第39話
黒田長政と藤堂高虎は、大坂に赴いている。
毛利輝元の大坂城からの撤収、家康への謝罪使の派遣、毛利領保全の交渉を、彼らが行っていた。
その間、東軍諸将は大津城にて、状況待ちであった。
諸将控室で、秀忠の処遇についての話になった。
遅参をしたことで、東軍を無暗に危機に陥れたこと、言うか言わないかは別として諸将には不満と怒りがある。
「やはり、廃嫡となられるであろうな」
福島正則が言う。
そうよの、という声が上がる中、ことさら、佐助吉興は一笑してみせた。
「だからそなたは、考えが甘いというのよ」
「なんだと?」
「本多正信が軍監として付いていて、遅参などするはずがあるまい」
「だが遅参したではないか」
「だからそれが遅参ではないのだ」
吉興がそう言えば、諸将は、あっ、と顔を見合わせた。
「まあよい。遅参して徳川に何の利があるか。少しはそなたも知恵を絞って考えて見よ」
それだけ言って、吉興はまた隅に戻って、目を閉じる。
「ちっ、才を頼んで嫌な奴じゃ。豊前、そなたは治部少輔の真似でもしておるのか」
苛立った福島正則を、吉興はもう、相手にはしない。
しかし諸将の思考には修正の補助線が引かれた。
遅参ではない可能性。
迂闊さではなく、謀略である可能性。
例えば。
徳川が東軍諸将を信用しきれなかったならば、虎の子である秀忠を温存することはあり得るかも知れない。家康が敗走したとしても、中山道を辿って、関東へ抜けるのは容易い。すぐ近くに秀忠がいるからである。
実際には、小早川らが西軍を裏切ったのだが、東軍から裏切り者が出る可能性はあった。豊臣恩顧の者らが多く、しかも大坂に人質を取られているのだ。
関ヶ原を、家康がただ単に真に敵味方を洗い出すための前哨戦と位置づけていたならば。
内通者がいるかも知れない危険な戦場に、徳川の主力を投入はしないだろう。
実際、徳川の実戦部隊のうち、最強とも言うべき本多忠勝と井伊直政は家康に付けられているが、これは家康本陣の薄さを胡麻化すための策ではなかろうか。
数量的な意味での主力、酒井党も榊原党も大久保党も秀忠につけられている。何よりも、軍師たる本多正信の姿が家康の傍らに無い。
家康は我らを疑っていたのか。
その可能性に気づいた諸将らは、愕然とも憮然ともなった。
その時、吉興が呼ばれて、家康の面前に伺候する。
「何やら控えの間で胡乱なことを申したそうだが」
「本多正信殿の策に乗った迄でございます」
「それよ。本多正信は何を考えておるのじゃ。なぜ未だに謝罪に来ぬ。あれが付いていて、そもそもなぜ遅参などしたのじゃ」
「それがしが内府様の傍らにおりましたゆえ。大抵のことならなんとかなると思ったのでしょう」
「…どういうことじゃ」
「内府様すでに御年にて。いつ死んでもおかしくはありませぬ」
「む」
「しかしさすれば天下の覇業なりませぬ。事業がなせるようにするには、秀忠殿の評判をあげることでございます」
「それが遅参と? 分からぬな」
「遅参はあくまで結果でありましょう。毛利が動かなかった、小早川が寝返った。あれがなくば、軍師ならば素直に読めば、先に布陣するであろう西軍有利と思うはず」
「ふむ」
「戦が膠着するか、あるいは敗れるか。そこへ、秀忠殿の軍が一気呵成に横から食らいつきます」
「そう上手くいくか」
「まあ、五分といったところでしょうか。博打故、悪手です。しかしながら、本陣にはそれがしがおりますからな。今の状況で、内府様の命、それがしが見殺しにするはずが無いと正信殿はよう承知。畢竟、内府様さえ生きていれば、それでもなお、徳川の兵力は、西軍の二倍以上」
「あやつめ、儂をも餌に使ったと」
「さようにございます」
「ならば会いに来ぬのはどういうわけか。そもそも秀忠の評判はどん底よ」
「それでございます。ただの遅参ならば、秀忠殿の迂闊。天下より侮られましょう。さりながら、元々、徳川の中核を温存するための謀略であれば」
「なんと」
「要はそういう計画があったと、諸大名に思って欲しいわけです。秀忠殿は、悪名を得ましょうが、それもまた天下人の器量の内。侮られるよりはずっとましにございまする。
すでに、榊原殿、酒井殿、大久保殿、三宿老の謝罪がありました。これ以上、謝罪を重ねれば、茶番があったことを匂わせられなくなります」
「だから何も言って来ぬと」
「正信殿、内府様よりお声がかかるのを今か今かと待って居りましょうな」
佐助吉興の提言と説明を受け、家康は、秀忠と本多正信を召喚、ひととおり叱責した後、そのまま、一切合切を不問に付した。
これにて、諸侯は、吉興が匂わせていた謀略があったことを確信したのであった。
秀忠殿、表裏ある油断ならぬ方、とは思われても、侮りの声は一切、消失した。
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数日後、家康は大坂に入った。
冢宰として、乱が起きたことを、秀頼に謝し、豊臣自身の責任は問わないことを早々に明らかにした。但し、北政所については別儀である。
北政所の処遇について、三成の糾弾があったことも踏まえて、家康は天下普請として、北政所御所として、高台寺の造営を決定した。
一方で、北政所人脈に直接つながる、木下氏、三好氏(豊臣秀次の父およびその実弟)については理由をつけて、所領召し上げとした。
家康による諸大名大粛清が始まった。
佐助屋敷は無事であった。
吉興と時康は、家族との再会を喜び合う。
「吉興殿、用地の確保を命じられたよし。屋敷を移転するのでしょうか」
見星院が問う。
「いえ、宗興と吉清、別家を立てさせようかと思いまする」
「なんと」
「無論、まだ元服をさせたとは言え、わらべ同然にて。この屋敷から出すわけではありませぬが、先のことは分かりませぬからな。こたびの戦では、真田、前田、九鬼、生駒と、家が分かれて生き残りを図った例が随分ありました。佐助もいずれはそう迫られるやも知れませぬ」
「織田も秀信殿は取潰し、秀包叔父と信雄兄上は残りそうですが」
「それと同じことでございます。幸い男子が三人いるのですから」
「では豊前にて、分知なされるおつもりか」
「いえ。おそらく知行が増えましょう。国移りになるやも知れませぬ。それ次第でございますな。ただ屋敷の用地は早々に手を打っておかねば、後手になるほど、良き場所が先にとられてしまいますからな」
吉興は石田屋敷に目をつけている。大坂城にも近く、土地も広い。そこを分割して、次男宗興と三男吉清の屋敷をあつらえるつもりである。
加増厳封改易が行われた結果、徳川一族およびその直臣を別にすれば、最大の版図となったのは百二十万石の身代となった前田利長である。利長は弟利政の領地も得て、北陸の雄となった。
ただし、利長には子がいない。今度のことで、利政ならびにその系の甥に後を継がせることは難しくなった。にわかに、利家が晩年、側室に産ませた利常という子を養子としている。芳春院は、自分の血筋以外の者が前田を継ぐとあって、悔しい思いをしているだろう。
島津義弘は薩摩に生還を果たし、義久とも仲直りをして、国を挙げての抗戦の構えを見せた。家康としては、島津を取り逃がしたのは痛かった。相手は日本一の強兵である。いざ、島津征伐の兵をあげれば、徳川の天下にもほころびが出るかも知れない。数年に及ぶ交渉の後、島津は結局、六十二万石、本領安堵となった。
伊達政宗は東軍について上杉を牽制したにもかかわらず、味方の諸侯領にちょっかいを出して領地をかすめとるという相変わらず姑息な振舞いをしたため、罰として一万石の加増、六十一万石の身代にとどまった。
佐助の身代は、前田に次ぐ、七十五万石となった。
そもそも佐助に大功をあげさせぬために、寡兵での従軍を強いた家康であったが、実際には佐助は大功を挙げてしまった。
関ヶ原の戦いで、本陣を守り抜き、家康の命を守ったこと。これも大功であるが、それだけならばせいぜいが五十五万石程度への加増であろう。
より大きな功績は、秀忠の立場を守り、徳川の継承を盤石としたことであった。これは表向きには言えないことなので、この偏重ぶりには、諸侯は、家康の時康への偏愛ゆえと解した。その見方を強化するように、今日における国宝、重要文化財である宝物数点、香炉千鳥、九十九髪茄子、会津正宗、卜部兼永写本古事記が時康へ、家康から贈られている。九十九髪茄子は今回のことで、豊家より詫びとしてせしめたものを、家康がそのまま時康に与えたものである。
この四点に、以前に徳川から与えられていた備前高宗、蜂香炉、梨茶壺の三点、見星院から佐助に伝えられた蘭奢待(見星院が信長から下賜されたものである)、佐助に代々伝わっていた鎌倉本吾妻鏡を加え、計九点を、同家では以後、九宝と呼び、代々、伝えてゆくことになる。
良い道具を手に入れたこともあって、時康、宗興、吉清はこれ以後、茶をたしなむようになる。特に宗興は細川忠興の弟子にもなり、利休の茶統に位置づけられ、台子の奥義も継承することになった。号をとって、一斎流の祖となった。
七十五万石の内訳は、豊前と豊後、まるごとの支配で七十一万石である。他、畿内御料として、かつての旧領であった山城国大原一万石を与えられ、関東御料として、相模国鎌倉二万石を与えられた。かねてより佐助が管理していた筑前国の島嶼部も、正式に佐助の領に組み入れられそれが一万石である。
鎌倉については、朝廷の許諾を得たうえで、吉清を北条姓に復帰させたうえで、赤橋の名跡を継がせ、所領として与えた。赤橋吉清が鎌倉二万石の領主である。鎌倉を得たことから、吉興は吉清を通して、私財をつぎ込んで、寺社旧跡の復興に尽くしている。
宗興には大分にて五万石を与えている。
佐助は小倉藩(豊前藩)六十八万石、大分藩五万石の二家体制になった。鎌倉藩二万石赤橋家については、別家扱いであり、本家が滅んでも鎌倉北条氏の血統を残すために「佐助」には組み込んでいない。
そう、吉興は、ここからが波乱の本番だと見定めている。
豊臣の軍師であり、徳川の縁戚である佐助は、誰よりも危うい道を進まねばならない。佐助宗家六十八万石、とうてい安泰とは思えなかった。
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