第28話
藤田信吉という武将がいる。生まれは永禄二年であるから、慶長五年には四十一歳、佐助吉興とはほぼ同齢である。
この男は上野の産である。
上州は、越後、奥州、関東、甲信の勢力が交わるところにあり、そのうちのいずれかに向かおうと思えば必ず上州を通ると言ってもいい。諸大名、是が非でも押さえておきたい場所である。
上野は、元は山内上杉氏の領する国であった。それが北条に敗れ、上杉氏は越後へ逃れた。逃れた先で、長尾景虎が上杉の名跡を継ぐこととなり、上杉謙信となった。
その間、上野はどうなっていたかと言えば、長野業正なる傑物が、上杉の、この上杉は謙信ではなく山内上杉氏であるが、ともかくも上杉の臣の分を守り、上野を北条の侵略から守っていた。
しかし、その業正が死ねば、武田が一気に横殴りに襲い掛かり、上野は概ね、武田の領となった。
藤田氏も、周辺大大名に靡いては離れを繰り返した国人である。
藤田信吉の父は北条に仕えたが、信吉が子供の時分、機を見て武田についた。信の字は武田晴信、すなわち信玄からの偏諱である。
武田家滅亡後は滝川一益に仕えたが、本能寺の変後、上杉に寝返った。
これを変節漢と言うは容易いが、日本国の中でも特に生き残りの難しかった北関東で、生き延びたというだけではなく、主家を変えるたびに出世しているのだから、尋常な才覚ではない。
この男に、上杉景勝は外務を委ねた。
関東管領家の有力家臣の家系であったのだから、ある程度は礼法には通じていただろう。ただし礼法を重視するならばいくらでも適任はいるのであって、景勝が信吉に期待したのは、その卓越した嗅覚、いわば戦略眼である。
他家の出のそうした男に、外務を委ねるのだから、景勝は確かに思い切りのいい大名であったし、世はまだ乱世であったと言うべきだろう。
藤田の外務畑は、上杉の冢宰たる直江兼続が唯一浸食出来ぬ領域であり、景勝の純郎党として、直江は藤田としばしば対立した。
前田がやられた。
次は上杉であろう。
そのことがどうして分らぬのか、と藤田信吉は歯がみする。
何の、と直江は反発する。当家は謙信公のお家ぞ、と。徳川がやるというならばかかって来い、くらいに血気盛んである。
だが。
上杉景勝は上杉謙信ではない。景勝が国を率いて、織田に攻められて滅亡寸前だったことを、諸大名は決して忘れてはいまい。柴田や滝川あたりに攻められて青息吐息だったのだ。大徳川の相手になるはずが無い。
負けが見込まれるならば、上杉に加担する諸大名もおらぬだろう。
景勝は、そもそも社交を好む男ではない。大名が好悪だけで動くはずもないが、好悪がまったく要素として働かないということもないのだ。伊達や最上あたりと気脈を通じていれば、他に策も取り得る。
しかし実際にはほぼ不倶戴天の敵といっていい関係だ。
秀次処刑の時に、上杉が請われてもとりなしの姿勢を見せず、むしろ奥州謀反を警戒し、越後から攻め込む構えを見せたからである。
特に、娘の駒姫を連座して処刑された最上義光は、上杉に対しても少しでも落ち度があれば告発しようと目を光らせている。
上杉が会津に移った後に、越後に入った堀秀治との関係も最悪に近い。直江の命で、田の収穫を早めにさせたうえで、収穫を会津に持って行ってしまったからだ。堀秀治はなおもその痛手から立ち直っていない。
事あるごとに、上杉の悪口を徳川に吹き込んでいる。
周辺諸大名は、敵になれば、真っ先に攻め込んで来る者たちなのだ。
それらと悉く関係が悪化して、藤田信吉は、上杉家を滅ぼすつもりか、と直江に詰め寄りたいほどの憤りを抱えている。
直江は二言目には、「当家は関東管領のお家柄にて」を錦の御旗のように振り回すが、藤田から言わせれば笑止である。元はたかが田舎大名、しかもその分家ではないか。
直江は、藤田を外様扱いするが、関東管領家の家臣としては藤田の方が遥かに本流である。関東管領家と言うなら、それ相応の仁義の通った振舞いをして貰いたいものである。
他人は藤田を変節漢と言うが、ここまでのところ、実は藤田信吉自身は滝川一益を見限ったことがあるだけである。武田が滅亡するまで、藤田は武田方として戦い続けた。止む無く敵に降り、そうこうするうちに滝川勢が混乱したので、機を見て、上杉に向かっただけのこと。
上杉は、上杉景勝はともかく、上杉と言う名は祖の主家であったし、景勝の室は、武田信玄の娘であったからだ。
それをあの直江は。
一度は情勢を読み間違えて、織田と和することも出来ず、主家を滅亡せしめかけた「補佐役」である。藤田は、はっきりと直江兼続を無能だと思っていた。無益なだけならばいいが、変に自負心があるだけ有害ですらある。
と言って、景勝と直江は一心同体、害を説いて受け入れる景勝ではない。
さてどうしたものか。
そう言う時に、藤田信吉にとっては旧知の駒井親直が訪ねて来た。
駒井家は武田においては連絡官のような役目を代々果たしていて、親直も、藤田信吉とは親しいと言って良いほどの仲であった。
会津の屋敷まで、その駒井が来たと聞いて、藤田は観念した。
藤田の性格から言って、友を追い返すわけにはいかない。
酒と馳走でねんごろに持て成した。出てくる話は思い出話、幼少の頃に見た信玄率いる武田軍の威容。間違いなく武田が天下をとるとあの頃の藤田は思っていた。
楽しい話だったが、去り際に、駒井が一言、
「こういうことになって済まぬの」
と漏らした。
「なんの、そなたと話せて生き返った思いよ」
と藤田は笑った。
「済まぬ。武田の者たちは徳川に拾って貰ったゆえ」
「分かっておる。武田家のお血筋の方々もそなたがお守りしておるのであろう。そなたばかりに辛い役目を押し付けて、こちらこそ、済まぬな」
雪深い会津を、駒井はわずかな供回りと共に江戸に向かっていった。
駒井親直、今は榊原康政の与力である。武田遺臣のまとめ役でもあった。
つまりは。
徳川の臣が藤田を訪ねてきて、藤田がそれを歓待したことになる。
この「不始末」を直江が見逃すはずが無い。
この雪深い会津には、菊姫の姿はない。社交下手の景勝に代わって、在京し、少しでも上杉の立場が良くなるよう、積極的に貴婦人たちと交流している。
せめて、菊姫様に辞去の挨拶をしたかったが、と藤田は遠い空を見て思う。
今は直江に対しても静かな思いのみがある。この先、否応なく襲い来る荒波をなんとかいなして、一回りも二回りも大きく成長して欲しい。
そうでなければ、この上杉家は生き残れないだろう。藤田が去れば、どうあっても上杉のかじ取りをする人間は直江しかいなくなるのだ。
慶長五年二月。
藤田信吉は、上杉家中を出奔し、大坂に赴いた。
これによって、家康は、上杉にとっては真の懐刀ともいうべき藤田信吉を引きはがすことに成功した。こうなれば、いくら大国と言っても、上杉は羅針盤を失った船である。
大坂城に召喚された藤田信吉は、家康の前に引き出され、堀秀治の告発状について、真偽をあらためさせられた。
藤田としては読んでみて驚いたのだが、告発状の中身はほぼほぼ真実だった。但し解釈は違う。藤田は、あの景勝がそう大それたことを出来るとは思わなかったから、城の普請にしろ、道路の整備にしろ、ただの国造りの一環だろうと思った。
問題はこの時期に、十分に外交的根回しもせず、そもそも外交担当者の藤田さえ預かり知らぬところで、こうした拡張を行って世間がどう解釈するのか、景勝が、いや直江がまったく気にもしていないことだった。藤田としてはまさか、直江が大坂への報告を怠っているとは思わなかったのである。
とりたてて悪意で解釈せずとも、戦国大名百人いれば九十九人までは、謀反の兆しありとみなすだろう。残りの一人は景勝当人である。
「これは」
藤田は詰まった。
「上杉に謀反の兆し在り。否定は出来ぬであろうな」
家康がじろりと睨む。
「恐れながら。旧主・権中納言、人柄よけれども粗忽にて」
「旧主を誹謗するか」
「実のことにございます。届けおくべきところ、抜け落ちたものかと」
「と、言うことにして、まんまと裏をかくつもりであったのやも知れぬ」
「決してそのような」
「と言いきれるか? そもそも、そなた、権中納言の人となりどこまで承知しているのだ。仕えて二十年はたたぬであろうが。あれでも百二十万石の太守、信長公の攻めを踏ん張り、あの天正壬午の乱れを生き抜いた男ぞ」
「それは…」
「まあ、よい。言いにくいことであろう。事が事実であるかどうか、それのみを応えればよい」
「…事実にございまする」
「そなたの功績、天下にとって大である。いずれ上野に大名としても戻してやろう。しばらくは駒井の元で馳走になれ」
この日を境に、大坂から会津へ、ほぼ毎日のように詰問状が走るようになった。
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