よ、と思った。


 祝言を終えて同衾する際に、白装束に身を包んだ朝日の姿はどこか死に装束に見えた。

 家康に平伏しながら、たどたどしく口上を述べた。

 その意は、天下のためであれば嫁いできたが、今もって前夫の妻であること、許されぬことではあろうが、どうか寛大な慈悲をたまわり、同衾だけは、勘弁して欲しい、とのことであった。

 その申し出は家康にとっては渡りに船だった。


 世評では家康は美女好みではないということになっていたが、家康には家康の好みがあるのであって、白い肌の、ふくよかな女が好みである。朝日のような痩せた女は好みではない。礼儀として、朝日を抱かないわけにはいかないが、向こうから断るのであればなにも無理に抱く必要はない。

 それに、微妙な話であるので確認は出来ていないが、朝日が閉経しているかどうかは分からない。もし、うっかり妊娠して、男児でも産もうものならば、正室腹の男子である。

 既に徳川では長丸を世継ぎとする体制で動いているのに、世継ぎが変われば動揺は避けられない。

 家康も四十半ば、人生五十年ならば既に晩年である。長丸はまだ七歳。長丸が元服するまでは頑張って生きるとしても、朝日が男子を産めば、また最初からやり直しである。十歳にもならぬ子を残して家康が死ねば、徳川は瓦解する。


 そう言う損得の話は別にしても、家康が朝日の一途さに感動したのも事実である。


「朝日殿。そなたさまの誠には、この家康、感服つかまつりました。生きながら亡者のごとくなる者が多い中、そなたさまはまこと、清らかなるおかた、さすがは関白殿下の妹御。そなたさまにも、添田殿にも、こたびのことは天下のためとは言いながら、まことむごい仕打ちでありました。伏してお詫び申し上げまする。

 さりながら、そなたさまを頂いておきながら同衾せぬとなれば、豊家に仇名す振舞いとなりましょう。ここに布団がひとつござりまする。この家康、そなたさまには指一本触れませぬ。ただ、形上、同じ布団で寝てくださらぬか」


 それでよいのであれば、と朝日は頷いて、


「ご厚情、いたみいります」


 と答えた。

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