奔馬

第29話

 後から見れば単線的に進んでいるようであっても、その渦中にあっては決してそうではない。家康が、天下を掌握する過程においては、危機が、逆境が、すべて次の時の飛躍のばねになってきた。

 そもそも尾張に人質に出されることがなければ、信長と気脈を通じさせることもできず、尾三同盟も速やかに成らなかったであろうし、駿河に人質に出なければ先進的な教育を受けて、広い視野を養うことも出来なかっただろう。

 幼少期をのうのうと岡崎で暮らしていれば、必ずやその後、踏みつぶされていたに違いない。

 未来から過去を見れば、家康が一方的に上杉を陥れたように見える。

 しかし秀吉没後というこの流動的な時期において、上杉が十分に、報告を上方に対して尽くしたとは言えず、上杉謀反を実際に信じるに足る材料も多々あった。

 いくら準備を尽くしたとしても、天運が最後に味方してくれるとは限らない。

 家康は桶狭間の戦いを実地で体験しているのだ。

 堅牢強固に見えた今川家が、たった一度の奇襲で崩壊に至った経緯を体験している。

 江戸に入ってからも、泉岳寺を建立し、わざわざ今川義元の菩提を弔ったことからも分かるように、家康にとって目指すべき理想像は今川義元であった。三河武士にとっては今川義元は自分たちを虐げた張本人であるが、家康にとっては無私公平にてひたすら慈父のように接してくれた理想の君主であった。

 義元ですら、天運に見放されることがあるのだ。

 自分のみが運に恵まれているとは家康は微塵も思わない。

 上杉についても、なるほど上杉は危ういと諸将に納得してもらわなければ、徳川が突出してそれを叩く危険を冒す気にはなれなかった。

 そのために、正式に上杉征伐を決するまで、四ヶ月をかけた。

 

 会津にいた藤田信吉の元へ、駒井を差し向けたのは本多正信である。本多正信は、そうやって藤田を上杉から引きはがした。

 となれば残るのはひたすら直情的な直江のみである。

 直江は意を尽くして、陳謝して、「誤解」を解こうとする姿勢は見せなかった。

 最終通告となった「直江状」に見られるように、ひたすら上杉の視点のみを主張するばかりだった。

 直江状は写されて、諸大名に回覧された。

 むしろ上杉の姿勢の頑なさを証明するものであったからである。

 上杉の立場に立てば、というよりも徳川の立場に立たなければ、「言ってやった」感の強い爽快な書状と言うことも出来る。

 しかし家康は太閤に正式に任じられた豊家の冢宰なのである。

 徳川の立場に立たないということは、豊臣政権の論理を無視するということである。直江がやるべきなのは、徳川の視点にたったうえで、上杉の迂闊さを認め、謀反ではなく迂闊さとして処理できる落としどころを作ることであった。

 しかし直江はそれをしなかった。

 直江の視野の狭さ、基本的には強国であった上杉謙信の下での越後で育ったという人格形成のせいで、退き時を見誤ってしまった。

 その過誤が、結局、上杉百二十万石を危機に晒し、解体へといざなったのである。


 六月に入り、大坂城から、ついに家康は諸将に陣触れを発した。


 前田屋敷で、最後に家康に会って以来、佐助吉興は家康との交際を断っている。徳川より従前同様の交際を求めて、幾人もの使者が佐助屋敷に向けられたが、それらはことごとく追い払われていた。

 敵対まではするつもりはなくても、吉興はこのままずるずると徳川の与党になるつもりは微塵もないのである。


 それがその日はついには、家康が本多正信と結城秀康を引き連れて、直々に訪れたため、奥へ通さざるを得なくなった。


「お溶のことで、婿殿が儂に怒り心頭なのはよう分かっておるが」


 上座についた家康が、吉興を見据えながらそう話し始める。


「そろそろ矛を収めて貰わねばならぬでな」

「あのようなことをされて、仰せごもっともと言うと思われたならばそれがしも舐められたものでござる」

「お溶は幸せであろうが。儂とても適当に選んだわけではない」

「黒田長政、藤堂高虎、豊臣恩顧でありながら、既に内府様の子飼いも同然でありますからな。それは内府様の養女をないがしろにはいたしますまい」

「左様」

「さりながら。それがしを黒田、藤堂同様にお考えならばそれは見当違いにございまする」

「豊臣の軍師はさほど扱いやすい男ではなかろうて」


 家康が苦笑する。


「しかしの、こたびばかりは儂に従ってもらおう」

「上杉攻めにございますか」

「然り。そなたを大坂にとどめ置く訳にはいかぬ。今、大坂にて、佐助が出せる兵数はいかほどか」

「五百ばかりかと」

「相変わらず絞っておるな。しかしそれでよい」

「なまじ兵力多く、軍功を立てられても寝返られても困るということでしょうか」

「婿殿相手に飾っても仕方があるまい。せっかく話が早いのだからな。その通りじゃ。そなたは儂の本陣付きの軍師といたす」

「断れば」

「佐助は滅びるよの。儂とても時康のためにも佐助は残したい。しかしながら、上に立つ者にはままならぬ立場があるゆえな。儂が信康を殺めたこと、知らぬそなたではあるまい」

「軍師は軍師の理において動きます」

「それはの、この本多佐渡守も申しておった。単なるお家安泰のみではそなたは動かぬであろうと。しかし此度はわしにつくはずと正信は言っておった。そうであるの、正信」

「はっ、確かに」


 と本多正信は平伏した。そして朗々と言葉をつなげて説明する。


「こたびの上杉攻めのことで天下がどうなろうとも、徳川が残る公算は強うございます。なればこそ、誰が滅びようとも、佐助は残らねばなりませぬ。豊臣のために」


 吉興は口を開かない。家康も正信もそれを了承の意と解した。


「時康も出せ。初陣になろう。下賜する甲冑、刀剣類、名馬、こちらで用意させた。ああ、心配するな。紋は佐助の紋じゃ」


 同席していた時康が、


「有難き幸せ」


 と平伏し、礼を言った。


「時康。そなたは儂の大事な曾孫ぞ。儂の傍らにあり、危ういところへ言ってはならん。命さえあればいくらでも引き立てようがあるからの、焦ってはならんぞ。こたびは兵馬の動きをよう見ておけ。それがそなたの任じゃ。いずれその経験がそなたの役に立つであろう」

「はっ」


 吉興は、改めていずまいを正し、家康に手を突いた。


「ご下命、謹んで拝する所存にございまする」

「うむ」

「して、阿茶様のことでございますが」

「阿茶か?」


 阿茶の局は、溶姫の輿入れでは代母に立った。佐助との縁もそれなりにある人である。


「まさか大坂城に残すおつもりではありますまいな」

「残す」


 吉興はじろりと睨む。


「そうまでなさいますか」

「丸腰でなければ、天下は動かぬ」

「さすがはご嫡男を殺めたお方」

「…」

「伏見で治部少輔を逃がした策、目論見どおりに行けばよろしいのですが」

「引きこもっておる癖に、さすがに誰よりも天下の趨勢を把握しているの。恐ろしいの。亡き太閤はようそなたを扱いきれたものよ」

「時康がさほどに可愛いのでございますか」


 時康が何を言われているのかもわからず、不思議そうな表情を浮かべた。


 この戦。危地は戦場ではない。天下の徳川の本陣、この日の国で最も安全な場所と言っても過言ではない。

 危ういのは大坂である。家康不在にあって、誰ぞが決起すれば。決起するとすればそれは石田治部少輔をおいて他にはない。

 大坂に残す者らはまるごと人質になる。

 家康は、敢えて本妻ともいうべき阿茶の局を大坂城に残すことで、三成の決起を促す餌にしようとしている。

 時康は数えで十五、初陣をしてもおかしくはないが、佐助には元服を終えた男子が吉興と時康しかいない事情を踏まえれば、吉興が出陣するならば、残しておくのもあり得ること、むしろ留守を守るためにも普通は残しておく。

 英雄豪傑を排している佐助であるが、吉興の軍令を部分的にではあっても継ぐ者らはいる。時康の初陣が遅れてもその者らが補佐をするならば、何の問題もない。佐助は「組織で勝つ」ことを信条にしているため、時康個人の武勇と経験は軍令には関係がないのだ。

 そこを敢えて、家康は時康を大坂から引きはがそうとした。

 大坂が危険になると見通しているからであり、時康の安全を確保しておきたいからであった。


「そなたは、儂が信康を殺めたことをしきりに言うが」


 家康も絞り出すようにして言葉を発した。


「好き好んで誰がそのようなことをするか。時康は信康の生まれ変わり。二度と危うい目にはあわさぬ」

「内府様の御孫のおコウや他の曾孫らは見捨ててもかまわぬと」

「そなたの妻子であろうが。他の者の妻子ならばともかく。そなたが策をたてるが筋。そなたがたてた策でどうにもならぬなら、儂がどうあがいてもどうにもならんわ」

「お言葉の通り。佐助の家の者であり、徳川の者ではありませんからな。それがしが守りまする」


 かくして、佐助吉興、佐助時康、家康本陣付きとして、上杉征伐に従軍することが決した。

 

 

 

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