第33話
北政所はこの時期、京、康徳寺に居住している。寺域に御殿が建てられ、日頃は猶子となっている八条宮などと親しく交際していた。
あたかもすっかり、公家の人となったようであったが、内実は武家の女、それも一度は天下を獲った武家の女であった。
北政所は、天下を蔑ろにするつもりは無い。
天下を総攬する者の手立てがないうちは家康を容認する、それがかの人の考えであった。
しかし徳川の脅威をいつまでも捨て置くつもりではなかった。
北政所の子飼いと言えるのは、五名。
佐助吉興、宇喜多秀家、石田三成、小西行長、大谷吉継である。いわゆる長浜衆と実子同然に育てた宇喜多秀家である。
加藤清正、福島正則は、大政所の子飼いであって、人間関係上で言えば、さほど親しくない。結城秀康や浅野幸長らは、親しくはあってもそれぞれに他家を背負う者である。
北政所にとって、一心同体とも言えるのは長浜衆と宇喜多であった。
佐助を連れていかれたのは痛手だった。
吉興が傍らにあれば、きっと北政所を補佐していたであろう。
子飼いの中で最大の石高を誇り、大老でもある宇喜多が、ようやく家中の粛清を終え、身動きが取れるようになっていた。
秀吉には養子は多いが、幼子のうちから育てた、文字通り実子同然であったのは、宇喜多秀家と豪姫のみである。
この二人を秀吉と北政所は夫婦とした。
北政所にとっては、実家の木下や浅野以上に、身内である。
北政所は自分が補佐したうえで、秀家を冢宰につけ、家康を追い落とす決意を固めた。
慶長六年七月五日、備前岡山より兵一万七千を擁して上洛した宇喜多秀家が、北政所、豪姫と共に豊国神社に参詣し、「徳川折伏」を祈念している。これが世に言う、関ヶ原の戦いの嚆矢であった。
宇喜多の出兵は上杉征伐においては予定されておらず、このにわかの大軍に畿内は動揺したが、宇喜多の意図はまだはっきりとしていない。
石田三成は、北政所の意を受けて動いている。
石田三成の次女、継姫は、側室腹であるために一段低く、蒲生の家臣、岡重政に嫁いでいる。その際に、北政所より猶女格の身分を与えられていて、後に、蒲生を退去せねばならなくなった時に、一時、高台院(北政所)を頼っている。岡の娘、振は、孝蔵主(北政所の筆頭侍女で、後に北政所の命で、江戸城のお江に仕えた。岡重政の伯母にあたる)の人脈を頼り、江戸城大奥に入り、家光に見初められ、第一子、千代姫を産んでいる。
三女の辰姫は、北政所に保護され、その養女となって、津軽家に嫁している。
閨閥の動きを追えば、北政所の最側近は石田三成であると言っても過言ではない。
この時期、北政所がむしろ反徳川であるのに対して、淀殿が親徳川である。
北政所から加担を求められた京極とその室、初姫は、内々で淀殿の意向を伺い、悩んだ末に、「動くな」という淀殿の意に従った。
片桐且元が、実際には豊臣家家老職にあったが、且元も、淀殿同様の判断を示している。
西軍決起は、北政所が志向し、三成が算段を整え、宇喜多秀家が動き、そして毛利を引き出すことで成った策である。すべてを三成が成したわけではない。
三成は大坂城に入り、残留三奉行に半ば強要した形で、七月十二日に豊臣奉行衆の名によって、毛利召喚を決した。
同時に美濃まで先行していた安国寺恵瓊ら、毛利の上杉征伐派遣軍が畿内に戻っている。
この動きを察した伏見城の鳥居元忠が、家康に急使を発していて、これが畿内擾乱の最初の一報となった。
同十七日に、三成は「内府ちがひの条々」を発し、諸大名へ送付した。内容は家康がいかに権力を私物化し、太閤生前の方針と約定に反し、前田を追い詰め、上杉に兵を上げた暴挙を糾弾するものであった。これには、大老として、毛利輝元、宇喜多秀家、奉行として石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家の連判があり、言わば豊臣政権自体が、家康を糾弾する体裁を整えた。
同日、在坂の大名子女を人質にとることを、三成は決し、これを拒んだ細川ガラシャが自刃し、細川屋敷が炎上したため、同様の抵抗が広がるのを恐れて、三成は屋敷を囲むにとどめた。
佐助屋敷についても、囲まれるのみで、誰かが連れていかれることは無かった。
七月十九日は毛利輝元が大坂城西ノ丸に入り、上杉景勝を含めた三大老四奉行の名で、徳川家康の大老職からの解任を発表。
七月の二十五日、家康は小山城にあった。
武装のまま集まった諸侯を睥睨しながら、老いてもなお通りの良い声で、家康は口を開いた。
「諸侯らも承知かと思うが、上方にて石田三成決起、大坂城を抑え、貴公らの妻女を質に取った模様。宇喜多、毛利も三成に与するよし。ここ、小山に結城秀康を守りとして置き、上杉征伐はとりあえずの中断、我が徳川はそれがしと秀忠にて軍を分けて、三成征伐に赴くつもりである。妻女を獲られては動くに動けぬ者もおろう。石田に与するというのであれば、今ここより、西を目指していただきたい。戦場で会えば、相応の扱いとするが、今、退去するのであれば、一度限りは見逃そう」
諸将の間に緊張が走る。豊家恩顧の者の中には吉興を見る者が多かった。豊臣の軍師はいかがするつもりなのか。
吉興の判断は苛烈であった。
今、この形では勝てない。
家康も馬鹿ではない。時期が揃ったから動いたのである。前田が追い込まれる前と状況は同じではない。既に、家康は大軍を擁している。
三成が一度勝ったとしても、家康に関東との交通を許してしまっている以上、少なくとも三度は大勝を上げねばならない。西軍は一度でも負ければ負けだが、東軍は二度までは負けられるのだ。それだけ、大徳川家が巨大であるということだ。その連絡を切った上で、孤立させて戦わなければ、豊臣方には勝ち目はなかった。
家康が勝つ。
そうであれば、佐助は生き延びねばならない。佐助がいなくなれば、誰が豊臣の軍配を預かれるのか。
吉興はすっくと立ちあがった。よもや退出するのではあるまいな、と皆の注視が集まる。そのまま家康に一礼し、家康の左側少し斜め前、諸侯に対峙して座りなおした。
「太閤殿下より豊臣の軍配を預かりし者として、殿下のご遺命により冢宰の任にあらせられる徳川殿に付き従いまする」
おお、とどよめきが上がる中、機知に長けた黒田長政が、同様の行動をとり、家康の右前に、諸侯に相対して座りなおした。
「それがしは非才なれど、佐助と黒田は両兵衛の家。黒田は豊前殿の断に従いまする」
豊臣軍令部の最高指導者が、家康支持の表明を行った。我も我もと呼応の声が上がる。
細川忠興が声を上げる。
「それがしの場合は遠慮なく、内府様に馳走させていただきましょうぞ。既に我が妻はみまかった」
ガラシャの訃報は、先ほど届いたばかりである。忠興は怒りに燃えていた。
吉興が口を開く。
「細川殿御内室の件はまことにお気の毒であった。さりながら、三成はこれにて、大名妻女を大坂城内に入れることを諦めたよし。細川の功、まことに大と申すべきでありましょう。質を獲って、いかがするか。誰が質を切れと命ずるか。殺してしまえば取り返しがつかぬ。和議の余地も一切無くなろう。寄せ集めの西軍、誰がその断を成し得ようか」
「うむ。豊前守の申す通り、細川の功績大にて、家康、忘れまいぞ」
細川忠興は平伏する。
吉興に諭されればそれもその通り、三成に質を殺す意気地があるとも思えない。
「速攻といたす。余に与する者らはこれより東海道を西に攻め上っていただく。敵を降すが早ければ早いほど、質も助かるであろうからの」
「なれば我が城、我が領地、遠州掛川、ことごとく、内府様に供しまする」
そう声を挙げたのは山内一豊であった。そうなれば遅れをとってはならじと、東海衆が次々に声を上げる。
これにて東海道は尾張清州まで、すべて家康に降った。
かくして、上杉征伐軍はそのまま東軍となり、西征に赴くことが決した。
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