第36話

「膠着しておるな」


 家康が爪を噛む。南にいる毛利が動かぬ。その間に西の宇喜多や石田を叩いておきたい。


「松尾山に砲弾を撃ち込んでは?」

「小早川か」


 家老の稲葉正成を通して、小早川からは内応応諾の約が届いている。

 とは言え、裏切りである。なかなか踏み込めないのだろう。


 父は北政所の実兄の木下家定、つまりは小早川秀秋は北政所の実甥である。北政所にしてみれば実の血縁者であり、西軍に与するは当然と思っている。

 だが、小早川秀秋は、宇喜多秀家のような情深い思いを北政所に抱いていない。北政所はわりあい人の好き嫌いが激しく、どういうわけかこの甥に冷淡であった。秀吉がその冷淡さを叱責したほどである。

 周囲からは、実の甥ならばさぞや可愛がられているのだろうと見られて、実際には会えば、一言二言交わせば言葉も続かないような関係で、少年の頃の秀秋は深く傷ついていた。

 細やかな優しさを感じたのは、養父たる小早川隆景に対してのみである。

 小早川の家を守る。

 それが秀秋にとっての最優先課題であった。

 毛利一門なれば宗家に従って西軍に加担したものの、どうも、その毛利が動かない。徳川に内応の約束をして保険をかけていたが、毛利が獅子奮迅の動きを見せていたならば、そのまま毛利に合力していたであろう。


 思案していた小早川の陣に、家康本陣からの砲弾が着弾した。


「殿! 内府が催促ですぞ。そろそろ動かねば」


 稲葉正成が、迫る。

 稲葉氏は美濃斎藤氏、織田氏、豊臣氏と主を替え、生き延びて来た。その妻、おふくは後の春日局である。


「殿!」


 その迫る声に、秀秋も覚悟を決める。


「よし。敵は…石田三成じゃ! 全軍、山を下り、石田の横腹に食らいつけ!」


「寝返りか!」

「寝返りぞ!」

「誰が裏切ったのか!」

「小早川が寝返った!」


 戦場はたちまち混乱する。

 大谷、小西の軍勢は陣形を維持できずに、小早川と東軍に挟まれ、数を蒸発させてゆく。


「…勝敗は決したな」


 陣座から立ち上がり、煙る野を見るは島津義弘である。


「伯父上、いかがなされるおつもりか」


 島津豊久の問いに、直接は答えず、義弘は国元の兄を思った。


「義久殿はの、儂に死んで欲しいのじゃ」


 かつては九州全土を侵略せんとした英主。豊臣に屈してからはすっかり鬱屈し、当主の座も任も義弘に譲ったかのように見えた。それでいて、朝鮮の役では増員を要求すれば国元の義久は一兵たりとも送っては来ない。

 今度の戦もそうである。

 せめて一万でもあれば、戦場を牛耳るほどに働けたものを。

 今は、会えば、詫びるように意気消沈する義久だが、同じいやらがらせを何度となくする。島津の武名そのものとなった弟を妬んでいるのだ。


「そろそろ兄上を楽にしてさしあげようぞ。ここを墓場と心得て、華々しく」

「なりませぬぞ」

「豊久…」

「島津が畏れられるは伯父上の武名があればこそ。伯父上殿無くば、島津はたやすく徳川に潰されましょう。なんとしてでも、伯父上一人でも薩摩に戻っていただきます」

「しかし、この混乱ぞ」

「なればこそ、好機がつくれるやも知れませぬ。我らみな、捨て槍となって、敵を足止めいたしまする。その間に、伯父上は逃れてくださりませ」


 島津陣中から怒号が上がった。みな、一兵にいたるまで、義弘を逃がすためならば犠牲になる覚悟である。


「…あいわかった。ならば目指すは」


 既に西軍諸将は潰走している。街道を行っても渋滞し、東軍の追撃を受けるだけである。


「南宮山麓。徳川が本陣である!」

「おおーっ!!!!!」


 兵の雄たけびが戦場を走る。

 東軍諸将は、ここが手柄のたて時と、敗残兵に襲い掛かっている。

 逆に言えば。

 本陣前は手薄になっている。

 そこを抜けて迂回すれば追っ手を振り切れる。

 義弘はそう読んだ。


 砂塵渦巻く中。


「何やらいずこかの家中が駆け寄ってきますな」


 佐助吉興は遠くに目を凝らす。あれなる旗は。

 島津の十文字であった。


「島津義弘」

「なにっ」


 家康が立ち上がる。

 その時、本陣の危機を見た井伊直政が更にその後方から追いすがり、島津を攻撃しようとするが、島津の騎馬鉄砲隊によって、井伊の赤備えが次々に、地面に叩きつけられる。


「ごめん」


 本陣にいた本多忠勝が兵を率い、島津に襲い掛かるも、島津の命を捨てた猛攻の前にひるむ。

 徳川の最終兵器とも言える本多忠勝も蹴散らされるのを見て、本陣は大混乱に陥った。本能的に島津から逃げようとする者たちで、徳川は醜態を晒した。


「待て! 逃げるな! いや、儂を連れて逃げよ!」


 家康も転がるばかりで右往左往している。

 

 その時、佐助兵五百。


「いつも通りである。槍衾を作れ」


 吉興と時康は、本陣脇にあった馬に乗り、佐助兵に命じる。佐助の兵は一個一個は弱兵である。恐れず、騒がず、平常心で、協力しあわねば生き延びられないことを徹底的に叩き込んである。

 この恐慌にあって、英雄豪傑たちは、剣豪たちは右往左往するだけであった。


「分かったであろう、そなたも。戦場にあっては、剣術などいかに無益であるか」


 吉興は、傍らの時康にそう言う。

 時康は、震える思いながらも、ただ、びくともしていない父と同じ視線を共有しようとした。


 今、天下一の強兵、島津軍と、天下人、徳川家康の間を遮る者は、佐助五百の弱兵のみ。だが、その弱兵を、島津は破れなかった。


 馬上同士、島津義弘と佐助吉興の視線が絡み合う。

 そこをどけ、豊前、と島津義弘は目で語っていた。

 行きがけの駄賃で内府の首を貰ってやろう。さすれば豊臣は安泰ぞ、と。

 吉興は目をそらさない。

 睨みあった時間は数秒であろうが、それを見る時康には永遠にも思えた。

 時康の身体は震えていた。視線の先にある、あの薩摩隼人はまさしく一個の英雄である。そしてそれと平然と対峙する父、吉興もまた。

 別に吉興を侮っていたわけではないが、親としては、偏屈な振りをしても割合愛情深い人である。父は何よりもまず父であった。その見慣れた父が、英雄でもあったという事実に、時康は震えが止まらなかった。


 時間切れであった。


 義弘は表情を変えるまでもなく、そのまま、向きを変えると、一目散で離脱に向けて走り去った。


「追えっ、追えーっ! 島津を討ち取れい!」


 吉興と時康の背後では、そう叫ぶ家康の姿があった。

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