第21話
前田利家が、遠からず死ぬ。そうなればどうなるのか。
秀吉が最期にすがった大老合議制など上手くいくはずが無い。大老のうち、喜んで秀吉に従っていたのは、宇喜多秀家くらいだ。
利家が死んで、もしその時に家康も死んでいれば、天下は乱れに乱れるに違いない。そうなれば、天下統一など霧散する。
吉興は嘆息した。
その吉興を、如水は見る。竹中半兵衛であればどうするであろうか、と如水は思う。
天下の安寧と豊臣の安寧、どちらを優先させるであろうか、と。これは如水にとっては初めて突き付けられた問題だった。
だが、吉興は、きっと何度も何度も考えたことがあるに違いない。
天下人は一人でいい。
しかし一人はいて貰わなければ困るのだ。
もし豊臣がまとまっていれば、秀頼の後見に如水が立ち、それを吉興が輔弼し、天下をつなげることも出来ただろう。
しかし、前田利家が死ねば、豊臣の最後のまとまりは崩壊する。
「利長殿は、良きお方でござる」
とふいに吉興が呟いた。
「さりながら、天下を担うお覚悟はおありか」
「倅が覚悟があれば、そなたは支えてくれるのか、豊前」
「御意」
成金大名の二代目の内、吉興が見る限り、最も人品が優れているのが前田利長である。彼であれば、家康に対抗できる、少なくともその可能性はある。
ただ、そのためには清濁を併せ飲まなければならない。一大名家ならばいざしらず、天下を総攬するには清廉潔白ではいられない。
そのために必要なのは、能力と言うよりは覚悟である。
「そう言えばそなたはあれと相婿のようなものであったな」
利家はそう言ったが、無論、そのような理由で、吉興が加担を決めたわけではないのは分かっている。
「如水殿も」
「平兵衛がそれでよいのであれば。天下を担うが徳川よりは前田であるのが望ましいのは変わらぬゆえ。さりながら」
如水は、奥深な目で、じろりと利家を見る。
「天下の軍師として、諸大名が相争う世に戻すわけにはいかぬ。それだけは譲れぬでな。それは平兵衛も同じ事であろうが」
如水の言葉に、吉興は頷いた。
「徳川の世になれば、秀頼君は生きてはおられんぞ」
利家が絞り出すようにして言った。
「どれほど難しかろうがやり抜くだけでございます。豊臣への忠義は、それがしの筋なれば。さりながら、天下万民への責、これは公の筋にて」
吉興がそう言って平伏した。
「利長が覚悟を示せばいいのだな?」
「御意」
「何をしろと?」
「この、大坂の前田屋敷に、内府様をお呼びいただきたい」
「呼んで来るか?」
「来ます。それがしと如水殿が通じているのを知らず、少なくとも内府様は黒田を取り込んだつもりであったのでしょう。よしんば、佐助が前田についても、その影響を相殺できると。しかし両兵衛が前田についたことで、伏見は今や袋の鼠。来て、和議に持ち込まねば、徳川は滅びるまで。大納言様のご病状を知らねば、そう思うでしょう」
「来させてなんとする」
「利長殿に討ち果たしていただきます。それを以て、覚悟とすべきかと」
沈黙が落ちた。
「家康も気の毒よの。あれほど佐助を目にかけていると言うに。あれは少なくとも政略ではあるまい」
「内府様を恨んでのことではございませぬ」
「それはそうであろうが」
吉興当人はともかく、家康には時康は見捨てられないだろう。そう言う意味では、佐助の安全はあらかじめある程度は確保されている。しかし吉興にはそれを恩に着るだけの義務はない。
細川忠興、加藤清正が使者に立って、一月の末に、家康が、秀頼への拝礼を兼ねて、大坂に赴くことが決定された。
家康が前田屋敷に赴く当日。
供回りは、最小限に抑えられている。合戦に赴くのではない。合戦になれば徳川は負ける。
前田を言いくるめ、和議に持ち込むしか、死地を脱する手筈は無い。
家康の供をしていたのは、結城秀康、本多忠勝、井伊直政であった。武芸の上でも剛の者を選んでいる。万が一斬り捨てられるとしても、ただでは死なない構えである。
秀忠は江戸にいる。家康が死ねば、一大名家として徳川は徹底抗戦を図るだろう。
「おお、婿殿か」
前室にて控えていた吉興を見て、家康はそう声をかけた。さすがに目は笑っていない。
「さすがは豊臣の軍師よの。こたびはそなたにしてやられたわ。溶姫にも贅をつくした婚儀を用意してやったと言うに、なかなかそなたは歩み寄ってくれぬな」
「そもそも、最初から豊臣が家臣にございますゆえ」
「であれば、好々爺の祖父を、手にかけても構わぬと」
「好々爺などとは御冗談を。さように可愛らしいものではございますまい」
吉興も、家康に微笑みかけるが、目はひたすら冷たい。吉興は視線をずらして、秀康を見る。秀康は、わずかに頭を下げた。
秀康が少年の頃、三河から連れ出したのは他ならぬ吉興であった。系図上の関係では、秀康は吉興の義理の叔父にあたるのだが、実際には、長らく秀康は吉興の被保護者であったようなものである。
両者の関係は暖かいものであったが、今は敵として対峙している。
秀康には分かっていることは吉興も承知していた。なぜ、家康がこの場に秀康を伴ったのかを。
家康が死ねば、徳川は危急存亡の時に直面する。秀忠の下で一致団結しなければならない。そのためには、秀康を生かしては置けないのである。
「それでも、父御であらせられるゆえ」
言い訳をするかのように、秀康は、吉興に向かって短く呟いた。秀康は秀吉の猶子でもある。その立場にあって、徳川を切り捨てていたならば、このように使い潰される羽目にはならなかっただろう。
なぜ、その道を選ばなかった。
なぜ、命を粗末にする。
詰問するかのような吉興の眼差しに、赦しを請うように絞り出した言葉がそれであった。
「わしが父親として不徳であるのは分かっておる。信康にも、秀康にもな。だがだからこそ。さような悲しみが繰り返される世には戻って欲しくない。そのために、わしは天下を背負っている」
家康の言葉にはおそらく偽りはないのだろう。
吉興も家康を憎んでいるわけではない。好き嫌いであればむしろ好きであろう。
家康もまた、吉興の筋目正しい性格を好ましいものと見ている。
それでも、家が違えば殺しあわなければならない。
「どうぞ、お進みくだされ。饗応の用意が出来ておりまする。大納言様がお待ちにござる」
吉興は、一行を促した。
前田側からその場にあったのは、利家、利長、如水、吉興であった。
徹底的に不仲を証明してきた両兵衛が平然と並んでいるのを見て、家康はこの両者にしてやられたことを思い、一瞬、悔し気になったが、すぐに利家に向かって謝罪の弁を述べた。
五大老に諮らずに私婚を結んだことを利家は攻め立てたが、家康は、政務総覧として豊家諸将と好みを結ぶためと抗弁した。但し、短慮であったことを認め、謝罪状を秀頼と四大老に送り、今後このようなことが無いことを約した。
表向き、和議が成り、酒の席になった。
「今宵は気分が良い。内府殿に槍の又左の槍舞を馳走しそうぞ。これ、足立を持て」
命じて、利家は足立切を持ってこさせた。
利家の身長は非常に高いのだが、それにしてもその槍の長さは馬鹿馬鹿しいほどに長かった。織田家から追放されていた時に、利家はこの槍を持って、織田の美濃攻めに手弁当で参加し、見事、敵の武辺者、足立六兵衛を討ち取ることによって帰参を許された。その時の槍であり、以来、足立切と呼ばれている。
利家は背筋の美しい美男であり、大柄でもあることから、若い時から舞えば映えた。槍舞は利家の十八番であり、数々の饗宴でも披露されて来た。
古くは、姉川の戦いの頃、家康もその舞を見たことがある。
吟をうなりながら、踊るその足取りはしっかりとしている。とても死病の人には見えない。
ここで死んでも良い。
その思いで、利家は舞を舞った。
刹那。
槍が振り下ろされ、家康の面前に風が当たる。秀康、忠勝が抜刀しかけるのを、家康が目線で制した。
同じことが、二度、三度、四度。
結局、利長は許さなかった。
利長が家康を打つ手勢を乱入させる手筈になっていたのだが、利長は何もせずに、ただ平然と酒を飲んでいた。
信長、秀吉には及ばずとも、前田利家が稀代の英雄であるのは違いない。
その、涼やかなる、杉のように真っ直ぐな槍の又左が、人生の最後の最後において、客人を騙し討ちをするという卑怯をなすことを、利長は息子として許さなかった。
それですべてが決着がついたのである。
家康一行は無事に送り出され、利家と利長は言葉を交わしもしない。
決着を見届けて、吉興と如水も、前田屋敷を辞した。
月影もない夜であった。
「わしは長政に負けたのよの」
如水がつぶやく。
「済まぬ」
黒田の家は佐助とは違い、如水と長政で路線が対立している。このまま進めば、家中は分解してしまうだろう。黒田が生き延びるためには、ここが限度であろう。思いはどうであれ、如水はもはや吉興とは共に歩けない。
「いえ、これまでのこと、心より、御礼申し上げます」
「そなた一人に重荷を負わせてしまうのう」
前田と徳川の争いは、今はまだ徳川は自分が負けたと想っているかもしれない。しかし遠からず、知る。徳川が勝っていたことを。利家の訃報によって。
だがそれでも。
その先でも。
吉興は秀頼を守らなければならない。
両兵衛の戦いは終わった。しかしここから、佐助の戦いは始まるのだ。
慶長四年、三月。従二位、権大納言、前田利家薨去。
遺贈・従一位。
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