第18話
吉興は激怒した。
たまたま、如水がその場にいたのだが、急報ということで書状を改めてみれば、怒りのあまり、息をするのも忘れるほどだった。
如水は諧謔のある人だったので、目の前で誰かが我を忘れる様子をすれば、冷静にさせる意味もあって、笑い事のひとつも言うのが性分だったのだが、その時ばかりは声をかけるのも控えた。
元々、多少のことには動じない吉興である。それがここまで顔色を変えるとは、如水も初めて見ることである。
吉興は読み終わると、そのまま、
「お改めを」
と如水に書状を差し出した。
他人事ではない。如水も眩暈がする思いだった。
すぐさま、如水は床に座り、吉興に平伏した。
「愚息のしたことで、申し訳ない」
「長政殿には、正直、怒りはありますが、まずは我らは…」
「家康がなぜこの暴挙を行ったか、踏まえねばなるまいの」
「はい」
時康からの書状には、波多野興次という家臣からの書状も添えられている。波多野興次は丹波亀山を吉興が領していた時に仕えた者で、波多野を名乗ってはいるが、丹波波多野氏とは血縁は無い。村雲党と呼ばれる忍びの頭目であり、吉興が使っている忍びの一人である。偏諱されていることからも分かるように、吉興の信頼が厚く、十三家老の一人である。
時康からは溶姫が連れ去られたこと、見星院が随行したことが書かれていたが、背景については、波多野興次の書状で知れた。
「伊達はともかく、蜂須賀、加藤、福島、まさしく豊臣の屋台骨に手を突っ込んできたようであるの」
「そして長政殿と溶姫。黒田と佐助も徳川の陣に降ったと見られましょう」
うむ、と如水は頷いた。
前田と徳川がにらみ合う中、豊臣恩顧の中枢が徳川についたとみられれば、一気に情勢が傾く恐れがある。まして両兵衛までもが、徳川についたとなれば。
「いかがする」
「上塗りするより仕方がありませんな」
黒田長政は如水の、溶姫は吉興の意を受けていると当然世間は見る。しかし如水当人、吉興当人ではない。
如水当人、吉興当人が前田につけば、それはそれ、これはこれ、に持ち込める。
佐助の動員兵力はおおよそ五千五百人。黒田の動員兵力は六千二百というところである。
佐助の場合は大坂には千人を置いてある。黒田もほぼ同数を長政が連れて行っていた。ただし、長政は伏見に滞在している。
如水は自身でも兵を連れていくべきかと吉興に訊いてみたが、今は早さが大事だということで意見の一致を見た。
数日後、最低限の準備を整えて、吉興と如水は、若松の港から大坂に向けて足早船の人となった。
大坂に着いてまず、港に近いのは黒田屋敷の方である。
溶姫と長政は慌ただしく婚儀を終えて、溶姫は、長政の母のみつ、櫛橋氏がいる大坂へと送られていた。
如水と長政が屋敷へ入れば、あちらこちらに蔵へ納めきれない溶姫の婚礼道具がまだ放置されていた。
どれも立派な造りで、葵があしらわれている。
「見事なものばかりよの、つまりは」
「はい。あらかじめ誂えてあったものかと。太閤殿下のご薨去を今か今かと待っていたに相違ありませぬ」
これだけの道具類、ひと月で揃えられるものではない。溶姫が攫われて、吉興が大坂に来るまで十三日、慌ただしく既成事実が作られてしまっていた。家康はあらかじめ策をたて、それに沿って行動している。背後に本多正信の意匠が見え隠れする。
「まあ、大殿に佐助様。このたびは、お詫びのしようもなく。もうしわけありませぬ」
飛び出すように出て来た櫛橋氏は、如水と吉興を見るなり、額を畳にこすりつけた。
「いえ」
「みつや。これはすべて長政のしでかしたこと。そなたが謝ることではない」
「それにしても。佐助様には申し訳なく。長政は何を考えているのか」
「奥方様。これからのことはおいおい。溶はこちらにいるのでしょうか」
「はい。案内いたしまする」
みつが自ら奥へと案内した。
「父上!」
吉興を見つけた溶姫は、転げるようにして吉興の方へ駆けてきて、その腰にすがった。
「お溶、すまぬな、こたびのこと、怖かったであろう」
頭をなでながら、吉興もいつしか涙を流していた。
見守っていた見星院も傍らに立ち、
「吉興殿」
と落ち着いたころに声をかけた。
「義母上、今度のことは恩に着ますぞ。ありがとうございました」
「いえ、私があなた様から受けた恩を思えばこれしきのこと」
ふと見れば、控える侍女らが二十名余り。
「かの者らは徳川の」
「ええ。家康殿がつけて下さった者らで」
どれも桁違いに豪華な衣装を着ている。溶姫の衣装もどれほど金がかかっているのか、金糸の刺繍が施され、見るからにあでやかである。
「衣装は徳川持ちですか」
「いくらでも新調してよいと。今後も家康殿が支払われるそうですが、溶姫の衣装は長政殿が用意したもので」
吉興と如水は顔を見合わせる。
「黒田の家も潰れそうよの」
「あなた様、溶姫の前で。仮にも黒田の家も大名。溶姫の衣装くらいで潰れはしませぬ」
それを聞きながら、見星院が吉興に耳打ちする。
「溶姫は他にも十着も長政殿にねだったとか。大層な着道楽ですよ、この子は」
と言った。
溶姫は自分のことを言われていると気づいたのか、言い訳するように、
「だって、大爺様がいくらでも作ってよろしいとおっしゃったのだもの。百万石でも使えばいいとおっしゃたのだもの。長政様は、徳川からお金を貰えばよろしいのよ」
と言った。佐助の曾孫たちには甘い家康である。いかにも言いそうなことではあるが、徳川から遣わされた侍女らの衣装はともかく、室となった溶姫の衣装代を仮にも大名の長政が徳川に請求するわけにはいかない。
吉興は拍子抜けした。
溶姫は案外元気そうであるばかりか、どうもこの境遇を楽しんでいるふしがある。
「くく」
その時、控えていた侍女の一人が笑った。吉興はその女を見た。
「これはご無礼を。私、内府様より遣わされました、溶姫様付上臈の竹生と申します。御挨拶申し上げてよろしいでしょうか」
「許す」
吉興は短く言った。徳川から遣わされてきたのであれば、吉興にとっては、言わば敵の女性官僚である。
どのような女かと見ていれば、その女が顔を上げると、驚きのあまり、そのまま固まってしまった。
「相変わらずの間抜け顔でございますね、吉興様」
竹生の物言いにその場にいた者たちは皆、仰天した。吉興が何か言おうとして言葉にならず、あわあわとしているのを見て、
「まったく、世話の焼ける正寿様だこと」
と竹生は立ち上がって、吉興の前に立ち、その手をとって、そっとその手を自らの胸に押し当てた。
「な、なにをするのだ! おあん!」
「あら、やっと、お気づきになられたようで。これ、お好きでしょ? 正寿様」
「莫迦なっ、姫の前で莫迦を申すなっ」
騒々しい騒ぎの果てに、場を移して、如水、みつ、見星院、吉興、そして竹生が、輪になって座っている。
「これはまあ、奇縁であろうの。竹生、いや、おあんが元は佐助の家臣の娘であったとは」
「家臣というような大それたものではありません。まあ、家来ですね。浅井が滅んで、佐助の家もたちゆかなくなり」
おあんは、吉興にとっては幼馴染であり、同年齢のはずなのだが、いつも吉興はからかわれていた。
「探したのだぞ。私が大名になったことは知っていたであろうが。なぜ戻って来なかった」
吉興はおあんを詰る。
「まあ、こちらにもいろいろ事情はありましてね。遠州に流れて、徳川に拾っていただいて。家康様付の侍女をしておりました。あ、お手付きではありませんので、誤解なきよう」
「はっ。ならばますます、私のことは知っていたはずだ。なぜだ、そんなに佐助に戻るのが嫌だったのか」
佐助正寿丸と浅井万福丸、そしておあん。幼い頃は城を抜け出して、山を駆け巡って遊んだ仲である。そして浅井万福丸が磔になった時。吉興とおあんは互いに命を駆けて、その遺骸を取り返した。小谷の山奥にあるその墓は、今も吉興とおあんしか知らないはずだ。
吉興にとっては、おあんは家族同然の女だった。
「なぜって、正寿様の初恋の相手は私でございましょう?」
「はあ?」
「正寿様は、こう、金魚の糞みたいに思い切りが悪い方ですから。会ってしまえば側室に、なんてことになるかも」
「なるか、たわけが」
「いいえ、あなた様はご自分を買いかぶり過ぎです。あなた様は、ご自分で思っているよりずっと女々しい」
そう断言するおあんに、見星院は思わず噴き出した。如水はしきりに頷いている。
「義母上…如水様…」
「まあこれでも徳川には拾ってもらった恩がありますからね、佐助のご内室と寵を争うような真似だけはしたくなかったのです。そうこうするうち、溶姫様が徳川に迎えられたではありませんか。徳川から上臈を出すと言うので、私がお受けしました。徳川にも佐助にも面目が立ちますからね」
そう言って、おあんはふいに真面目な顔になり、吉興を見る。
「まさか、正寿様は、溶姫様をお連れ戻すおつもりではありませぬな」
既に婚儀はなされたのである。これをひっくり返せば、溶姫も傷物になるし、家康の面子を潰すことになる。
「それは、甲斐守殿次第よの」
「無理に連れ戻そうとすれば戦になりますよ。この屋敷の手勢、如水様の差配には従いませぬ。姫様のことは、この私が命に代えても守り抜きます、いざとなれば、徳川を裏切っても、佐助を犠牲にしても、姫様は守り抜く覚悟。どうか、私を信用していただけませんか」
「そなたを信じるとか信じぬとか、そう言う話でもないのだ、おあん」
会ってみれば、溶姫は意外と伸び伸びとしている。今のところは長政からも可愛がられ、みつも細かく世話を焼いてくれている。徳川の侍女らは腹立たしいが、おあんが守り抜くと言ったのであれば、きっとそうするだろう。おあんはそういう女だ。
純粋に、縁組として言えば、決して悪いものではない。
黒田も大大名であり、表面上は黒田と佐助は諍いがあったが、如水は半兵衛の弟子の吉興を、信教上の対立がありながらも、思いやってくれている。世の酸いも甘いも知った人だ、如水が後ろにいてくれるならば、溶姫も安心だろう。
長政も、吉興の印象は悪くはない。きっちりきっちりした男で、礼節も、慈悲もそれなりに知っている男である。智謀武勇においても並の武将ではない。如水から見れば及ばぬ愚息ではあろうが、そもそも如水と較べることが無理難題なのだ。
黒田の家には姫が長らくいなかったこともあって、みつは楽し気に溶姫の世話を焼いている。溶姫は邪心が無く、甘え上手なのだ。長女でありながら末っ子気質で、その分、次女の東姫がしっかりしている。
蜂須賀から迎えられていた前の室は、いかにも蜂須賀らしく武骨で気短だったらしいから、みつにしてみれば溶姫の方がよほど可愛い嫁である。
先妻の子がいるわけでもなく、溶姫は徳川の姫として輿入れしているから、もっと時期が後にならないと長政は側室も置かないだろう。
遅くてもここ数年の内には溶姫の縁談をまとめねばならなかったのだ。吉興が自分で縁談をまとめるとして、考えられる案件よりも、この結婚ははるかに好条件ではあった。
溶姫にとっても、佐助にとっても。
暮れなずむ頃になって、伏見より、黒田長政が到着した。
どう判断するにしても、この男の真意を確かめなければならない吉興であった。
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