第63話

 大坂夏の陣では、冬の陣ではとどめ置かれていた西国諸大名が動員されている。東国諸大名が冬の陣で、甚大な損害を被っていたこともあったが、既に裸城となった大坂城を相手に、仮に寝返りなど多少のことがあったとしても、幕府軍の圧倒的優位はもはや揺るぎようが無かったからでもある。

 幕府から、西国諸大名に対して、信頼している、との証を示す必要があった。

 茶臼山の、大御所の本陣に集められたのは、佐助時康と松平忠直であった。

 両者は年齢差で言えば、十歳ほど時康の方が年長である。

 亡き秀康と時康は昵懇の仲だったが、豊臣の匂いを嫌った忠直は、時康には決して友好的ではなかった。


 戦それ自体はそう日を費やさずに決着するだろう。


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 諸将が出払った大坂城において、砲弾の音を雨音のように聞く状況に、大坂城は再びなっていたが、今度は淀殿はどういうわけか冷静であった。


「秀頼殿」


 秀姫と国松は既に、佐助の差配で城から落ち延びている。


「こたびは、落城は避けられそうにありませぬぞ」


 母の言葉に、秀頼は頷いた。


「お千、伯母上」


 秀頼の言葉に、千姫が面を上げる。その傍らには常高院が寄り添っていた。


「これより大御所の陣に赴いて、余と母上の命乞いをしてはくれぬか」


 千姫は何を言えばいいのか分からなかった。淀殿を見たが、淀殿も優しく頭を下げた。


「頼みますよ、お千」

「かしこまりました」


 そう答えたのは常高院であった。意外なほど強い力で千姫の腕をつかみ、


「さ、参りますぞ、お千!」


 引きずるように立ち上がらせられながら、


「秀頼様!」


 と千姫は最後に発した。

 秀頼は言葉を発することなく、微笑んで見送るだけであった。


「かわいそうに、叶わぬことで擦り切れましょうな」


 千姫と常高院がいなくなってから、淀殿が言った。

 もはや助命など叶わぬのは明らか。

 しかし千姫はそれをなそうと、擦り切れるほどに働くであろう。


「ああでも言わねば、大坂城から退かぬゆえ」


 秀頼が呟いた。


「さ、そろそろ、我らも支度しますかえ」


 この母子はこれから山里丸に移る。城内で最も頑丈な蔵である。淀殿は命じて、高価な衣服や調度を、そこへと運ばせようとしていた。

 いずれ、徳川の兵がそこへ至るのであれば。

 豊臣の栄華を目の当たりにして、腰を抜かせば良い。


「いかがなされた、秀頼殿」

「今少し。今少し大坂城のありようを、目に焼き付けたく」


 天下人が築いた城である。

 秀頼にとっては、今日この日まで、牢獄であった城であった。


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 大御所の陣においては、片桐且元が呼び出され、尋問を受けている最中であった。

 そこへ、転がるようにして、千姫と常高院が現れた。


「お千にございます。爺上様」

「おお、おお…」


 会うのは十年ぶりであろうか。しかし千姫の幼い頃の面影はしっかりと残っていて、家康は震える足取りで千姫の元へ歩もうとした。

 すかさず、忠直が前に出て制する。


「あぶのうございます」


 しかしその忠直の手を、時康が取った。


「なにをする?」

「ご対面を邪魔するでない」

「なにをっ!」

「よい。千姫はさようなことはせぬ。行かせよ、忠直」


 そう言って、家康は構わずに千姫に近づき、抱きしめた。強く、力の限り強く。


「此度はそなたには辛い思いをさせた。すまなんだ」

「爺上様、どうかご助命を。お願い申し上げます。義母上とと秀頼様のご助命を」


 家康は、好々爺の微笑で、うんうんと頷いた。


「どうしてそなたの夫を徳川が殺めようか。此度は行き違いがあればかようなことになってしもうたが。安心せよ。儂が良いようにするでな」

「ありがとうございます! 爺上様、ありがとうございます!」

「よいよい。常高院殿、よう千姫を連れてきてくださった。そなたも間に入って大変であったの。大坂城にいたは無理なきことゆえ、罪には問わぬ。安心なされよ」

「かたじけなきお言葉、ありがとうございまする」

「ささ、少し後方に秀忠がおるゆえ。そちらまで案内させようぞ。ここは少し危ないからの」


 百人の兵に護送されて、葵の旗印が掲げられる中、千姫一行は後方へと下げられた。


「さて、且元殿。お聞きの通りじゃ。儂には隔意はない。太閤殿下とのお約束もある。早く秀頼殿を保護したてまつりたいのよ。何しろこの乱戦、先走った者がうっかり殺めぬとも限らぬでな。かような場合、秀頼殿はどこへお逃げになられるのじゃ?」


 且元は随分長い間苦衷の表情を浮かべていた。追い出されたとはいえ、秀頼の傅役であった男である。


「必ずや、必ずや、ご助命を」

「約束しよう。儂はこれでも律儀で知られておる」

「ならば、申し上げまする。二の丸近くに山里丸なる蔵がございまする。ひときわ頑丈にて普段は金子がしまわれておりますが、もしもの場合はそこが避難場所となっておりまする」

「そうか、よう申された。片桐家のこと、悪うはせぬ」


 好々爺の表情をのまま、振り返り、家康は諸将に対峙した。その顔にはすでに鬼の形相のみが刻まれていた。


「秀頼は山里丸におる! 山里丸を集中砲火せよ!」

「爺上様!」

「大御所様!」


 時康と且元が声を上げる。

 且元はそのまま引きずられていった。


「爺上様! このやり方は余りにも卑怯にて! 徳川の悪名、歴史に刻まれましょうぞ!」

「おおう、悪名の千や万、儂が引き受けようぞ。そう長くは余生もあるまい。すべてを平らかにして死ぬつもりぞ」

「今の豊臣など、蠅蚊ほどの脅威でもありますまい。なにゆえそこまで。豊臣にはもはや何も残っておりませぬ」

「豊臣の名があるではないかっ!」


 家康の怒号に、時康も怯んだ。


「十四万。十四万ぞ。追い込まれてなおそれだけの損害を我らに与えた家ぞ。佐助吉興が忠義を尽くす家、侮れるはずがないではないかっ!」


 怯む時康に追い打ちをかけるように、忠直が嘲笑った。


「豊前は豊臣の臣であるつもりなのでありましょう。徳川一門ではありませぬ。これの父は裏切り者の謀反人なれば」

「なにっ!」


 時康が殺気を放つ。


「事実であろうがっ!」

「よさぬかっ!」


 家康が両名を怒鳴った。


「忠直。そなたの父は武人の心を知る男であった。そなたはどうか。父の名を辱めてないかとくと考えよ。佐助吉興を詰ってもそなたが偉くなるわけではないぞ。警戒に出て、頭を冷やせっ!」


 忠直は心外という表情を浮かべ、何か言い返そうとしたが、結局それはせずに命じられるがまま、陣幕を後にした。

 

「時康。儂は悪名を負う。徳川一門は儂と共に悪の立場に立たねばならぬ。そなたは信康の嫡孫として一門同様に扱われておる。そなたには儂と共にある覚悟はあるのか」

「大御所様…」

「儂と共にあれ、時康。その覚悟を決めよ」


 大坂城からは紅蓮の炎が幾筋も立ち上がろうとしている。

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