第65話
重要文化財、黒田本大坂夏之陣屏風は、戦の直後に、黒田長政が絵師に命じて制作させたものである。武家が戦絵図を残すことは珍しいことではないが、目的は自家の手柄を記録することにある。しかしこの絵が、時に「戦国のゲルニカ」と呼ばれるように、明らかにその制作思想は、そうした標準的な動機に拠るものではない。
黒田長政は、多くの人物の中の一人にすぎず、しかも困惑して略奪を見ているだけだ。
製作者が明らかに重点を置いて描いているのは、大坂夏の陣で行われた「大坂略奪」の光景である。
全国政権にとっては、日本国内の民は一視同仁であるから、豊臣政権の戦いでは早い段階で略奪が禁じられている。これは織田政権から続く流れであり、信長が記した私掠禁止の法度は、約百三十件残されているが、逆に言えばそれだけ法度を出さねばならないほど、禁止を徹底出来なかったということでもある。しかし、この流れ自体は継続されていて、豊臣軍の場合は不可抗力的に発生した場合を除けば、国内戦で私掠を奨励したことは無い。
これは三好政権から続く戦国期における全国政権の成熟の現象であって、摂津大坂についても、普通に処理しておけばそこまで残虐な略奪は発生しなかっただろうと思われる。
家康は、この戦では、全軍に私掠を許している。
これは徳川家の歴史の中でも、暗部のひとつであろう。なぜ家康が、全国政権の倫理的義務と体面をかなぐり捨ててまで、私掠を容認しているか、当然歴史は何も語ってはいない。
関ヶ原の戦いでは、戦場になった土地の農民に補償まで支払った家康が、がである。
敢えて肯定的な側面について理由を考えてみる。
第一に恩賞を節約できること。
関ヶ原の戦いと違って、摂津大坂は幕府の直轄、天領となるので、恩賞が与えられない。金銭に替えれば可能ではあるが、軍を動員することで、既に財政に多大な打撃を被っている。略奪を容認することで、恩賞代わりにしたということは考えられる。
第二に住民層の入れ替えを期待できること。
大坂は豊臣によって作られた町であり、商人町人にいたるまで豊臣の息がかかっている。それでいて、天下の台所としての機能は今後も大坂に期待する他なく、親豊臣の旧住民を虐殺することで、新しい住民の移住を促し、町全体を親徳川に染めようとした、これも考えられる。
第三に単純に見せしめにしようとしたことである。
これに限ったことではないが、いかなる政治体制であっても、その内部にその政治体制の思想に根本的に反する機能がなければ存続は困難である。例えばアメリカ合衆国において、赤狩りの例などに見られるように、議会公聴会を通して「通常の人権が大幅に制約される状況」が許認されなければ、実際の政治体制としては機能しないのである。ドイツの「戦う民主主義」などもそうであろう。あれは原理的に思想信条の自由や言論の自由を明らかに毀損しているが、それによって民主主義制度を守ろうとする、現実的な態度でもある。
徳川の全国政権というものは、無論、道理が通る平和な世をもたらすものとして肯定的な評価が生じ得るのであるが、その平和が力によってのみ担保されるものである以上、道理の通らない理不尽さを見せつけなれば、畏れ、を維持できないのである。
大坂略奪は敢えて弁護しようと思えば、上記のような理屈で出来なくも無いが、筆者はそうするつもりはまったく無い。これは単なる家康の狂態である。
これには本多正信も、将軍もおののいた。しかしこればかりは、家康は彼らの諫言を聞き入れることは無かったのである。
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将軍に拝謁した千姫に対し、諸将集まる面前で、秀忠は、
「なにゆえ、夫と命運を共にしなんだ。この不義者めがっ!」
と詰った。
これには義姉として、常高院も黙っていなかった。
「秀忠殿。そは、余りと言えば余りの申し状。千姫をひとり敵地に送り込んでおきながら、これまでの徳川のなさりよう、千姫の立場を失くすばかり。そなた様、親として恥ずかしくはありませぬか。まして将軍としては。千姫のこれまでの苦労に労いの言葉一つもないとは、それが上に立つ者のなさりようかっ」
その言葉には秀忠も怒り心頭に達したが、ぐっと呑み込んだ。仮にも相手は義姉である。礼を尽くすべき相手であった。
「義姉上。これはさすがに徳川内々のことにござる。口出しご無用。両名とも下がられよっ」
徳川の侍女らが、新たに千姫付となって、主を立ち上がらせて、奥へといざなった。
夜半になるまでに、豊臣秀頼、淀殿の死が確認され、さすがにこれは父が直々に伝えねばならぬと、重い気持ちを抱えながら、千姫の部屋を訪れた。
奥から追い出される形で、侍女筆頭の右衛門佐が、まずは将軍に応対した。
「そなたらはなぜ奥に居らぬ」
「姫様、ご不例にて。私どもの近寄りをお許しいただけませぬ。豊臣の侍女と、常高院様が奥におはします」
「そうか」
秀忠は構わずに奥へ入る。
常高院はさすがに将軍に平伏したが、千姫は、怒りとも悲しみともつかぬ眼差しで、父を見るばかりであった。
「秀頼殿、淀殿のご遺骸が見つかった。焼けただれてはおったが、まずは間違いなかろうとのこと。そなたは聞いておくべきであろう」
常高院も、さすがに伏したまま、声を押し殺して、泣いた。そこにいたのは豊臣の者たちばかりである。愁嘆の声が響き渡る。
「さようにございますか。わざわざのお報せ、ありがとうございます」
そう言うなり、千姫は、忍ばせていた守り刀を抜き、喉に当てようとした。
「なにをするかっ!」
秀忠が飛びつくように千姫を抱きしめて、自害を阻止した。刀が、秀忠を衣にあたり、裂いている。
「これは異なこと。上様のお望み通りのことをいたしますに」
千姫は父とは呼ばずに、上様と呼んだ。その眼差しはひたすら冷たい。
「千姫。お千! せっかく永らえた命じゃ、死ぬなっ!」
将軍の立場も、そも仮面も脱ぎ去って、ただの親として、ただの人として、秀忠は叫んだ。
「おかしなこと、あなた様が死ねと言うたのに。あなた様が私の夫も、義母も殺しましたのに」
「儂は、儂はしたくなかったのじゃ! あれは大御所様がっ!」
と言って、秀忠は、はっとなった。追い詰められた余り、父に罪をなすりつけようとしたことではない。家康は言った。豊臣は助ける、と。秀忠は豊臣を潰すことを主張した。しかしそれを退けた家康は、実際にはその後、一切の躊躇もなく、豊臣を滅亡へと追い込んでいる。
あれは家康は分かっていたのだろうか。
ともかくも形式上は、一度は豊臣を残すと決まった。それを将軍の意とせよと。父子の間で、いたずらに憎しみを作るなと。
「お千。済まぬ、済まぬ。儂を許してくれ。こうならぬよう、こうせねばならなくならぬよう、尽くしたつもりであったが、そなたを地獄へ追いやってしまった。生きるも地獄であるが、父のために生きてくれ」
「父上…」
ようやく、千姫も涙を溢れさせた。
「将軍など、なりとうはなかった。このような思いをし、我が子にかような思いをさせるならば、将軍になどなりとうはなかった」
それは真実の告白であった。
「父上。せめて、お二人のご葬儀を」
父も娘も滂沱の涙を流している。
常高院ももはや嗚咽をこらえはしなかった。
「済まぬ。将軍の娘たるそなたにはそれはさせられぬ。表向きはお二方は謀反人。内々でどなたかにお頼みするよりあるまい」
「されば京極の方で。松ノ丸様にお願い申し上げまする」
常高院が言う。
京、誓願寺は、豊家建立の寺ではあるが、実際には松ノ丸殿が寄進した寺である。北政所が動けば角が立つであろう。松ノ丸殿は数少ない豊臣の生き残りとして、また、浅井の血筋として、法事を隠れ行うには最適の人であった。
「お頼み申し上げまする、義姉上」
将軍は頭を下げた。
「お千。千姫よ。そなたにも、秀頼殿にも、苦労を強いたが、江戸の我らが安閑と暮らしていた訳ではないぞ。こたびのこと、お江にはどれほどの心痛であることか。どうか江戸に下って、母を慰めてはくれまいか」
「父上。なればひとつ頼みがありまする。こればかりは豊臣の御台として譲れぬことゆえ。国松の行方は知りませんが、秀姫は、私の手配で保護しております。出来ますれば国松のご助命を。秀姫の助命は絶対に譲れませぬ。私の娘として育てた姫にございます。秀姫が殺められるならば、私も父母を見捨てまする」
「それは大御所様のご判断によるが。おそらく国松殿のご助命はかなうまい。済まぬ。安請負は出来ぬ。しかし秀姫については。儂も将軍の位をかけて、大御所様に談判しよう。それまではの、両者のことは話すでない。知れば将軍として対処せねばならなくなる」
「お願いいたしまする、父上。どうかどうか、国松の助命をも。豊臣を継がせずともよいのです。高野山に僧として入れても。どうか伏してお願い申し上げます」
秀姫を保護せねばならぬ間は、千姫も死にはしないであろう。だから秀忠としても、秀姫一人助けるはやぶさかではない。しかし男子の国松は話が別である。だからこそ国松の行方を千姫もあらかじめ知らないでいたのであろう。
畿内の仕置きが終わるまでは、千姫と常高院は関白、九条幸家の邸宅に置かれた。そこには異父姉にあたる
完子は、豊臣に生まれた姫である。淀殿の養女であったが、既に幕府の計らいで、実母であるお江と将軍秀忠の「養女」に置きなおされている。徳川家としても九条家は朝廷工作のための重要な手段であった。
姉と語らう中で、千姫は少しずつ癒されていった。
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