第60話

 江戸より船に揺られて、コウ姫が大坂城に入ったのは一月二十五日のことであった。


「船に揺られ揺られて、もう死んだ方がましと思いましたよ」


 コウ姫が脇足にもたれかかるのを、吉興が背中をさすっている。


「ああもう、じれったい。着物の中に手を入れて、直に背中をさすってくだされ」

「亭主をいいように使いおって。我儘な姫様よのお」

「妻子を放りっぱなしのあなた様に我儘と言われるとは、私の我儘も天下一、それほどになれば自慢でございましょう」

「むう。だいたい、船に慣れておらぬは分かり切ったこと。大坂に来るとしても、陸路でくれば良かったではないか」

「しょうがないでしょう。あなた様はあちらかと思えばこちらと神出鬼没。上様の心も変わるやも知れず、今を逃せばお会いできるのはいつになるやら」

「そうか」

「あなた様。はやる気持ちで駆け付けた妻に、ねぎらいの言葉一つないのでございますか」

「…よう来てくれた。会えて嬉しいぞ」

「まあ、それくらいで許して差し上げましょう」

「おや白髪が」

「嫌な方。気の利いた御仁ならば見て見ぬふりをしましょうに。染める暇もなかったのですよ」

「いやいや、そなたが髪を染めていたとは知らなんだ」

「京大坂、遠く離れていたからでございましょう? 私を放っておいて。私も不惑を過ぎましたのよ。いつまでも、幼い姫ではありませぬ」

「そうか、そうであったな」


 息の落ち着いたコウ姫は、そのまま、吉興に身を預けた。


「殿」

「む」

「大殿とお呼びすべきでしょうが、私にとりましてはあなた様は殿」

「それでよい」

「もうよろしいのではないですか」


 何が、とは吉興も聞かなかった。


「あなた様と夫婦になって三十年、うち半分は別居にございます。私ももう、もう、疲れました」

「すまぬな」

「あなた様が豊臣が大事なのは分かります。だからこそ、今までは、黙っては、おりませんが、なるべく文句も言わずに送り出して来たのでございます。此度の奉公、もう十分にございましょう。小倉は私、行ったことがありませんのよ。小倉が騒がしいなら、宗興のところにでも、隠居小屋を建てて貰って。別に着物とか新しく買えなくても構いませんの。いままでの分は持って行きますが。天下のことなど何一つ耳に入らぬようにして、二人で老いてゆくのもいいではありませんか」

「そうできればよいのだがな」


 吉興は手を握って、しみじみと言う。

 この、しみじみ、が曲者なのだ。

 コウ姫は、これまでこのせいでほだされて、寄り切られてしまっていた。

 しかし今度ばかりは、コウ姫も本気である。妻のたしなみも何もかも捨ててかかる覚悟であった。


「幕府よりは、今の佐助とは別途にあなた様に五十万石の加増の話がありました」

「ほう」

「左様な物のためにあなた様が動くとはさすがに私も思ってはおりませぬが」

「まあ、そうよの」

「豊臣と私、どちらが大事なのです?」


 こればかりは死んでも言わないでおこうと思っていた言葉。

 コウ姫は切り札を切った。


「豊臣から出なければ私が死ぬと申せば、あなた様はどうなさるのです?」

「おコウ。儂にとって大事なのはすべて、そなたがもたらしてくれたものぞ」

「胡麻化されませぬ。私と豊臣、今この場でお選びくださりませ」

「おコウ。儂にとってはそなた以上に大事な者はない。ならば聞いてもらおう。儂がなぜ、豊臣を見捨てられぬか、そもそもの理由を。これを話すは儂にとっても血を流すも同然ではあるが、そなたの覚悟には応えねばなるまい。そのうえで、そなたが儂の妻として、儂の事情を捨ててでも、豊臣から離れよと申すならば、そなたの言う通りにしよう。誰から後ろ指を差されても、そなた以上に大事な者はおらぬのだから」

「殿」

「さあ、覚悟してお聞きになられよ。あれは天正元年の冬であった ― 」


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 領地を失いし、国人など哀れな者。

 浅井が滅び、知行も無くなり、領地は横領され、何もかもを失って儂らは寺に身を寄せた。佐助の菩提寺での。それはもうむかしは下にも置かぬ扱われようであった。しかしそこからも追い出され。

 羽柴様が長浜にお入りになられるまでは、織田の直兵が浅井の残党狩りをしておって、寺と言えども匿っていれば同罪になる。やむを得ぬとは言え、とんだ手のひら返し、寄る辺も無く、不安であったの。

 ようやく葦野に捨て小屋をみつけ、そこに病の父と、幼い弟と、幾人かの家臣と入った。土間に寝るような暮らしで。食い物もなく。

 漁師が憐れんで「落としてゆく」魚を拾い、なんとか夜中に近在の寺や商家をめぐって昔の縁で米を貰い。それで凌ぐと言っても凌ぎ切れるものではない。

 いつも腹をすかせて。

 その頃、弟が熱を出して死んだ。思えば、半ば餓死であったのやも知れぬ。可愛い弟であった。しかしの、その時、儂はこう思ってしまったのだ。弟の食い扶持が減って、助かると。

 その鬼のような思いに気づいて、呆然となったのは、もう少し暮らしがよくなってからであったの。地獄の最中には、そう気づくだけの余裕もなく。

 本来なら縁戚を頼って他国へ逃れるべきであったのだろうが、父を動かせなんだ。早く死んでくれ。儂はそう思っていた。

 儂はさような鬼畜であった。かなり長い間な。人がましくなれたとすれば、それはそなたがそうしてくれたのよ。だからの、そなた以上に大事な者はおらぬ。これはまことのことぞ。

 養いきれぬゆえ鎌倉以来の股肱も一人去り、二人去り、ついには橘内長久のみとなった。

 ある時、寺がな、米を呉れるというので夜半に一人で行ってみれば、四人の坊主に手籠めにされて、犯されたが、米を多めに呉れた故、何も言わなんだ。

 儂はの、そうやって汚くも生きて来たのだ。本来、そなたのような姫御前の夫となれるような身ではない。だから怖かった。そなたには知られたくなかった。愛想を尽かされるのが怖かった。

 そなたには、そなたにだけは、煌びやかな鎌倉北条氏の末裔、その御曹司と思っていて欲しかった。しかし儂は全然そのような者ではない。乞食以下の、地べたを張って生き延びた虫けらのようなもの。

 やがて父が病、いよいよ重篤になり。

 羽柴様が長浜にお入りになり、小姓をお求めになっておられると聞いて。儂は唯一残っていた相応の衣装を着て、城に赴けば、運よく採用していただけだ。

 竹中様に見いだされるはもう少し先の話よの。

 その前の話じゃ。

 羽柴様は公明正大なお方ではあったが、小姓の給金などは、雀の涙であった。小姓とはそもそもそういうものなのだ。親元から仕えるのであるからな。小遣い銭程度でしかないのだ。

 だが儂はそれで父と家臣一人を養い、父の薬代を出さねばならぬしな。あのぼろ小屋にもいつまでもおられぬ。城下に家を借りれば、その支払いもせねばならず。小姓であるからな。親がいるのが本当なれば家屋敷も下賜はされぬのじゃ。

 儂は衣服と言えば一枚きり。替えもままならず。

 臭い臭いと言われての。

 庇ってくれたは佐吉殿と虎之介殿のみ。佐吉殿からは、古着を頂いたの。あの頃はあれも、楽な暮らしではなかったであろうが。

 そうじゃ、佐吉とは石田三成、虎之介とは加藤清正のことぞ。

 豊臣のことを頼むと、儂は佐吉と虎之介から遺言されておる。

 ある時の、賄いで、小姓らのために握り飯が山盛りになって出ていて。一人だいたい二個じゃ。しかし儂は、父と橘内にも食わせたくての。

 四個失敬して、懐に入れておった。

 それを見とがめた者がおっての。

 盗人がおるということで、儂が袋叩きにされそうになっておるところを、羽柴様、秀吉様が通りかかられて、事情を聴くため、儂を別室に連れていかれた。

 こうなっては観念せざるを得ず。

 洗いざらい事情を話し申し上げた。

 見れば、秀吉様は、大泣きに泣いておられた。そしておもむろに手を突き、そなたのことまで気が回らなかったことは主としての落ち度、と詫びられた。そして、仰せになった。

 今後は必要ならば、いくらでも賄いから物を持っていけ、と。ただし羽柴秀吉の家臣が、盗人の真似事をするな、と。

 儂はあの時にこそ、秀吉様の家臣となったのだ。

 それからはの、屋敷も与えられ、衣服も支給され、米も届けられ。北政所様の何かにつけ気配りいただいて。

 分かって下されよ、おコウ。

 儂は秀吉様が助けてくださらなんだら、一日たりとも人がましくはいられなかったのだ。

 なにゆえに豊臣に尽くすかと人は言うが、突き詰めれば、あの小汚い盗人の小僧であった儂のために、秀吉様が泣いてくださったからじゃ。

 その御恩。海よりも深く空よりも高い。いまだかけらもお返し出来てはおらぬ。だからの。だからの、人であるためには、儂は豊臣を捨てられぬのよ。


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 コウ姫は、吉興の腕に抱かれたまま、その美しい赤い羽織が涙で濡れるがままにしていた。

 吉興の両腕は震えていた。

 コウ姫に愛想を尽かされるのではないかと、怖れで震えていた。


「私もあなた様によって人形から人にしていただきました。なれば、秀吉様は私にとっても恩人にございますね。吉興様、いついつまでもお慕い申しております」


 コウ姫はそのまま、全身を吉興に預けた。


「分かりました。なさりたいようになさりませ」

「おコウ、いいのか」

「その代わり、私も大坂城に留まりたいのですが ― 」

「儂一人ならばともかくそなたまでも豊臣に加担すれば。さすがに時康の重荷になろう」

「仰せの通りにて。わかっておりまする」

「儂も子らのことは愛おしい。時康を支えてやってくれ」

「承知いたしました。努めまする」


 十日ほど、共に過ごした後、コウ姫は大坂城を離れた。

 それがこの夫婦の永訣となった。

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