第25話
今、家康がいなくなればどうなるか。
天下の差配者がいなくなる。
秀頼が天下を総攬することは出来ないが、家康以外の誰が補佐役に立っても、まとまらないだろう。
天下は再び混乱する。
前田が家康から露骨に狙い撃ちされた。
利長は金沢に籠り、豊臣家による仲裁を期待したが、淀殿らは動かなかった。吉興もどうすれば良かったのか、確信があるわけではない。
吉興は登城し、傅役の片桐且元を通じて、ここで前田を見捨てれば、大名一同からの信頼を失うと説得した。
しかしこの時期、家康は淀殿に対しては徹底的に下手に出ている。演じようと思えばいくらでも好々爺を演じられる男なのだ。
三成が去って、大坂城の人物には二線級しかいない。
吉興は北政所を頼った。
「豊前殿の仰せは正しいでしょう」
「なれば、豊臣が動かねば、豊臣が信用を失くしまする」
「さりながら。淀殿は。何もしなければ立場が悪くなることは無いとお考えの様子。それも間違いとは言い切れませぬ。家臣同士の争いなのですから」
「北政所様。天下とはそもそも私戦を禁ずるものでございます。私戦を禁じられねば、天下とは申せませぬ」
「天下ではないのですよ、もはや」
「北政所様」
「理から言えば、政務を総攬する家康殿に理がありましょう。理とは無理を押し通す力。ここで誰が仲裁に入っても、そもそも家康殿は、やり抜くおつもり。のらりくらりと躱しましょう。そうなれば、無視された仲裁役はいよいよ権威を失うは必定。豊臣が腰をあげて、家康殿と戦をするというならばともかく」
「戦をも、ご覚悟すべきかと」
「これは豊前殿とも思えぬお言葉。勝てますか」
「少なくとも、この豊前、ここで命を使い果たすつもりです」
「そなたがそれほどの覚悟を決めねばならぬ状況なのではないですか。且元殿であれ、誰であれ、家康殿が君側の奸をこしらえれば、豊臣恩顧ですら割れましょう。よくて五分。そうではありませんか」
「最善の道はむろんながら、ましな道を選べることすら、世においては稀でございます。まだしも悪くない道を選ぶが、必定かと」
「勝ったとして、どうなります。家康殿も利家殿もいなければ、天下をまとめる者がいなくなります。豊臣は足利将軍家のような、無用の長物に成り下がるが関の山」
「さりながら。秀頼君はお命をつなげられましょう」
「豊臣がこうなったのは天運が尽きたからです。こうなったから天運が尽きたのではありませぬ。思えば、正室たる私に子が出来なかったところから始まって、秀長殿が身まかり、亡き夫は利休殿、秀次殿を殺め、とつ国との戦をなし、恩顧諸将の亀裂を深め。まるで天が差配しているようだとは思いませぬか」
「なれば。秀頼君のお命はどうなってもよろしいと?」
「いいえ。難しい道なれど、我らは探らねばなりませぬ。さりながら。まずは天下。半兵衛殿がご健在であれば、さように仰せでしたでしょう」
「師が健在であれば、そもそもかようなことにはなってはおらぬでしょう。ひとえにそれがしの力不足で」
平伏する吉興に、北政所は微笑んだ。
「それは違いますね。これはことごとく亡き夫の器量というものでしょう。天下を獲る器量はあっても、それをつなげる器量は無かった」
「北政所様」
「その器量があればそもそも、官兵衛殿やそなたを遠ざけますまい。秀頼を私に委ね、私の立場を強くしていたでしょう。これでも、夫と共に天下を一度は獲った女ですからね」
「北政所様。あるいは亡き殿下をお恨みでいらっしゃいますか」
「いいえ。あれは私の夫であり子のようなもの。責めても、恨んだり嫌いぬくことは出来ませぬ。秀頼のことも。なさぬ仲ではありますが、秀頼が討たれるようなことがあれば、あれがどれほど悲しむかと思えば、無下には出来ませぬ。しかし私は秀頼の母ではない」
「さりながら」
「しかしまずは天下。豊臣は正道をなす家なのです。そこを違えてはなりませぬ。秀吉と私がこしらえた家です。天下のためにこしらえた家。天下の禍となすことがあってはなりませぬ」
「前田のことは。お松様とは御昵懇にて、豪姫様のお里にございます。捨て置かれるおつもりでしょうか」
「利長殿は、聡い子です。豊臣から支援が得られぬと分ればどうすべきかはお分かりのはず。あれで、数々の苦難を乗り越えて、大大名になった家です。お松様も、非凡なお方なれば、道を間違えはしないでしょう。そして、今、一等最初に家康殿の標的になっておくのは、前田にとっても悪い話ではありません。お分かりですよね」
「は」
この危機を逸らして、前田が徳川に恭順すれば、一番最初に徳川に降った大名家ということになる。そうなれば、前田家は徳川家の天下にあっても、相応の立場を得られるだろう。
前田が先に豊臣を裏切るのではない。豊臣が先に前田を見捨てれば、前田も利家の遺命に縛られずに済む。
「あるいは、それが北政所様の狙いでしょうか」
「どうでしょうね。ただ。お松様と利家殿は、子の無い私を憐れんで、豪姫をくださったお方。血のつながらぬ私でさえ、豪姫を思えば、切なくなるのですもの、どれほど身をさかれるお思いであったことか。それを敢えて、私と秀吉のために、慈悲の心でなさってくださったのです。前田の家は何としても守らねばなりませぬ」
「今、豊臣が前田に与するよりもその方が良いと?」
「そもそもが義理を忘れて、前田を見捨てようとするような者たちですよ。何かあれば、前田など切り捨てられましょう。それならば、前田をくびきから解き放つほうがよろしいでしょう」
前田はこの時はまだ百万石ではないが、豊臣の蔵入地を含めればそれくらいにはなる。家康としても、潰すならばかなりの無理をせねばならない相手だ。それが、恭順してくれるのであれば、厚遇するに十分な存在に変わるだろう。
前田にとっては天下が豊臣であろうが徳川であろうが、平穏無事であることが大事であるはず。
そもそも、やむを得ぬとは言え、前田は一度は柴田について、豊臣に抗った家である。その責を、秀吉もおねも一度も問うことは無かった。この夫婦にとって、いかに前田が大事な家であることか。
ただし、前田を救うとしても、その策は真っ直ぐではない。そこは北政所も乱世を生き抜いた女であった。
前田利長は武を解き、家康に全面恭順した。
生母、おまつ、利家没後落飾して芳春院は、旧知の、徳川秀忠室・お江の機嫌伺の名目で江戸に降り、江戸に常在することになった。事実上の人質である。
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