第32話
江戸は普請中である。
この時期の江戸は、天下の都城などではない。江戸城にしても、日比谷まで海岸が押し寄せ、上水の確保もままならない。人口は十五万にいくかいかないか。この時代の日本では既に五本の指に入る大都市ではあるが、まだ、狐狸棲む叢も方々にある。
江戸城も、天守などはまだ無い。ただしそもそもが高台にある城であり、周囲は半ば湿地の平野である。小さな丘に立てば、遠く富士や筑波の峰も見通せる。
小高い丘に、家康は小さな茶室を構えている。
そこへ、家康は一人、佐助吉興を招いた。
「なかなか今までは会うてくれなんだゆえの。そなたとこうしてゆるりと茶でも愉しみたかったのよ」
「無作法にてかたじけのうございまする」
「まことに。いやいや、責めているわけではない。かの佐助にも意外と不調法なことがあったかとな。意外であった」
吉興は、さほど茶の作法に通じていない。
剣術にしろ、書画骨董にしろ、実は意外と通じていないことが多い吉興である。基本的には興味の無いことは切り捨てて来た。
「如水様から叱られたこともあります。おまえが恥をかくのはおまえの勝手であるが、亡き師の名を辱めると」
「如水殿こそ、何にでも通じておられるからの」
「まことに。それがしは未熟者にて」
「天下人の軍師なれば人はおのが思いをあてはめようとするもの。窮屈であったろう」
「内府様ほどではありませぬ」
「それもそうか。儂ものお、天下を望むかと疑われ、旧国から引き剥がされ、気づけばかような水浸しの地へと。果たして誰のせいであろうか」
「関八州、二百五十五万石、小田原膝元の相州はともかく、殊の外、戦の多い地でありました。乱れに乱れ。さして開墾も治水もままならぬ中での二百五十五万石にござりまする。堤防ひとつ築くだけでも、収量は飛躍的に伸びましょう。ただ今の実高はいかがほど」
「ざっと三百万石かの」
家康はにやりと笑った。
「なれば、そなたが我らを富ましめたと?」
「関八州の振興はご家中のご尽力のたまもの、さりながら。そこまではいくであろうとは、織り込み済みの話」
「三百万石与えても、どうと言うことも無いと思ったのであろうな。北に上杉があり、西に豊家諸将があり」
「太閤殿下ご存命のうちに、内府様みまかれば、三百万石は五つか六つに分割されたでしょうな。秀康殿に五十万石、秀忠殿に五十万石、松平忠吉殿に五十万石、残りはご一族ご家臣で分割にござる」
「毛利や上杉もか」
「代替わりを機にそうなされるよう、進言しておりました。五十万石を上限にして」
「その意は?」
「諸大名大きくなり過ぎれば天下が乱れる元。それは諸大名自身にとっても、迷惑なこと。誰も彼も天下が欲しいわけではござらぬ。走らねば倒れるゆえ、止まれぬだけのこと」
「まことよの。誰が何を望もうと、転がりだした天下はもはや止められぬ。そもそも転がらぬようにするか。儂が天下をとれば、その策を入れよう」
「…豊臣を、いかがなすおつもりか」
「なるべく無碍にはすまい。しかしながら。豊臣のために徳川が滅びる道は選べぬ。当然のことであろうがの。豊臣と徳川、相並び立つよう考えるのがそなたの務めよの。他の誰にもできぬ任ぞ」
「そのお心、信じてよろしいのでしょうな」
「豊臣と徳川が岐れれば、秀忠も儂も、平然とはしておられぬ身での。淀殿には、朝日のことや、お江のこと、お千のことも話した。気持ちは同じじゃ。だが言ってはおらぬのは。両家が戦えばそなたは豊臣に与するであろう。さすれば時康は」
家康はそこまで言って、目をつぶった。
「儂に二度と、信康の血筋の者を斬らせないでくだされよ。頼み入る。お頼み申す、婿殿」
「…さりながら、近き戦のこと」
「上杉は、名のみことごとしく。謙信公亡き上杉はさほどのこともあるまい」
「上杉のことではございません。石田のことでございます」
「やはり、起つであろうな」
「毛利が後ろ盾になるかと」
「輝元は、儂よりも気の毒かも知れぬ。どちらに転んでも茨の道ぞ。徳川が滅びれば毛利が諸大名中が筆頭。目の敵にされるは毛利になろう。さりとて、徳川から見ても、残すには大きすぎる家ゆえな」
「元就公、老いのせいでありましょうな」
「まさに」
元就は死に際して、両川と輝元に、以後、守成を本願となすことを遺命とした。本来の世継ぎ、隆元が急逝していたせいでもあるが、あの稀代の権謀家にして最期にして読み違えた。
止まってしまえば滅びるしかないのだ。
毛利は大きくなり過ぎた。天下を獲らねば生き残れないほどに。大毛利を温存してくれた秀吉が異例だったのだ。
「さりながら、こたびは、毛利は石田につきましょう」
「なにゆえ」
「今そのままでありたいからでございます。豊臣との人脈は今あるもの。今に引きずられましょう」
「輝元らしいの」
「ご調略を」
「吉川にかけておる。吉川は儂につくやも知れぬ。小早川は、五分五分よの」
「小早川には力を入れ成されるよう」
「大して役に立つ男とも思えぬが」
「なればこそにございます。残してもさして障りはない男。しかし石高は三十六万石。相応の軍勢にございます」
「島津には声はかけぬぞ」
「島津を潰す御所存で」
「あれは剽悍過ぎる。太閤殿下がよう収められたものよ」
「豊臣も相当無理をしました。亡き、大和大納言様が家久殿を斬り」
「徳川が天下を獲ったとして、その天下を揺るがすとすれば、毛利か島津。両家はこれ以上は大きくはさせぬ」
家康も、無暗に島津を切り捨てるのではない。
島津は剽悍なればこそ、切り捨てづらい。敵に回せば侮れない相手である。
しかし、今、畿内にある島津の手勢はせいぜいが千七百。島津は国元の義久と、対外的には島津を代表する義弘との間で割れている。
朝鮮での戦いでも、島津義弘は十分な援軍を得られなかった。
義久が送らなかったからだ。
それでもあれだけの軍功を挙げたのは、凄まじいとも言えるし、奇跡的とも言える。
しかし奇跡はそうそう起こらないから奇跡なのである。
この情勢にあっても、畿内にある島津義弘は援軍を得られていない。
島津の恐ろしさの八割型は、島津義弘個人の軍事的天才にある。
家康が見る限り、島津義弘はこと戦に関しては、謙信や信玄の才をも上回る。だからこそ、豊臣政権の冢宰としては、家康は島津を厚遇した。
たかだか数万石とは言え、本質的には負け戦であった朝鮮の役で、加増された大名は島津義弘のみである。
その時は、家康は必死になって島津を与党にしようとした。
しかし。
島津がさほどの軍勢を得られぬのであれば。
ここが潰し時である。
家康はそう考えた。
その家康の思考を、むろん吉興は読めている。
悪くない判断ではある。
だが。
義弘が朝鮮で挙げた数々の軍功は単なる軍功ではない。どれもが、あり得ないような奇跡の連続であった。特に、泗川の戦いでは、少なく見積もっても三万、工兵らを含めれば二十万の敵軍を、七千の兵で打ち破るという、世界史でも稀な勝利だった。義弘がしんがりをつとめた露梁海戦では、鄧子龍、李舜臣らを討ち取り、無事、日本軍を列島へ送り返すことに成功した。
島津の働きが無ければ、何人かの大名らは生きてはいなかっただろう。
しょせんは、一個の人間が歴史の流れの中で果たせる役目など高が知れている。しかし稀に、歴史が人格の形をとったとしか言いようがないほど、決定的な役目を果たす人間がいる。
あるいは。
あるいは、島津義弘はそういう人間かも知れない。
吉興はそう思うのである。
義弘を敵陣に追いやることがいかなる結果をもたらすのか。
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