第38話

「良い」


 関ヶ原の戦いで負傷し、鉄砲傷を受けて寝込んでいる井伊直政の部屋へ、家康が入って来た。起き上がろうとする直政を家康が制する。


「寝ておれ。これは命令じゃ」

「は、しかし」


 入って来たのは、家康だけではない。他にぞろぞろと徳川宿老らが入ってくる。直政としては実に落ち着かない。

 井伊直政の関ヶ原での抜け駆けの罪は、本陣を守ろうとした功で相殺された。無論、福島正則の了承を受けて、である。

 となれば、大きな顔をして寝ていてもいいのだが、今それを許せる状況にはない。

 徳川の宿老の半数までが、秀忠と行動を共にしたため、遅参について待罪中であるからである。

 本多正信、榊原康政、大久保忠隣、酒井家次、四宿老は仮蟄居中であり、この場にはつく資格が無い。

 出席しているのは、本多忠勝、井伊直政、本多正純、平岩親吉、そして家康のみである。


「すまのの、直政、療養中に」

「いえ、かような姿で申し訳ございませぬ」

「この四宿老で話し合って貰いたい。誰を徳川の世継ぎとするのかを」


 一斉に宿老らは家康に平伏した。


「我らのみで、話し合ってもよろしゅうございますか? 待罪中とは言え、本多正信あたりの意見は聞いてみるべきでは?」


 平岩親吉がそう言う。


「秀忠の処遇が決まらねば、今度の遅参、いかが処分すべきか、対処も定まらぬ。その下の諸将らについても同様。この際、儂は、いったんすべてを清算したうえで、世継ぎを選びなおすことも考えておる。候補それぞれに月旦をなせ」

「大殿、それがしの父、正信は待罪中にて、それがしも謹慎すべきと思いますが」

「正純。それは不問にいたす。宿老らを多く、秀忠につけたため、今この大事な時に使える徳川家臣がおらぬ。そなたが抜ければ立ち行かぬ。そう意地悪を申すな」


 本多正純は、ありがたく礼をした。


「さすれば、世継ぎの候補は四人。秀忠、秀康、忠吉。それと佐助時康じゃ」

「時康殿にございますか?」


 本多忠勝が驚いた声を上げた。


「人品は一番優れておる。信康の直系なれば、血筋で言えば、あれが徳川の嫡流ぞ。それに、時康を擁立すれば佐助吉興もついてくる」


 家康の言葉に、本多忠勝はため息をついた。そして僚友らを見渡した後、意を決して、家康に向き合う。

 酒井忠次亡き後、本多忠勝が家臣最筆頭である。嫌なことも言わねばならない。


「大殿。他の方々はともかく、時康殿はあり得ませぬ。お諦めくだされ。これは家臣一同、同じ思いかと」


 忠勝が平伏すると、井伊は何とか座り、本多正純、平岩親吉らと共に頭を下げた。井伊直政が言葉を継ぐ。


「恐れながら。ここにはおられぬ宿老らも同じ意見でありましょう」

「直政、そなたまでも。佐助とは仲は悪くは無かったと思っておったが」

「そう言う話ではありませぬ。ならば、数え上げまする。

 第一に、時康殿は佐助のご嫡男、佐助が手放すはずがありませぬ。

 第二に、時康殿が万が一、徳川の後継に入ったとして、佐助吉興殿が豊臣方を止めることはあの御方に限って金輪際ありませぬ。時康殿はご実父を敵とは出来ぬでしょうから、徳川の利を毀損することになりましょう。

 第三に、実際はどうであれ、亡き築山殿と信康殿は、謀反の裁きを受けて、死を賜ったのです。信康流は謀反人の血筋。その罪を今更無かったことにすれば、法治の道理が通りませぬ。

 この井伊直政、築山殿は井伊のお血筋でもありますゆえ、信康殿にも目をかけていただきました。殿の悔しさ、殿のご無念、よう分かっておりまする。さりながら。起こってしまったことを無かったことには出来ませぬ。

 こればかりは。こればかりはどうぞ、堪えてくださいませ」

「そうか」


 鉄砲傷の痛みがあり、脂汗を流しながら、息も絶え絶えに、それでいて力強く話す直政を見て、家康は、目頭を押さえた。


「直政の申すとおりよの。老醜であった。済まなんだ。時康は後継から外す。なれば残りの三人、誰が良いか、四宿老の意を聞かせて欲しい」


 されば、と本多忠勝から意を語る。


「順序から言って結城秀康様かと。それがしかねてより不思議でございました。確かに後ろ盾の無い方ではありましたが、あれほど武勇に優れたお方、徳川にとって、まこと誉れかと」


 家康は次に井伊直政を見て、発言を促した。


「それがしは忠吉様が適任かと。此度の戦でも手柄をおたてになられました。他家をお継ぎになられた秀康様、こたびの失態を犯した秀忠様、このおふたりを排すならば、おのずと忠吉様しかおられませぬ」


 家康は次に平岩親吉を見た。


「…秀忠様が世継ぎであったのは相応の理由があったからでございましょう。その理由が消えたかどうかにございます。家臣団中核の三河閥、秀忠様はこれをしっかと掴んでおられます。遅参と言っても、負けたわけではなく、既に秀忠様後継で定まっているところ、入れ替えるのは至難の業にございまする。秀康様、忠吉様が、世継ぎとなって、秀忠様をどう処遇なさいますか。一度は世継ぎであったお方。不満分子を集めやすくなりましょう。もし秀忠様を後継からお外しになられるなら、後顧の憂いを断つためにいっそ切腹を申しつけられるがよろしいかと」


 平岩のきつい意見に一同は、肝が震える思いがしたが、大事な視点だった。秀忠を後継から外したとしてその処遇をどうするか。一度二度の瑕疵があったとして、世継ぎはそう簡単に変えるものではない。変えるならば、信康と同じ処理をせよ、と言ったのである。


 最後に本多正純が意を述べる。


「どうなされるかはまだ分からぬこととは言え、当家は豊臣を滅ぼさねばならぬかも知れませぬ。太閤殿下のご養子であらせられた秀康様、明らかに大坂に同情的でおわします。秀康様のお好みになられる路線は、徳川の利に反します。他家をお継になられた方。その理屈で、後継より排除するしかないでしょう。であれば、忠吉様が継がれた東条松平も、他家と言えば他家にございます。秀康様、ご納得いただくためには、忠吉様を後継とするわけにはいきませぬ。無論、時康殿も同じこと。 徳川と豊臣の縁、複雑に絡み合い、相争えば誰も無事ではいられませぬ。信康様を斬らねばならなかったようなこと、豊臣との間でも起こりましょう。

 その時に、斬れるかどうかです。つまるところ、次のご当主様に求められる資質はそれだけでございます。決断をし、責任を引き受けること、でございます。それが出来るのは、秀忠様のみかと」


 皆の意見を聞いて、家康は、しばらく目を閉じて、考えていた。


「相分かった。なれば秀忠廃嫡は止めよう」


 宿老らの表情にほっとしたものが浮かぶ。

 秀忠を推さなかった者らも、可能であれば丸く収まった方がいいという考えではある。


「しかしの。此度のこと、どう処理をしたものか。本多正信が詫びに来ぬ」


 秀忠から会って詫びたいとの申し入れがあったが、家康はまだ会っていない。榊原康政、酒井家次、大久保忠隣からの詫びの申し出はあったが、どういう事情であったのか、一番話を聞きたい本多正信からは一切、音信が無い。


「正信は何を考えておるのか」

「父は軍師にて。何か思惑があるのかも知れませぬ。さりながら、それがしには分かりかねます。軍師のことは軍師にお聞きになるのがよろしいのでは」


 本多正純の提案に、家康はそれもそうよの、と思った。

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