第31話

 鳥居元忠は天文八年の生まれ、家康が同十一年の生まれであるから、数えでは、家康よりは三歳年長になる。

 家康にとっては、駿河への人質生活にも同道した股肱中の股肱である。家康の初名は、今川義元より偏諱を受けて、松平元信と名乗ったが、その時、同時に元服した元忠には、更に元信から偏諱して元忠と名乗らせた。

 家康は最初から家康であったのでは無い。

 生来の性癖は癇癪がひどく、元忠はその癇癪を一身に浴びた。家康が子供であった頃、家康の背丈が低いので、また鷹をつがえぬというので、家康は百舌を使って鷹狩りの真似事をしてみようとした。

 その調教を元忠にさせた。

 しかし百舌に鷹の振舞いなど出来るはずもない。

 百舌狩りが上手くいかぬのを見て、家康は癇癪を爆発させて、元忠を足蹴にした。

 その有様を横で見ていた鳥居忠吉、元忠の父は怒るでもなく、落涙して喜んだ。

 元忠は私心を殺して、家康に誠心誠意仕えているのに、それを百舌を馴らせぬなどと無理難題で足蹴にするなど、尋常の人には出来ることではない。

 忠吉は家康の振舞いの中に非凡さを見て、清康公以来の大器と喜んだのである。息子が理不尽に蹴られてそう言う理由で喜ぶとは、忠吉もある意味、尋常ではない。しかし、結果として家康が天下をとったのであるから、その眼差しは本質を掴んでいたとも言える。

 その後、家康は自らの癇癪を抑え込んだ。晩年には抑えきれなくなり、本多正信がそれとなく怒りを逸らせ、なだめ、処理をして、ということはあったのだが、癇癪のままに振る舞うことが許される状況ではなかった。

 若い家臣などには、家康を滅多なことでは怒らぬ気の長い人と見ている者さえいる。

 鳥居元忠は家康の本性を知る数少ない人であった。


 伏見を空けている間、家康は城代として鳥居元忠を配していた。

 家康本軍が大坂を発って、その日のうちに伏見につき、行軍の最初の夜は諸将、伏見城もしくは城下に逗留した。大名は、伏見、京、大坂に屋敷を下賜されていることが多いが、聚楽第は破却され、京屋敷もすでに多くの大名は維持していない。秀頼が大坂に移ったことから、そしてさらに言えば伏見が徳川領のようなものになってから、佐助は伏見屋敷を棄却している。維持しているのは大坂屋敷のみである。

 面白いことに、上杉の室の菊姫は、伏見屋敷にあった。かの人は、京の公家との交際が深いので、京近くに住んでいたのである。信玄の娘ということで、今は真田の兵に護衛されている。屋敷からは動けないが、今の時点では人質と言う扱いではなかった。

 吉興と時康は城下に屋敷が無いため、家康と共に伏見城中に入った。

 相次いで登城する大名らに、城代である鳥居元忠が平伏する。


 明けて翌朝、家康本軍は更に東に進んだ。

 家康と元忠の間には悲壮感のようなものはみてとれなかったが、これがおそらく主従の永訣であろうと吉興は見る。

 大坂城に残した阿茶の局、伏見城に残す鳥居元忠。

 これらは餌である。非戦闘員の阿茶の局はともかく、鳥居元忠は討ち死にする覚悟だろう。


 東海道を、田中領、堀尾領、山内領、中村領と下ってゆく。

 見事に、秀次旧臣ばかりである。甲斐に配された浅野氏を含め、これら諸将は秀次処分に際して、危機に陥った。家康、利家がとりなさねば、家が潰れていたかも知れない。

 今はそのため、徳川包囲網がことごとく親徳川となり、徳川勢力が甲信東海一円に張り出す形になっている。

 豊臣恩顧を甲信東海に配して、徳川包囲網を築いたのは、佐助吉興である。かつての策が裏目になっている現実を目の当たりにしながら、佐助一行も東海道を下ってゆく。

 軍師と言っても何もかもを見通せるわけではない。見通しを誤ることもある。しかし、大戦略の段階においては、そうそう見誤ることは少ない。これを外したと言うことは、想定外の事態が相次いだということである。

 秀頼が生まれたのも想定外ならば、秀次が処刑されたのも想定外だった。仮にも関白であったのだ。大名家一つ潰すのとは訳が違う。豊家諸将、何の疑いもなく、秀次に馳走するのが、公儀への報恩と尽くしていたところ、いきなりそれが大逆になってしまった。

 豊臣は自ら半身を切り刻んだも同然である。

 秀次はべつだんそう大した人物ではなかったが、秀次が生きていれば豊家の屋台骨が揺らぐようなことは決してなかっただろう。

 一分もないような確率の悪運が、豊臣に襲い掛かった。

 それはまるで、豊臣が滅びるのが天命であるかのようである。


 七月二日、家康本軍は、江戸に入った。


 徳川秀忠は従三位、権中納言である。諸大名中にあっても、家康に次ぐ立場にあるとして、諸大名を睥睨した。

 ここしばらくは在国していることが多く、それを補うためか、秀忠は諸侯をひとりひとり呼んでは、「頼みますぞ」と申し渡して、つながりをつけていた。

 佐助が呼び出され、時康と同道すると、


「おお、豊前殿」


 と秀忠は言い、小姓に伝えて、控えていた室を同席させた。

 吉興を見るお江の眼は嬉し気である。


「殿に我儘を言って、同席させていただきました。豊前殿には直々に御礼を申し上げたくて」


 とお江が言う。


「お久しぶりに御座います、お方様」


 吉興も懐かしく、お江を見る。吉興は、信長の子息、羽柴秀勝の付家老だった。秀吉の一族には三人の羽柴秀勝がいる。

 一人は秀吉の実子で長男、早世した石松丸秀勝である。この人が生きていれば歴史は全然違っていただろう。豊臣は盤石だっただろうが、あるいはそもそも羽柴が信長に睨まれて潰れていたかも知れない。

 織田家中でも最強軍団となっていた羽柴は、信長の警戒心を解くために、石松丸の死後、信長の実子を秀吉夫妻は養子に迎えた。それが於次丸秀勝である。吉興が仕えた主である。目論見通り、於次丸秀勝の存在は信長の猜疑心から羽柴家を守り、信長の実子を抱えていることは羽柴の天下取りにもおおいに役立った。

 最後の羽柴秀勝は、秀吉の甥で秀次の実弟の小吉秀勝である。秀次、秀勝、秀保の三兄弟の中では最も常識人で、吉興も天下のためには良い補佐役になるだろうと期待していた人物だった。

 於次丸没後、丹波の所領と羽柴秀勝の名を小吉秀勝が継承することになり、前代の付家老として、吉興はしばらく丹波に留まり、引継ぎをするとともにあれこれ差配をした。

 その時、小吉秀勝と結婚したばかりだったお江とも親しく交際している。

 

 お江は清州での生まれで、父の顔を知らない。生まれた時にはすでに浅井氏は滅亡していた。母や姉にとっても辛い体験であり、聞きたくても父や浅井氏のことをこれまで聞けずにいた。

 それを吉興が、逐一、言葉を選んで優しく教えてくれた。それだけでなく、大名奥方としての心構えをこの時、吉興に叩き込まれた。

 お江にとって吉興は、浅井の残り香を宿す人であり、師父であった。実は、吉興は、万福丸の遺骸を羽柴軍中から奪い、小谷山中に葬ったことを、お江にのみ打ち明けている。

 信長の命があってのこととは言え、万福丸を害したのは当時の羽柴家中であったし、今は、淀殿に言っても、淀殿のすぐ下の妹の初姫に言っても、負担になるだけだった。お江が亡兄のことを聞いてあんまり気の毒がるから、下手に恨みを残してその恨みの先が秀吉に向かっては、彼女のためにはならないと思ったので、吉興は、きちんと葬ったことを言わねばならなかったのである。

 これは吉興とお江の間の秘密である。


「サダ姫のこと、気にかけてくださっていると聞いております。母として感謝の言葉もございません」


 サダ姫は、お江が秀勝との間にもうけた姫で、姫とは言え、秀次一族がことごとく処刑された今では、秀頼以外では唯一の豊家の血筋であった。

 秀吉の大姪であり、淀殿の姪にあたるサダ姫は、豊家から出すことが許されなかった。

 大事な姫であるのは確かだが、秀頼に比べれば忘れられがちになるのは避けられない。悪意ではなく、単に忘れられがちであるため、諸大名らからの献上も少なく、七五三なども寂しくなることが多かった。

 家康としては、義理とは言え徳川の姫でもあるので、相応に後押しするのはやぶさかではないが、それをすれば却って、徳川のひも付きということになって、サダ姫にとっても、徳川にとっても良からぬ風聞を引き起こすことになりかねない。

 その、難しい立場にあるサダ姫を後見していたのが吉興である。

 旧主、浅井長政の孫にあたる姫である。

 主従の縁では、吉興は異例なほど義理堅かったので、豊前一国を傾ける勢いで、サダ姫に不自由なことがないよう気を配っていた。


 サダ姫にも、お江にも、吉興は大恩人である。


「豊前殿はこの権中納言家にとっても、大事なお方。室の思いに免じて、末永く親しくありたいものですな」


 秀忠の乾いた、声が響き、吉興は平伏した。


「そちらは時康殿か」

「権中納言様にはご機嫌よろしゅう。豊前守が嫡男、時康にございます。無位無官の身なれば、かように伺候いたすのも権中納言様には無礼を働くことにもあいなりましょうが」

「よいよい、それがしが無理を言って、来ていただいたのよ。お顔を見せてくだされ」


 時康が顔を上げる。ほう、と秀忠は声を上げた。


「確かにの、亡き信康様によう似ておられる。それがしは、子供の時分に、一度しかお目にかかったことはないが、お美しいお顔であったゆえよう覚えておりまする。今川のお血筋よの」


 考えてみれば、時康には信康を通して今川の血も流れているわけである。築山殿の母が、今川義元の異母妹にあたり、今川氏親の血筋であることは間違いない。

 更に築山殿の父の母は、井伊氏の流れでもある。

 近江土豪の佐助の血も、様々な家と通婚しているから、京公家の冷泉家や正親町三条家の血、六角の血、美濃明智氏の血も時康は引いている。


「父上の仰せの通りであるな」

「内府様はさように戯れを仰せになられることもありますが。それがしは祖父の顔を存じませぬゆえ」


 家康とさような軽いことも話すと聞いて、瞬間、秀忠の胸の内に妬心が差したが、すぐにそれを収めた。

 信康を殺めて以来、家康は子育てに臆病になっていて、子らと親しく触れ合うことはまったくと言っていいほど無い。ひたすら厳しいだけの父であることを課している。

 但し、時康は、他家の子であり、曾孫である。家康は存分に可愛がっていた。


「時康殿は、それがしの大甥になる。身内と思って何でも頼ってくだされよ。こちらも智者の家、佐助を頼りにしております。父を支えてやってくだされ」


 秀忠の言葉に、吉興、時康、ともに平伏した。


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