泥流

第40話

 慶長八年三月、落成したばかりの京、二条城において、徳川家康は、武家伝奏、広橋兼勝ならびに勧修寺光豊を迎え、将軍宣下の宣旨を受けた。居並ぶ諸大名、その上座には、この儀の武家側の責任者として、佐助吉興、前田玄以、板倉勝重が諸侯から離れて控えている。

 佐助吉興と前田玄以は、京都奉行経験者として、豊臣政権と朝廷のつなぎ役となり、公家朝廷に相応のつながりを持っている。板倉勝重は、新たに発足することになる幕府の最初の京都所司代として、先の両名から指南と引継ぎを受けている立場である。

 前田玄以は、豊臣五奉行の一人であり、西軍に加担したにも関わらず処罰を受けなかった。この日のために生かしてあったと言って良い。石田三成、長束正家は処刑され、増田長盛は改易のうえ高野山送りとなったにも関わらず、である。

 この日、家康は征夷大将軍、右大臣となった。

 その最初の任として、武家官位の任官がなされ、多数の諸大名が昇進、もしくは新たに官位を得ている。


 佐助吉興は従三位権中納言となり、佐助時康は従四位下豊後守となっている。佐助宗興、赤橋吉清もそれぞれ、官位を賜り、正五位下対馬守、従五位上伊豆守となった。


 佐助吉興の構想は、公武両頭体制であった。

 吉興は豊臣の天下はどうあがいても続かないと見定めていた。力がある者にしか天下は収められないし、その力があればそもそも太閤薨去後、こうも乱れたはずがないのだ。

 吉興の意図は、秀頼の生存、ただそれのみである。

 出来れば豊臣の家格を保った上で、穏やかに権力移譲をなしたい。


 信長の極官は右大臣だった。だからこそ、秀吉の官位が上回ることで、天下の権を織田から速やかに移すことが出来た。

 豊臣から徳川の場合はその手は使えない。関白の上は、天皇しか無いからだ。

 幸い、征夷大将軍が空位であった。

 征夷大将軍は、すべての武家に指揮権を持つ。

 豊臣も徳川も、公家であり武家である。

 官位においては、つまり公家としては豊臣が上位。

 武家としては徳川が上位。

 そして実権は幕府が持つ。

 そういう形での決着を図ろうとしたのである。

 奉公の関係は、武家の関係であるので、吉興は妻子を江戸の屋敷に移した。まだ、徳川では大名子弟を江戸に置く大名証人制は始まっていない。

 自発的に行っているのは、この時期では、前田と佐助のみである。

 豊臣と徳川をつなぐためには、吉興は、家康の信を得なければならないのである。


 将軍任官の儀式が一段落した四月になって、二条城で、家康は内々の「身内」の祝宴を開いた。

 列席したのは家康自身の他、阿茶局、お梶の方、お亀の方、お万の方、今川氏真、そして佐助吉興だった。


「おお、そなたが名高き軍師殿か。会ってみたいと思ってたのよ」


 上機嫌で、今川氏真が盃をあげる。


「今川様には、お初にお目にかかりまする。吉興、とお呼びくださいませ」

「なんと恭しい仰せよ。官位でも領地でもそなたが上と言うに」

「兄上、これの室は今川の血筋なれば」


 家康は、氏真を兄と呼んだ。

 元々は仲の良い幼馴染である。間、様々な恩讐があったとは言え、すべてを流して気の合うただの竹馬の友として付き合う、それが許されるだけの地位を家康は築いた。

 氏真がいる時は、家康も案外機嫌がいいので、三河武士にとって、今川は仇であるが、最近は氏真も重宝がられている。そもそも、従前的な意味での三河武士は今の家康の周囲にはほとんどいない。

 板倉勝重も本多正純も、三河武士ではあるが、出自が僧であったり、流浪の時期があったりして、普通の三河者ではない。


「時康殿がいらっしゃればよろしかったのに」


 阿茶局がそう言う。この女性は溶姫の代母であり、時康の室、安姫の代母でもあった。佐助とも縁が深い。

 時康は正真正銘、今川の血筋である。母方の曾祖母が、今川義元の妹の娘であるから、氏真とは七親等離れている。ぎりぎり親戚と言えなくもない。


「時康は大坂にて、秀頼君のご機嫌伺に参上しております」


 家康の将軍任官に豊臣は揺れているであろう。

 今しばらく、吉興が京を動けない以上、時康を差し向けて、淀殿の疑心を宥めねばならない。


「なかなか難しいお立場であるの。それがしのように国も失くせば身軽ではあるが」


 氏真は軽口をたたいたが、吉興は流さず、


「まことに。こたびはそれがしも今川様を見習う所存」


 と言った。


「はて」

「婿殿。そはいかなる存念か」


 家康がのぞき込むようにして言う。


「この際隠居しようと思いまする。不惑も当に越え、さすがに老いました」

「儂よりも随分若いではないか。儂一人に苦労を負わせるつもりか」

「いえ、上様のご苦労を軽くせんがためにございます。領国のことは時康に委ねて不安はございませぬ。身軽になって、上様と大坂の間を結ぶつもりにございまする」

「む。そなたの考えは分かるが。時康も確かに六十八万石、預けて不足はなかろう。さりながら」

「それがしは豊臣の臣にございます」

「む」

「しかしながら、時康は別に太閤殿下に何をしていただいたというわけではございませぬ。あれのことはあれの思うようにさせるつもりでございます。上様の初の曾孫にございます。なにとぞ、お守りくだされますよう」


 佐助六十八万石、すべてあわせれば七十五万石は、吉興にとっても重い。家臣家族併せれば六万人以上を養っている。吉興の個人的な義理につき合わせるわけにはいかない。

 場合によっては。

 豊臣の将として、命を捨てる覚悟、と家康は見た。


「隠居の件は許そう。確かにその方が動きやすいやもしれぬ。時康のことは儂が面倒を見ようぞ。そなたの策、儂はあれには同意であるのだし、大坂が呑めば決して弓矢のことにはなるまい。大坂に長く付いた方が説得もしやすかろう。確かに、将軍に仕える大名としてはやり辛いこと」

「有難き幸せ。なれば天下御免にてどこにでも参上することをお許しきださいませ」

「まあ、江戸にも珠には顔を出すようにの。この儀が済めば、儂が畿内に出ることもそうそうなくなろう。おコウを寂しがらせぬようにの」

「はっ」


 この年の七月の終わりに、吉興は家督を時康に譲り、官位も返上している。

 それまでの三月の間に、吉興は豊前藩の基礎工事をあれこれなした。

 豊前重法度の制定もそのひとつである。

 これは家憲のような精神論を記したものではなく、制度、手続きを具体的に定めた憲法のようなものであった。制度、手続きは具体的だったが、実際の案件については、法の精神のみを記し、敢えて曖昧に書いてある。法の精神に沿って、時代時代に沿って適切に解釈せよ、としたのである。

 幾つかその具体事例を記す。


 裁判は先例主義に乗っ取り、拷問による自白の強要を禁止した。


 死刑については、藩主の直裁とし、武家が無暗に領民を殺めることを禁じた。


 米穀はすべて藩の専売とし、百姓は米穀を全納し、米価に応じて銭が支給された。飢饉に備えて一年分の備蓄を義務付けたため、領内で消費される米はすべて前年の米であった。


 すべての村落に郷鎮が置かれ、常在の役人が派遣された。郷鎮は人別管理の他、作付け状況の報告をなし、警察機能と裁判機能も負った。また、牛馬を管理し、百姓に貸し付けた。郷鎮には藩営の商屋が置かれ、比較的安価に、手にした銭を使う場所を提供した。藩営商屋は、営利目的ではないとは言え、年五分程度の利益を上げ、藩財政を支えた。


 切支丹は禁令とされた。発覚次第、他領への追放処分となった。


 実学舎での授業についても言及されている。

 教養として儒教道教の講義は行われたが、実学重視の姿勢を維持するよう、厳命されていた。重視されたのは国史、算術、計数である。


 この計数重視の姿勢を受けて、吉興は実務においても統計の方法に干渉している。すでに、ならい値、なか値、おおき値の呼び名で、平均値、中央値、頻出値の違いが徹底され、統計の嘘が生じないよう、求めている。


 そこまでやってから、吉興は時康に引き継いだ。

 諸般の事情で、豊前重法度は、長らく、時康の制定ということになっていたが、実際には吉興の思想そのものである。

 切支丹禁令のみ過酷であったが、ここで追放に踏み切ったので、切支丹弾圧が全国規模で過酷化していった時に、豊前豊後ではすでに切支丹がいなかったため、残酷な策をとらずに済んだという面もある。


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 吉興は、京四条、喧噪やかましい町中に、庵をあんだ。道崇庵と、それらしい名をつけているが、素朴な町屋である。表向きは、史講ということにして、町の者からは、道崇先生と呼ばれている。

 ここに住むは、お菊という飯炊き女、忍びが三名、供回りとして武士が一名のみである。その武士はまだ若く、名を今枝次郎座右衛門成清と言った。装飾も無い名だから、東百官から一学という爵位のごときものを与え、吉興は今枝一学と呼んだ。

 吉興は一学を気の毒がっている。

 時康と同年であり、その側近にと思い、早くから傍につけていた者である。吉興はむろん、以前から顔見知りで、陽気で真っ直ぐな性格を好ましく思っていた。

 吉興は、もともと道崇庵には、武家を置くつもりはなかったのだが、時康がどうしても護衛をということで、一人だけは受け入れた。逆に言えば妥協して、一人のみである。

 そうなると相当な剣の腕前が必要で、豊前家中、そんな者は一人しかいなかった。なにしろ、徹底的に英雄豪傑を排した家風である。時康の側近であったため、大坂の道場に通い、柳生新陰流の免許皆伝となっていた今枝一学くらいしか、役が務まる者はいなかったのだ。


「済まぬの。そのうち、時康に申して入れ替えてもらうからの」


 隠居の護衛は、控えめに言っても閑職であろう。本来なら、六十八万石の藩主の側近として、辣腕をふるっているはずの男である。


「いえ、なにとぞその儀はご容赦を。それがし、ご隠居様に心酔しております。今の役目はまことに誇らしく」


 今枝自身は、今の役目を他人に譲ってなるものかと思っている。実際、おのずと吉興の話し相手になることも多いのだが、いちいち目が覚める思いがする。こう言っては何だが、諸事に通じ、軍師の視点で再構成できる吉興は、一流の噺家なのだ。知的に優れている者であれば、最上の娯楽といっていい。

 吉興は、一学には負い目があるので、扱いは優しい。


 その一学のみを供として、今日は小倉、明日は江戸、あさっては大坂と歩き回る日々を吉興は過ごしている。

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