第58話

 壁の照明を消そうとした女孺が、端に寄った時、漆喰を食い破って砲弾が、その頭を直撃した。


「ひぃ!」


 目の前にごろごろと転がって来たその頭部を見て、淀殿は絶叫した。


「ここはあぶのうございまする」


 刑部卿局が避難を促し、まずは、奥にある鉄庫裏へといざなった。ここは四隅の壁が鉄板で補強されている。

 しばらくして、千姫と常高院、千姫が秀姫を、常高院が国松を伴って、同じ場所へと逃れて来た。秀姫は、秀頼の侍女に産ませた姫であり、卑母であったので、道理を説いて下がらせ、秀姫自身は、千姫が自身の娘として手ずからに育てていた。

 国松の存在を千姫が知ったのは、大坂の陣が始まる直前であり、自分にこれまで隠し通してきた伯母二人(淀殿と常高院)、夫には、言いたいこともあったが、徳川との関係を思えばやむを得ぬと納得させ、国松を受け入れていた。


「こちらならば、砲弾は届きませぬ」


 幼子二人に、勇気づけるように千姫が微笑みを見せれば、兄妹は気丈に、怯えもせずに、「はい」と唱和する。

 その後ろで、淀殿が、


「嫌じゃ! 嫌じゃ! 砲弾は嫌じゃ! なんとかいたせ! なんとかしてたもれ!」


 と錯乱していた。


「姉上。姉上、落ち着きなされ」


 幼子の手前、必死に常高院がなだめるが、錯乱は増すばかりであった。

 軍議を終え、秀頼もこちらに移ってきたが、秀頼も母の錯乱ぶりに驚いた。


「母上。どうか、気強くあらせられよ。大坂城は太閤殿下の城。これしきのことで易々とは落ちませぬ」

「ああー、秀頼、秀頼殿。母を助けてくだされ、戦、そうじゃ、戦をやめればよい。の、戦をの、戦をやめられよ」

「何を仰せか。しっかりなされよ」


 秀吉が死んで十六年。仮にも女城主として大坂城を守り抜いた女傑である。このような脆い姿を、豊臣一族、誰一人、今まで見たことが無かった。


「頭がちいとおかしくなられた」


 常高院がぽつりと呟いた。


「伯母上、滅多なことを仰せになられますな」


 千姫が聞きとがめて言う。


「じゃがの、お千、茶々様はあのようなお方ではありますまい。狐がついたか、狸が付いたか」

「お義母上は長年の徳川との軋み、ご心労が続いた中、此度の戦。お疲れになっておられるのです」

「そうじゃ。吉興様に聞いてみましょう。知恵者にて、かようなこともご存知やも」


 それには秀頼が難色を示した。


「吉興は、軍の総大将、忙しくしておる中、かような私事のことでわずらわせるわけには参りませぬ」

「いいえ、忙しいというのは煩い方々に会わぬための方便、案外お暇だと仰せでしたよ。それに、豊臣の家のこと、軍師たるあの方にも無関係ではないでしょう。ましてや姉上は浅井の姫なれば」

「吉興を責めるわけではないが、先日はその浅井の姫を鞭打とうとしましたぞ。今母上はこの有様。吉興を見れば恐ろしがってますます錯乱するやも知れませぬ」

「吉興殿がまこと姉上に手を上げるわけがないではないですか。秀頼殿、そなたが止めに入るを見越してのこと。ゆえにあっさり引いたではないですか」

「それも重々承知ですが。母上がどう思っているかが、この場合は肝要にて」

「まあ、お会い頂いて、悪くなればその時はその時でございましょう」

「伯母上」

「よろしいか、秀頼殿。姉上は仮にも豊臣の女大将。人前にも出なければなりませぬ。かような状態なら豊臣は一気に求心力を失い、滅びますよ。せめて人前に出して見苦しくない程度になっていただかねば」


 相変わらず続く淀殿の悲鳴を聞いて、気の毒になった千姫は、


「あの、表に出るは私がつとめますので」


 と言ったが常高院は首を振った。


「そなたは将軍の長女ではありませぬか。そなたの心意気はよう分っておりますが、この砲弾はそなたの父が放っておるのです。それはそなたのせいではない。そなたのせいではないが、豊臣の将兵がそなたに鼓舞されて、はいそうですかと言う気になれるはずがありませぬ」


 はっきりと、半ば敵の女と言われて、千姫はうつむいた。

 常高院が言ったのは事実である。だから秀頼も言葉をかけようが無かったし、千姫も抗弁できなかった。

 その重い空気の中、


「やめてたもれ、戦はもうやめてたもれーっ!」


 と淀殿の絶叫だけが響いた。


「ともあれ、吉興殿に来ていただきますぞ」


 常高院が年の功でそう決した。

 吉興が呼ばれて現れても、良かったのはそれでことさら淀殿が錯乱しなかったことである。悪かったのは、最初から錯乱していたことである。


「ああ、稀にございまする」


 吉興は呟いた。


「どういうことか?」


 秀頼が説明を求めた。


「戦と言うのは、怒り、憎しみ、たぎり、恐れ、そうしたものを、人の心のうちに溜めてゆくのでございます。そしてそれは滓となってこびりついて、消えることはありませぬ。人によって器の大きさは違います。しかしいつか、器から溢れることになります。大抵は、その前に死にますが。お袋様は、いえ、お茶々様は此度のことで、限界に達したのでございましょう。お茶々様は城を攻められるがこれが三度目のはず」

「確かに姉上は、小谷城、北庄城と落城をご経験になっておられますが。しかし私もですよ。私はそのうえ、大津城の落城も経験しておりますし」

「失礼ながら常高院様、長女と次女では荷の重さがまったく違いまする。幼い妹たちを父母に代わって守り抜かねばならない、その主にはお茶々様にのみ課せられたのです。お茶々様の器はもう溢れてしまったのです。元には戻りませぬ」

「ならばどうにもならぬのか。母上はずっとこのままか」

「戦を止めればいいのです、右府様」

「そう言うわけにはまい ― 」

「まいりまする」


 言葉をかぶせて、吉興は断言した。


「そなた、徳川に降伏せよと?」

「そうは申しておりませぬ。十四万以上の幕府軍を葬り、豊臣はその底力を天下に示しました。そもそもそのための戦であったはず。既に戦の目的は終えておりまする」

「ならば講和か? 徳川が講和を受け入れるか?」

「受け入れまする。必ず。大軍を養わねばならず、焦っておるは徳川のはず。大砲のことで、徳川も面目を施しました。ここあたりが潮時にございまする」

「講和して、講和して、その先はどうなるのか」

「豊臣は摂関家として生き延びまする。なにとぞ、なにとぞ。武家として徳川に臣従し、お袋様を江戸に置き、大坂城を離れ国替えをお受入れになられますよう。今ならば。今ならば徳川に圧迫されて受け入れるのではござらん。天下のために敢えて身を引く形になりまする。豊臣の名誉は守られ、もって万民享楽の世が開かれましょう」

「戦は起きたのだぞ? 大御所が責任を問わぬはずがあるまい」

「なればこそ、佐助吉興、大坂城に入りました」

「どういうことだ?」

「軍功著しい豊臣の軍師、いや、豊臣の軍神にございまする。すべてそれがしの算段にて。右府様はそそのかされたに過ぎませぬ。それがしの首をして、決着となさりませ」

「なにっ!」


 錯乱を続ける淀殿を除いて、豊臣家一同、吉興の言葉に息を呑んだ。常高院だけは、表情一つ変えない。


「軍のことはいざ知らず。政事のことはそれがしが負うには無理がございまする。如水殿が生きておれば、如水殿にも首を差し出してもらうところでしたが。如水殿よりは大きく見劣りしますが、大野治長にも首を差し出して貰いまする。そのために生かしておきました」


 淀殿の傍らで、刑部卿局が顔面蒼白になった。


「そなたらを見殺しにして余ひとりに生き延びよと言うかっ!」

「右府様…秀頼様。すでにあなた様は多くの者たちを見殺しになさっておられまする」

「…!」

「石田三成は、大津城にて晒されながら、この佐助に、秀頼君のことを頼むと遺言しましたぞ。前田利家殿も、死の床で、秀頼君のことを頼むとそれがしに申されましたぞ。松平…いや、結城秀康殿も、越前にて、あなた様のことをご案じながらお亡くなりになられました。清正殿もしかり。今更そこへ、佐助吉興の名が加わったところでいかほどのことがありましょうか。

 誰もみな、妻子、家臣領民を抱え、おのが一人の思いでは動くわけには参りませぬ。しかしそれでも。それでもなお、これだけの者たちが、あなた様を案じ続けてきたのです。どうかお分かりいただきたい、豊臣の家とはさような家であるのだと。血反吐を吐きながらも無数の者たちが命を賭けて来た家なのだと、どうかお分かりいただきたい。

 あなた様は生き残るために真剣にならねばなりませぬ。それが豊家恩顧一同の望みなれば」


 佐助吉興は、きっちりと平伏した。


「…伯母上」

「はい?」

「護衛を付けまするゆえ、大御所の陣へ行ってはくださらぬか。豊臣の意思をお伝えいただきたい。豊臣には講和の用意があると」

「しかと、役儀、あいつとめまする」


 慶長二十年になる頃。大坂冬の陣は、停戦がなされ、講和協議へと移行した。

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