第45話

 大坂城はあたかも敵地のようであった。

 江戸城にて年賀拝礼があるために、既に正月に豊臣の城に拝礼に訪れる大名はほとんどいない。そのままずるずると機嫌伺にも来ない。

 佐助、加藤、福島、浅野の四諸侯は、そうした者らとは一線を画し、豊臣の武将であり続けている。言わば身内のはずであるが、縁の薄い大名らはそもそも大坂城を訪れない。

 大坂城に常勤する者らにしてみれば、この四諸侯ですら、大坂と江戸を天秤にかける不忠者でしかない。


 と言っても居並ぶのは小物ばかりであった。

 大坂城大広間。久しぶりに天下人に相応しい行事として、四諸侯拝謁の場として華々しい場が用意されたのは良かったが、居並ぶ豊臣の直臣たちが、どれも小物であった。

 家老職にある片桐且元が所領二万六千石、これが一番の大物なのである。

 徳川、前田、毛利、上杉らを従えていた大豊臣の面影はすでに無い。


 上座には前右大臣、豊臣秀頼。既に数えで十八である。若くはあるが、すでに母の衣に隠れて居られる年齢ではない。

 秀頼の左隣に千姫、右隣に淀殿が着座する。

 直臣の列には、上座から順に、片桐且元、大蔵卿局、大野治長、薄田兼相、木村重成、渡辺糺らが居並ぶ。片桐且元以外はすべて、淀殿の乳母あるいは側女の子らで、もはや豊臣には、そのような人脈しか無いことを如実に物語っていた。


「なれば、上洛する大御所と将軍に、秀頼がわざわざ参上して頭を下げよと?」


 話をひととおり聞いた後、口を開いたのは淀殿であった。淀殿は、おほほ、と笑い、大蔵卿局と視線を交わす。大蔵卿局は言う。


「吉興殿。そもそも、そなた様の仰せの公武両頭で言えば、こたびは明らかに朝廷の儀。なれば摂関家である豊臣の方が上でありましょう。大御所と将軍が大坂に拝礼に参るが筋でありましょう」


 こういう輩はどこにでもいるのである。吉興はこの場合使者に過ぎない。使者を言い負かしても、背後にある徳川に勝てるわけではない。敢えてその因果を見ないのか、気づかないのか。


 しかし反論をしたのは浅野幸長であった。


「なれば、将軍家十五万の兵、大坂に入って、豊家の方々はつつがなくいられるのでありましょうな。十五万の兵を眼前にして、大御所と将軍に、秀頼君の前で手を付けと申せられるのであればそれはそれで豪胆と賞すべきやも知れまぬが」

「勝ち目のない戦で勇を誇るなんざ、たわけじゃのう」


 幸長の言葉をつなげて、福島正則がそう吼えた。

 あからさまにたわけ呼ばわりされて、大蔵卿局が顔を紅潮させる。


 場の雰囲気を切り替えるためか、苦労人の片桐且元が、敢えて穏やかで重々しい声を発する。実直なだけが取り柄の男であるが、その実直さを見込まれて、秀頼傅役に抜擢されたのは、この男にとって果たして名誉であったのか不幸であったのか。


「さりながら各々方。大坂城は難攻不落、太閤殿下の本城にござる。いくら十五万の兵を連れてもそれらが城に入れるわけでもなし。大坂城にある限りは、右府様はまずはご安心かと。京洛へ赴かれるならば、道中のご安全、誰が保障してくれましょうや」

「市署殿。この佐助、ならびにここにおわす諸侯が兵を出しまする。佐助が二万五千、加藤、福島が一万五千、浅野が一万、併せて五万にござる。豊家も兵を出せば六万にはなりましょうが、それは財を失うばかりで意味がございませぬ。五万もあれば、何があろうと右府様をお守り通すこと、無事に大坂城までお送りすることは十分にできまする」


 それだけの軍役となれば、莫大な経済的な損失になる。財を積んでいる佐助ならばともかく他家は即応しかねることであるので、佐助もほぼこれまでの蓄えを使い潰すことになるだろう。生半可な犠牲ではない。

 ちなみに、此度のこと、時康に申しつけて、時康は一言も否とは言わなかった。理不尽極まりない命令である。時康は父の人となりを知っている。決して無暗に理不尽なことは言わない人である。それを敢えて言った。となれば相当な覚悟があるはずである。

 敢えて損失を甘受するか、父と血みどろの相克を演じるか、選択肢はふたつにひとつしかないことを時康は直ちに察した。そして家族の間の戦いを即座に避けたのであった。


「その、そなたらの兵、寝返り忠になるのではないか」


 渡辺糺が無礼極まりないことをいきなり言った。さすがに、清正、正則、幸長も気色ばむのを、吉興は、右腕をすっくと上にあげることで鎮めた。戦場における軍師の所作であり、静寂を要求する動作である。

 その動作で、この男が、黒田如水亡き今、ただ一人、亡き太閤から豊臣家の絶対の軍権を預けられている豊臣の軍師であることを、そこにいる皆が思い起こした。

 それもまた、秀吉の遺命である。

 豊臣の軍事行動に関しては、吉興の意の方が、秀頼の命令よりも優先権が高いのだ。


 吉興がじろりと半眼で渡辺糺を睨んだ。それに気圧されながらも、若い糺は虚勢を張る。


「そうであろが! そならはみな、関ヶ原では東軍についた裏切り者ではないか!」


 糺がそこまで言うとはさすがに豊家面々も思ってはいなかったので、愕然となった。しかし、豊臣家、みなの思いではある。淀殿はあの時は、積極的に三成に加担しなかったのも忘れて、今は三成こそが忠臣であったと思っている。

 徳川の下で高禄を食む者らにつきつけてやりたい言葉ではあった。


 だが、吉興は激昂はしなかった。


「そこにおわす大野治長殿は東軍でありましたな」


 そう名指しされて大野治長は居心地が悪そうにする。


「片桐且元殿も、西軍であったにも関わらず戦後、同僚諸将をお見捨てになられ、一人家康殿からご加増を受けましたな」

「それは…」


 且元にも言い分はある。敢えて恥をさらしても生き延びねば誰が豊家の家老を務めるのか。しかしそれで言うならば四諸侯も同じであろう。彼らが滅びれば誰が豊家の剣となれるのか。


「そもそも裏切りは裏切らせる方が悪いのでござる。誰も好き好んで汚名を着る者はおらぬ。そうせねば生きてはいられない境遇に追い込まれた故そうせねばならなかっただけのこと。家臣も守れぬ主君に忠義を期待できるはずもありませぬ。お袋様ならばようお分かりのはず」

「私が」


 淀殿はいぶかしげな顔になった。


「そうでございましょう。浅井を滅ぼした織田に養われ。養家の柴田を滅ぼした羽柴に拾われ。その羽柴が織田の天下を奪うを見ながら何一つするでもなく。しかして、まんまと御兄君、浅井万福丸様を殺めた仇の子を二人もお産みになって」

「吉興様!」


 女の、つんざくような悲鳴が上がった。声をあげたのは千姫である。泣きそうな顔になりながら、震えていた。

 吉興はいったん、息を整えるように、深々と千姫に向かって、頭を下げた。

 そして、今度は秀頼を向いて、しっかりと見つめる。


「右府様。秀頼様。人はみな生きたいのでございます。浅井万福丸様に殉ずべきところ、それがしこうして生き恥を晒し、豊臣の臣となりました。生きるためには時には人は節を曲げねばなりませぬ。あなた様には憎き重しに見えるやも知れませぬが、家康殿ですら、妻子を殺めるという地獄を見なければ、生き延びることは叶わなかったのでございます。今、豊臣の誇りを少しお曲げになられることが、妻子を殺めることを強いられるよりも難しいことでございましょうか。親の仇、兄の仇に身を委ねて子を産むことよりも難しいことでございましょうか。

 あなた様はもはや、守られているだけの御子ではありませぬ。どうすれば、豊臣を、どうすればあなた様の大切な方々を守れるか、あなた様がご自分で考えて道を切り開いてゆかねばなりませぬ。

 こたびの機を逃せば、徳川との戦、避けられませぬ。なにとぞ。なにとぞ、ご決断を」

「吉興」

「はっ」

「そなたは最後まで余の傍らにある覚悟か」

「いかにも。それがしは豊臣の軍師なれば、御大将と命を共にするは当然のことにござる」

「ならばよい。豊家の軍師の言に従おう」

「秀頼殿」


 淀殿はすがるような眼差しで秀頼を見た。そこにはただ、子を案じる母がいた。

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