第57話

 西暦一六〇三年、日本では、家康が征夷大将軍に就任した頃、イングランドでは処女王と呼ばれた女王、エリザベス一世が没した。宗教対立と列強の干渉によって荒廃しきった祖国の治世を引き継ぎ、黄金時代と呼ばれる治世を築き上げ、一等国となったイングランドを後継者に残した。後世の人曰く、イングランドが生んだ唯一の政治的天才、である。

 処女王の後継者となったのはスコットランド王ジェイムス六世である。ジェイムスは、エリザベス一世の父であるヘンリー八世の、その姉マーガレットの子孫である。父のヘンリー・スチュアートは、マーガレットの二度目の夫を通してマーガレットの孫であり、母のメアリー・スチュアートは、マーガレットの一度目の夫を通してマーガレットの孫であった。

 エリザベス一世にとっては、逝去の時点における最近親者であった。

 ジェイムス六世の母、スコットランド女王メアリー・スチュアートは、長年、イングランドにおいて監禁され、エリザベスの命で処刑されたのだが、ジェイムスはそれは、自身がエリザベスの後継者となるうえではまったく障害とはとらえていなかったようである。

 ジェイムスとメアリー・スチュアートは母子であったが、両者には決定的な違いがあった。息子はプロテスタント、母はカトリックであった。しかもメアリー・スチュアートはジェイムスの父のヘンリー・スチュアートを謀殺している。そのせいで国を追われたのだ。メアリー・スチュアートにイングランドにいて貰っては迷惑なエリザベスは、何度となくメアリーをスコットランドへ返還しようとしたのだが、今更、前女王に戻って来てもらっても困る息子が拒否し続けた。

 ともあれ、エリザベスの死によって、スコットランド、イングランドは同じ一人の人物を玉座にいただくことになった。陰謀うずまくスコットランドから離れて、イングランド王として繁栄する首府ロンドンへ向かう気持ちを、ジェイムスはユダヤ人の出エジプトになぞらえている。

 彼は、イングランド王としてはジェイムス一世として、スコットランド王としてはジェイムス六世として知られるが、この時に、両国が合同したわけではない。それぞれの国として、たまたま同じ人物を王位に戴いただけであった。

 連合王国の成立には、スチュアート王朝の末期、アン女王の時まで待たねばならない。しかるに、事実上、この時以来、両王国が合同したのも同然になったのは事実であって、イングランドには多数のスコットランド人が移住し、イングランドが握っていた海外通商網にもスコットランド人が食い込むようになった。


 日英の交渉史では、やたらスコットランド人が目立つ。グラバーといい、アーネスト・サトウといい、ヒュー・フレイザーもそうである。ひとつの要因としては、スコットランド人はやはり連合王国では傍流であり、主流のインドではなく、フロンティアであった極東に押し出されたのではないか。

 家康の時代、家康と交渉を持った英国商人リチャード・コックスもそのひとりであった。家康の指南役にはイングランド人のウィリアム・アダムス、すなわち三浦按針もいたから、コックスはその後押しを受けて何とか日本との貿易に食い込もうとしていた。

 南蛮船は阿蘭陀船を含めて、最新の軍備は売ってくれないのである。二世代ほど型落ちしたものを日本には売る。そうでないとアジアに築いた拠点が、日本の脅威に晒されかねないからである。

 この時代の標準大砲はカノン砲であり、これは別段、「劣った大砲」ではない。実にさまざまに改良されながら二十世紀まで用いられ続けた。但し射程が比較的短い。

 大坂城は巨大城郭であるので、堀の外から狙っても、砲弾が城内には届かない。いざ、囲んでみれば、これと言って城を落とす効果的な策が無い。

 二十万の軍勢は存在自体が凶器である。その所有者にとっては。凄まじい勢いで兵糧を消費してゆく。しかも、戦争これ自体からは「税」は徴収できないのである。

 糸くずさえも拾ってこよりに再利用するような家康である。この膨大な浪費自体が、精神をさいなむ拷問のようなものであった。

 このままでは、豊臣にすがるようにして和議を結ばねばならなくなる。

 当初の考えでは、大軍に怯えて、豊臣が膝を屈するならばよし、そうでなければ、付城を築いて、外様に輪番で監視させるつもりであったが、今はそうもいかなくなった。

 緒戦で大敗したため、何らかの勝ちを収めないと退くに退けなくなっていたし、伊達が当主長子一族郎党壊滅したため、外様に苦労をこれ以上引き受けさせるわけにはいかなくなった。

 笠置山の故事を思い起こす家康である。小さな輩と侮って、自らの権威が傷つけられても放置していれば、最終的には天下の幕府と言えども瓦解する。

 まずはそれなりに大坂城に損害を与えてから、いったん講和を結ぶ。

 そのためには、大坂城に届く大砲が必要だった。


 当時としては「新型」に分類されるカルバリン砲を四門提供したのがコックスであった。カルバリン砲は、威力としてはカノン砲に劣る。しかし射程が長い。条件次第では二倍の射程を可能にし、大坂城本丸に届く飛距離を誇っていた。

 十二月の二十五日までに、徳川軍は、しかるべき場所にカルバリン砲の設置を終えた。そして翌日から。

 降り注ぐ大砲が、大坂城内を襲ったのであった。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る